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原爆投下 活かされなかった極秘情報

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NHKスペシャル
原爆投下 活かされなかった極秘情報

太平洋、北マリアナ諸島ケニアン島(旧ノースフィールド飛行場)より、広島・長崎への原爆を積んだB29爆撃機が発進したのです。

今まで広島・長崎への原爆投下は、まったく想定外の奇襲攻撃とされていました・・しかし実際は日本の諜報部隊が原爆投下を巡る動きを事前に察知していたのが明らかになったのです。

新たに分かった事として軍が危険が迫ってきた事を知りながら何も手が打たれなかったという事実です。

陸軍諜報部隊は原爆投下2か月前からケニアン島で活動を始めた特殊任務機の追跡を開始、8月6日も広島に向かうその動きを掴んでいました。

更に長崎では、原爆を積んだB29爆撃機が迫っている事を軍幹部が5時間も前に知っていたのです・・何か打つ手は無かったのか・・これまで固く口を閉ざしてきた当事者たちが語り始めました。

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東京・杉並区にある緑に囲まれた一角に今も残るのが陸軍特殊情報部です・・敵国に対する諜報活動を専門にする参謀本部直属の部隊でした。

昭和20年の東京大空襲アメリカはこの頃から日本各地への無差別爆撃を本格化させていきました・・特殊情報部は100人以上を動員して24時間体制でB29が発進するモールス信号を傍受していたのです。

その殆んどは暗号化されていましたが冒頭に暗号化されていない短い信号があります・・コールサインです・・アルファベットのVに続く3桁の数字で発信者が誰かを知らせる符号です。

コールサインのほとんどが当時のアメリカ軍の拠点、マリアナ諸島から発信されていました・・特殊情報部はある特徴に気付きます・・島ごとにB29が発信するコールサインが決まっていたのです。
サイパン島:V400番台
グアム島:V500番台
テニアン島:V700番台
コールサインを傍受すれば何時・何機のB29爆撃機が飛び立ったのかわかりました・・追跡を続ければどこに向かっているかも予測できたのです。

原爆投下2か月前、特殊情報部はテニアン島から発信されるV600番台のコールサインを傍受します・・V400・V500・V700番台は200機、300機単位ですが・・V600番台のB29爆撃機は数が少ないのです。

特殊情報部は増員してテニアン島への警戒を強めて行きます。

参謀本部 堀栄三 陸軍少佐(肉声の録画テープ)
「600番台のコールサインを持つ部隊は正体不明の部隊である・・その番号を丹念に拾ってみますと12~13機しかない・・今までの戦隊は100機以上あったのですからこれはおかしい・・その内に ”特殊任務機”という名前で呼びだしたんです」

堀少佐は少数で行動する部隊の異常さに気付いていました・・特殊任務機の上報は参謀本部の上層部にまで伝えられました。

世界に先駆け原子爆弾の開発を進めたアメリカ、20億ドルもの巨額な予算がつぎ込まれた開発計画はこの頃ようやく実現の目途がたっていました・・実はアメリカが原爆の開発を進めていたのを陸軍は早くから掴んでいました。

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原爆投下2年前の昭和18年春、当時陸軍大臣だった東条英機は兵器担当幹部に語った言葉が残されていました・・「原子爆弾は、特にアメリカの研究が相当進んでいるという情報がある・・この開発は戦争の死命を征する事になるかもしれない」・・その上で東条大将は命じています。

原子爆弾の開発を航空本部が中心となってこれが促進を図れ」・・です。

日本中からえりすぐりの人材が集められました・・その一人、木越邦彦さん(92歳)です・・原爆に使うウラン化合物の開発を任されています。

木越さん達を率いていたのは、理化学研究所仁科芳雄博士でした・・原爆の開発を急ぐ陸軍から頻繁に呼び出されて進捗状況を聞かれていました。

しかし昭和20年6月末、陸軍は仁科博士に託していた原爆開発を断念します・・相次ぐ空襲や資材不足などで研究を続けられなくなったのです。

ところが陸軍が作成した報告書には、まったく別の理由が記されています・・「放射性ウランの分離は不可能になった。アメリカ側においてもなし得ざるものと判明せり」。

自分たちが開発を断念する口実として、根拠もなくアメリカも出来ないと決めつけていたのです。

原爆開発に携わった木越邦彦さん(92歳)
「何か理由が無くちゃいけない・・こういうやめるって事を言い出す事が難しいでしょうから・・アメリカで上手く行きそうだと考えると完全に戦争に負ける事になりますから・・そう言う事は想像する事すら禁止されているような環境ですからね」

