NHK BS歴史館
シリーズ・今いてほしい!? 日本を変えたリーダーたち②
会津藩主・保科正之 ~知られざる名君 ”安心の世” を創る~
作家 中村彰彦
「江戸時代に副将軍格という言葉が出てきますが実際に副将軍格の立場で活躍したのは保科正之だけです。内閣総理大臣であり、且つ福島県知事のようなものです。私がいろいろ日本史を勉強してきて最も尊敬できる日本人だと思っています」
漫画家 黒鉄ヒロシ
「世界史的に見てもこんなに瑕疵のない完璧に近い人間はいないと思います…徳川というより、保科正之がいなかったら日本人の体質が変わっていたかもしれないと思いますね」
静岡文化芸術大学 磯田道史 准教授
「この人がいたから徳川の時代が長かったと思います。もし保科正之がいなかったら徳川は4代ぐらいでかなり危なかったとさえ言われています」
首都の中心に広がる皇居はかつての江戸城、ここには城の象徴、天守閣がありません…なぜか土台だけが残っています。…今から350年前の火事で天守閣は焼失、そのまま再建されなかったからです。
史上空前の大火災
明暦の大火
明暦3(1657)年1月18日、本郷から出火した火の手は、あっという間に燃え広がり、江戸城にまで迫って来ました。
災害時のリーダーシップ①
将軍・家綱非難問題
幕閣たちは将軍・家綱をどこへ避難させるかで議論します。松平信綱は火事の風上にあった上野寛永寺を主張、酒井忠勝、井伊直孝はそれぞれの別荘やお屋敷に迎えようとします。
そこへ進み出たのが保科正之、こう進言しました。
「本丸に火が回ったら西の丸へ移ればよい。さらに西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てればよい。場外へ将軍を動かすなどもってのほかだ」
リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えた正之、将軍を江戸城へ留置く事で災害対策本部を明確にしたのです。
災害時のリーダーシップ②
浅草米蔵消火問題
更に火の手は幕府財政の金庫ともいえる浅草の米蔵に迫りました。火消したちがことごとく出払っている非常事態に正之は驚くべき奇策を打ち出します。
それは、『米蔵の米、取り放題』というお触れ…今は国家の金庫を解放し、現金つかみ取りの大盤振る舞いをするようなもの…飲まず食わずの被災者たちは、食糧欲しさに必死に火を消しながら米蔵へまっしぐら。
被災者が火消役となり、消失するはずの米が緊急救助米に早変わり、一石二鳥をもたらした正之の奇策、そこには正之の人間に対する鋭い洞察力があるといいます。
10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町、正之は火事に強い不燃の都市を目指し復興に着手します。…幹線道路の拡張計画、火が広がるのを広い道路で防ごうとしたのです。上野広小路はこの時、作られました。
また被害状況を調べた結果、多くの人が隅田川に飛び込み溺死したことがわかりました。当時敵の侵入を防ぐため隅田川に橋をかける事が制限されていました。しかし正之は両国橋を建設、軍備より市民の安全を優先、それは江戸が隅田川を越えて発展するかけ橋となったのです。
災害時のリーダーシップ③
江戸城天守閣再建問題
最大の議論となったのが焼け落ちた江戸城天守閣の再建問題、天守閣は武家政権の象徴、大火の翌年には土台の石垣が完成しました。
しかし正之は再建に反対、「天守閣はただ遠くを見渡すための物見櫓に過ぎない…今は江戸の町の復興を優先すべきである」…その結果、天守閣再建にかかる費用や建築資材は復興に回され、天守閣が再建される事はありませんでした。
大災害を逆手に取り、民の安全を第一とした正之の新しい町造り、江戸は世界に例のない100万都市へ発展していったのです。
会津藩主・保科正之
”安心の世”を創る
福島県会津若松市、戦国の世から江戸時代にかけて伊達、上杉といった有力な大名が入れ替わり領有した東北の要の地です。…赤い瓦の若松城は難攻不落の要塞、戊辰戦争では新政府軍を大いに苦しめました。
寛永20(1643)年、保科正之が初めてお国入りした頃の会津は、前藩主による過酷な年貢の取り立てと寛永の大飢饉によって国土も荒廃していました。
正之は領民の生活を第一に考え、藩政改革を始めます…まず検地をやり直し藩の正確な石高を割り出します。その結果、前藩主が実際の取れ高よりも2万石分多く年貢を取り立てていた不正が発覚、正之は年貢を低く修正、つまり減税したのです。
すると感動した農民たちは隠し持っていた水田(隠田)を自主的に申告、その石高はなんと2万3000石にのぼり、むしろ3000石プラスになったのです。
減税で農民の負担を軽くした正之は、明暦2年、飢饉に備えた大胆な経済政策に着手、それが『社倉制度』です。
社倉とは米蔵の事、藩が米を備蓄し、凶作や飢饉のときに被災者に貸し出したのです。貸したコメは豊作の際に返済(利息2割)すればよいとしました。