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1945(昭和20)年7月16日、その直後、アメリカは初めての原爆実験に成功します・・この情報は断片的に参謀本部へも伝わっていました・・しかし原爆だと認める者は誰もいなかったと言います。

原爆開発に携わった木越邦彦さん(92歳)
「もちろんその当時でもこれが原子核分裂の爆弾だとおそらく想像していたと思いますよ・・日本でこんな小規模で研究をやっても上手く行くわけがないので上手くゆくんだったらアメリカが当然さきにやるだろうと考えていました」

アメリカが原爆開発に成功したという事実に目を向けようとしなかった陸軍、テニアン島の特殊任務機の正体は不明とされたまま、あの日がやってきたのです。

8月6日午前3時、陸軍特殊情報部に緊張が走ります・・あのV600番台のコールサインを傍受したのです・・特殊任務機が日に向かっている・・参謀本部の堀少佐の下に情報が入りました。

参謀本部 堀栄三 陸軍少佐(肉声の録画テープ)
「8月6日 このコールサインが短い電波を出したんです・・その電波がワシントン向けだったんです」

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この日の未明、周辺の都市にB29の大編隊が次々と来襲していました・・西宮、今治宇部、空襲の情報を事前に掴んでいた東京の参謀本部は各地の司令部へ連絡、それを受けて司令部は空襲警報を発令しました。

広島の司令部は空襲に備え地下壕に設置されていました・・次に襲われるのは広島かもしれない・・夜が明けた8時過ぎ原爆投下1時間前、1機のB29が広島に入りました。

参謀本部 堀栄三 陸軍少佐(肉声の録画テープ)
「午前7時20分ごろですね・・豊後水道から広島に入ってきた飛行機があるB29です・・これは気象偵察機です・・これがやっぱりV600番台のコールサインを送ったんです・・これはタダごとじゃないと・・特殊任務機が近づいてきたとわかったわけです」

しかしこの情報は参謀本部から広島司令部に伝えられませんでした・・気象偵察機の後から特殊任務機が迫っている事を知らないまま司令部は警戒態勢を解除したのです。

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昭和20年8月6日、午前8時15分、B-29爆撃機エノラ・ゲイより原子爆弾リトルボーイが投下されます・・無防備のまま多くの命が失われます・・しかし空襲警報が出されていたならば多くの人が助かったのです。

特殊情報部員 元陸軍少尉 長谷川良治さん(88歳)
「上官たちが自分の上げた情報、自分の意見が聞いてもらえなかった残念だという顔がありありと見えていました」

昭和20年8月7日、原爆投下の翌日、広島壊滅の知らせを受けても陸軍はそれが原子爆弾だと認めようとはしませんでした・・東郷茂徳外務大臣が事実の確認を迫りました・・それに対して陸軍幹部はこう答えています。

アメリカでは原子爆弾とか言っているけど非常に力の強い普通の爆弾と思われる」・・原爆を否定する陸軍がその影響を非常に小さく見せようとしていたと東郷外務大臣は述べています。

しかし参謀本部は広島に落とされたのが原子爆弾だと内部では認めています。

昭和20年8月8日、原爆投下2日後、特殊情報部の中庭で参謀本部による表彰式が行われました・・原爆機のコールサインを突き止めた功績が評価されたのです・・表彰式に出席した人物がいました。

特殊情報部 元大尉 田中國夫さん(90歳)
「これが最も恐ろしい原子爆弾w積んでいる飛行機だと・・同じようなコールサインのやつが今度飛べば全部それを追跡して撃滅すると・・お前さんらみんな御苦労さんだったとねぎらいのお言葉をいただきました」

その翌日長崎で悲劇が繰り返されます・・。

8月9日未明、再びV600番台のコールサインが傍受されます・・広島の時と全く同じV675です・・発信元も同じテニアン島でした・・このコールサインを実際に傍受していた人がいました。

諜報部隊 元中尉 大田新生さん(90歳)
「広島に原爆を落としたB29が使っていたV600番台の電波を使ってテニアンの飛行場から通信、内容はわかりませんが傍受しました・・これは普通でないと思って非常に不安を感じました・・同じものが数時間後に日本国内のどこかに落とされる危険大」

この情報は軍の中枢にまで伝わっていました・・それを裏付ける新たな資料が防衛省防衛研究所で見つかりました・・資料を残していたのは参謀本部の井上忠雄中佐、参謀本部のトップ、梅津美治郎 参謀総長に情報を伝える側近でした。

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井上中佐が重要な情報を書き止めておいた備忘録の中に8月9日の事を記した走り書きが残されていました・・「特殊爆弾V675・・通信上、事前に察知す・・長崎爆撃5時間前」・・原爆機接近の情報は5時間も前に参謀本部の中枢にまで伝わっていたのです。

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長崎から北へ15キロ、大村の飛行場にはこの頃、九州全域を守るため戦闘機部隊が配置されていました・・その部隊でパイロットを務めていた本田稔さん(88歳)・・本田さんたちが乗っていた飛行機、紫電改です。

B29が飛ぶ高度1万メートルまで飛行可能な数少ない戦闘機でした・・本田さんは原爆を積んだB29が来たら体当たりしても落とさなきゃならないと覚悟を決めていたといいます。

8月9日午前9時、テニアン島を飛び立ったB29爆撃機ボックスカーは原子爆弾ファットマンを搭載して九州に接近していました。

最初に向かったのは福岡の小倉、しかし視界が悪かったため攻撃目標を切り替えます・・ボックスカーは島原半島を西へ進み次の目標、長崎へと向かったのです。

しかし本田さんたちの戦闘機部隊に出撃命令が出される事はありませんでした・・長崎に向かうB29は確認されていましたがそれが原爆機であるという情報は伝えられていなかったのです。

戦闘機部隊 元パイロット 本田稔さん(88歳)
「落ちない飛行機じゃないんですB29は・・今なお悔しいですね・・なんで出撃命令を出さなかったのか・・それだけ情報が無かったんですかね・・」

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この時、軍の上層部は何をしていたかと言うと…
8月9日午前10時30分より、皇居で最高戦争指導者会議が開かれていました・・更なる戦況悪化を伝える情報が入っていたのです。

中立を守っていたソビエトが日本に対し宣戦布告、満州との国境を超えてきたのです・・ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏するかどうかがこの日の議論の焦点でした。

降伏すれば天皇の地位はどうなるのか・・自分たちは戦争犯罪人として厳しく処罰されるのではないか・・みな結論を出しかねていました。

この会議の席で梅津参謀総長ら陸軍幹部は、広島に原爆を落とされて尚、戦争は続けられるとこう発言しています・・「原子爆弾の惨禍が非常に大きい事は事実であるが果たしてアメリカが続いてこれをどんどん用いるかどうか疑問である」(梅津美治郎 参謀総長

第2の原爆投下は無いだろう・・原爆機が長崎に向かっていたその時でさえ根拠の無い主張を繰り返していたのです。

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8月9日11時2分 まだ会議が続いていたその時、長崎に原爆が投下されます・・またしても空襲警報さえ出されませんでした。

諜報部隊 元中尉 大田新生さん(90歳)
「悔しいったらありゃしない分かってたんだから・・何か努力をしてくれてそれでも駄目だったら諦められるかもしれないけど・・我々が上げた情報をゼンゼン使った形跡がないからよけい悔しいです」

大村の飛行場で出撃を待っていた本田さんは、そのご次々と運ばれてくる被爆者を病院に運ぶ任務についていました。

戦闘機部隊 元パイロット 本田稔さん(88歳)
「軍人として本当に情けない申し訳なくて・・・」

原爆投下の5時間前に原爆機接近の情報を軍の中枢が掴んでいたと言う新たな事実を本田さんに伝えると…

本田さんは66年経った今、その事を初めて知りました。

戦闘機部隊 元パイロット 本田稔さん(88歳)
「(しばらく沈黙して)・・・分かってたらなんで出撃命令ださんのだ・・5時間もあったら十分対処できた・・(長い沈黙)・・これが日本の姿ですかね・・こんな事、許しとったらまた起きるんじゃないですか」

日本の降伏が決定的となった8月11日、特殊情報部にある命令が下されました・・”諜報記録を始めとする全ての情報を破棄せよ”でした。

長谷川良治さんは資料を燃やすよう命じられました

特殊情報部員 元陸軍少尉 長谷川良治さん(88歳)
「焼けたら必ず灰を粉にしなさいと言われた・・証拠隠滅、こういう部署が無かったと言う事です」

長谷川さんは、終戦を迎えるまで資料を燃やし続けたと言います。

原爆投下をめぐる動きを軍が掴んでいたという事実も全ては無かった事にされたのです・・広島と長崎、無防備な人たちの頭上に相次いで投下された原子爆弾、多くの尊い命と営みが一瞬にして奪われました。

危険が迫っている事を知りながら最後までその重大な情報を伝えなかった軍の指導者たち・・二度にわたる悲劇は、国を導く者の責任の重さを今の時代に問いかけています。