初め7000俵からスタートした社倉は10年後には2万3000俵、幕末には10万俵と拡充の一途をたどったのです。…この社倉の充実により、会津藩では度重なる東北大飢饉でも餓死者を出さず、農民たちの暮らしは安定しました。
更に正之は世界初といえる数々の福祉政策にも着手して行きます。たとえば領民だけでなく旅人が無料で医者に診てもらえる制度、商人が安心して会津に訪れるようになり、経済を発展して行きました。
もっともユニークな福祉政策は、90歳以上の老人に与えた養老扶持、齢をとって働けなくなった老人は一家のお荷物とされた時代、会津では長生きは良い事として表彰され生涯年金をもらえたのです。
正之の数々の福祉政策によって会津の人口は急増、生活の心配が無く、長生きのできる安心の国になっていったのです。
スーパー名君 保科正之
出生の秘密
会津藩政を刷新し、幕政をも取り仕切るスーパー名君・保科正之、その才能の裏には複雑な出生の秘密が隠されていました。
慶長16(1611)年、正之は江戸市中の神田白銀町に生まれました。幼名・幸松、母・お静は身分の低い浪人の娘、父親とは生涯対面する事はありませんでした。
その父親とは、二代将軍・徳川秀忠…つまり正之は将軍のご落胤、三代将軍・家光の異母兄弟だったのです。
本来なら江戸城大奥で将軍の子として育てられるはずだった正之、しかし彼は身を隠さざるを得ませんでした。その理由は、秀忠の正室・お江、嫉妬深く、決して側室を認めなかった彼女を恐れた秀忠は正之を認知しませんでした。
お江に見つかれば命の危険さえあったのです。…そんな母と子を保護したのは武田信玄の娘・見性院でした。正之の存在を知ったお江は引き渡しを要求しますが見性院は毅然とことわり、正之を守り抜きました。
元和3(1617)年、7歳になった正之、見性院は武家の教育を受けさせるため、正之を旧武田家家臣で信州高遠藩藩主・保科正光に託します。
高遠は日本アルプスの急峻な山々に囲まれた石高僅か3万石の小藩、耕作地に恵まれず、三峰川の度重なる洪水は領民を苦しめました。そこには武田家伝来の治水事業(霞堤)が施されているといいます。
霞堤は堤防にわざと小さな切れ目を作り、増水した川の水を逃がす事で大規模な洪水を防ぐ工夫です。保科家に伝わる豊富な治水や土木知識が後の江戸復興計画に活かされたのです。…正之はここ高遠で民の為の政治を学んだのです。
それをうかがわせるエピソードが残っています。少年時代、正之は教育係の家臣と馬で領内を回って領民の暮らしを目の当たりにしました。…ある時、こんな事を教えられました。
「馬を農家の庭に入れてはいけません…穀物や野菜を食べてしまったら農民は哀しむばかりか配慮が足りない殿様にがっかりしてしまうからです」
高遠で地方政治の基本を身に付けた正之、養父・正光の後を継ぎ、寛永8(1631)年、21歳で高遠藩3万石の藩主となりました。
高遠藩主として晴れて江戸城に上った正之、腹違いの兄・将軍家光との初めての謁見に臨みました…登城した正之は大名衆の末席に座りました。本人は公言しないものの正之が将軍の弟であることは城内に知れ渡っていました。
大名たちは正之に上座に座るよう促します。しかし正之は動こうとしません。正之は「私は小さな藩の藩主で若輩者ですから」と…家光は正之の謙虚な態度に好感を持ったといいます。
家光の信頼を得て重要な仕事に抜擢された正之、父・秀忠の墓所の造営、朝廷へのお供などでその政治手腕を認められ、寛永13(1637)年26歳で山形藩20万石に転封、石高7倍増という異例の大出世でした。
その翌年、幕藩体制を揺るがし正之にも影響を与えた大事件が九州の一地方から始まります。寛永14(1637)年、迫害を受けたキリシタンや農民が天草島原各地で武装蜂起した島原の乱…幕府は12万の軍勢で一揆軍3万人あまりを殲滅、反乱を鎮圧します。
領主の過酷な年貢の取り立てや圧政もこの反乱の大きな原因、領主たちは責任を問われ、お家断絶…この事件は地方行政にもはかり知れない衝撃を与えました。…圧政が原因で反乱が起これば領主も民も傷つく、正之は民の為の更なる善政へ邁進して行くのです。
保科正之の
マネージメント術
21歳で高遠藩3万石の藩主になった正之、5年後には山形藩20万石、その7年後には会津藩23万石の藩主に大抜擢されました。
僅か12年で3つの領国を渡り歩いた正之、その家臣団もそれぞれの藩で現地採用された寄せ集め集団でした。家臣団をどうまとめ、いかに機能させるかその過程から現代の企業合併にも通じる卓越したマネジメント術を生み出します。
1.徹底した能力主義…当時の武士の給料システムは、藩主から土地を与えられる知行制でその土地は能力に係わらず代々受け継ぎました。
しかし古くからの藩と新しい藩を合体させた正之の家臣団には土地を守る知行制は不公平の元、そこで米を現物支給する蔵米制を導入、いわば能力に応じたサラリー制です。
2.家臣団の人事配置に気を配ります…普通23万石もの藩には1万石クラスの重臣が数人いて藩主を頂点にピラミッド型に配置します。
しかし会津藩ではトップの城代家老でも4000石止まり、家臣の不満が出ないよう禄高を平等に抑え、より多くの人材を直臣としました。
それによって藩主の意図や指示は的確に多くの家臣に伝わり、家臣も政策や意見を直言できます。この人事制度で会津の家臣は切磋琢磨し、正之を支える強力な官僚組織となって行きました。
保科正之の最大事業
江戸幕府 大転換
慶安4(1651)年 20年に渡って正之を重用した三代将軍・家光は病に倒れます。家光は臨終に際し、正之を枕元に呼び寄せ、「家綱を頼むぞ」家光は幼いわが子・家綱(11歳)を正之に託したのです。
この遺言によって4代将軍・徳川家綱の後見人となった正之、家光の恩に報いる為、文字通り身命を投げ打って家綱と幕府の為に尽くします。
慶安4(1651)年、家光の死から3ヶ月後、幕府転覆を謀った慶安の変が起きます…由井正雪らを首謀者とし、1500人の浪人がかかわったというこの反乱は直前に発覚し、事無きを得ました。
3代家光までの治世は武断政治と言われ、大名改易で131の大名家が取り潰されました…その結果、職にあぶれた浪人が大量に生まれ将軍家を恨む不満分子となっていたのです。
力で抑える政治のままでは、いずれ政権は崩壊する…この事件を機に正之は人生最大の政治改革に着手します…幕政を大転換する3つの平和政策。
1.末期養子の禁の緩和
末期養子とは後継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎えるお家の存続を図ること…それを幕府は禁じていました。後継ぎのいない大名家を取り潰し、徳川の権力を盤石にする為でした。正之は、末期養子を認める事で幕府の強権支配を改め、諸藩との共存共栄を図ったのです。
2.大名証人制の廃止
大名の家族や家臣を人質として差し出させ謀反を防ぐ制度…この廃止は幕府の和平路線を決定づけました。
3.殉死の禁止
更に正之は、武士の生き方の根本精神をも大転換させます。…殉死の禁止、殉死とは主君が死んだ後、家臣が後を追って切腹する事で忠義を示す行い。実際に将軍・家光の死後、二人の老中(堀田正盛、阿部重次)が後を追って殉死しています。
三つの平和政策によって武断政治から文治政治へと幕政を転換させた正之、以後幕府は武力ではなく、人々を信頼し安心させる事で平和の時代へ導いていったのです。
武士のあり方、幕府のあり方まで変えた保科正之、その後200年続く平和の礎を築いたのです。
名君!保科正之
受け継がれる会津魂
寛文9(1669)年、家光の遺言を守って幕府の舵取りを続けてきた正之は、59歳で隠居を許されます。その時、自らの記録文書を残らず焼却、正之の手柄は全て将軍・家綱の功績として語り継がれてゆきます。
翌年、23年ぶりに会津に戻った正之、既に病で目が見えなくなっていたといいます。正之は晩年教育に力を注ぎ、人材の育成に努めました。
正之が支援した稽古堂は身分の隔てなく学べる学校、この稽古堂は藩校・日新館へ発展、その後の会津藩や幕府を支える有能な人材を数多く輩出しました。
一身を投げ打って幕府と会津の為に尽くした保科正之、寛文12(1672)年、62歳でその生涯を閉じました。
地元の学校では10年前から正之の精神を見直そうと『あいづっこ宣言』を唱和しています。
『あいづっこ宣言』
1.人をいたわります
2.ありがとう、ごめんなさいを言います
3.がまんをします
4.卑怯なふるまいをしません
5.会津を誇り、年上を敬います
6.夢にむかってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです。
この宣言は、保科正之の教えに基づいて作られたのです。正之の教えとはどのようなものだったのか…それは保科正之から始まり、代々会津藩主が引き継いでいった『会津藩家訓十五箇条』です。
えこひいきすべからず…法を犯すものは許すべからず…正之の平等精神や法治主義が反映された条文、その第一条には、…「将軍家を大切にして何があっても絶対に忠誠を尽くすべし」とされています。
他の大名家がどう動いても会津藩だけは決して将軍家への忠誠を忘れないようにと、もし忘れた場合は私の子孫ではないから家臣たち従わない様にということで、その覚悟までも含めた非常に強いメッセージを込めた条文になっています。
しかし正之の教えが強固に根付いた結果、会津藩は悲劇の運命をたどる事になります。
文久2(1862)年、幕末・京都、幕府は尊皇攘夷派の集まった京都の治安維持のため京都守護職を設置、この重責を命じられたのが会津藩9代藩主・松平容保、躊躇する容保を最後に動かしたのはこの言葉でした。
「藩祖 正之公の教えをお忘れか」
正之公の教え、それに従った容保と会津藩は最後まで明治新政府軍に抵抗、そして江戸幕府と共に滅びの道へ突き進んでいったのです。