旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

運命の一瞬・東郷ターン ~日本海海戦の真実~

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NHK その時歴史が動いた
運命の一瞬・東郷ターン ~日本海海戦の真実~

ロシア第2の都市、サンクト・ペテルブルグ、かつての帝政ロシアの首都です。帝政ロシアは強大な軍事力で領土拡張を続けていました。

19世紀の末、その脅威は極東の日本にも及びます。ロシアは中国東北部に進出し、旅順に強力な艦隊を配備、更に朝鮮半島への進出を図ります。

一方、日本は明治維新から30年、ヨーロッパの先進国に追いつくことを目指しながらも未だ工業化も発展途上の弱小国に過ぎませんでした。ロシアの進出によって日本もその脅威を受けるという危機感が国を覆いました。

日本海軍はロシア艦隊に対抗して最新の軍艦を揃えた連合艦隊を編成します…その司令長官に任命されたのが東郷平八郎です。

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明治維新以来、多くの開戦に参加し、この時58歳…慎重、決断力に富む、勉強熱心、東郷は高い評価を受けていました。

明治4(1871)年、25歳の東郷はイギリスに留学しました…当時のイギリスは最も海軍力が進んだ国でした。東郷の使命はイギリスで航海術や操船能力を学ぶ事でした。

イギリスに到着した日のことを東郷は日記にこう記しています…「6月4日、英国へ安着、嬉しくも思いし恐にもなり、明けくる日をばいかに学ばん」

東郷の成績表が英国海運資料館に残されています…入学2年目の成績表には、「基本能力、応用力は平均点だが行動力は抜群(エクセレント)」と記されています。東郷の帰国の頃から日本海軍は近代化に乗り出し、軍備を増強し始めました。

明治37(1904)年2月、日露戦争が始まりました…日本の陸軍は緒戦でロシア軍をや破り、中国東北部に戦線を進めます。しかしロシアが反撃に出ます…大陸に兵隊や物資を送るための補給路を攻撃してきたのです。

ロシアは旅順やウラジオストクに戦艦7隻を含む強力な艦隊を配備していました…日本の輸送船はロシア艦隊によって僅か3ヶ月で13隻も沈められました。

東郷率いる連合艦隊の任務は、このロシア艦隊を撃滅し、補給路を守ることでした…しかし開戦間もなく連合艦隊を震え上がらせるニュースが飛び込んできました。ロシアはヨーロッパのバルト海にいた強力な艦隊を援軍として日本海に送るというのです。

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バルチック艦隊です…戦艦8隻を擁する30隻余りの大艦隊、その主力は明治37年10月15日、ロシアを出港、地球を半周する航海の途につきます。これほどの大艦隊がこれほどの大航海をするのは史上初、日本海海戦まであと7ヶ月の事でした。

開戦当時の戦艦数
日本連合艦隊:6隻
ロシア旅順艦隊:7隻
バルチック艦隊:8隻
数の上では日本の戦艦6隻に対してロシアは15隻、倍以上の差があります。…この差をどう埋めるのか秘策は“丁字戦法”です。


東郷の秘策、丁字戦法

丁字戦法は、日露戦争の5年前、東郷が校長を務めていた海軍大学校で生み出されました…その原点は教官の山屋他人が考案した円戦法でした。円戦法とは敵艦隊の回りを回りながらまず先頭の敵艦に攻撃を集中して倒す先方でした。しかしお互いの艦隊が進むにつれ、すれ違いが起こり敵艦隊を逃してしまいます。

この欠点を同じく教官だった秋山真之が改良します…これが丁字戦法でした。丁字戦法は横一列に敵の進路を遮ります…敵を逃げられないようにして全ての砲門を敵艦隊の先頭に集中させます…こうして敵艦を一隻づつ沈めて全滅させる戦法でした。日本古来の水軍の戦法をヒントにしたものです。

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愛知工業大学 野村客員教授
「敵の最も重要なところ、水軍なら大将が乗っている船、日本海海戦なら敵の旗艦に攻撃を集中させる。この考え方は昔の水軍と同じ発想です」

日本海海戦の前の年の8月10日、東郷の連合艦隊は旅順のロシア艦隊と対決します…ロシア艦隊は旅順を出て日本海を突破してウラジオストクに逃げ込もうとしていました。

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連合艦隊は旅順に急行、敵艦隊を殲滅しようと丁字戦法を実行しました…黄海開戦です。東郷は主砲の射程距離である8000mで丁字が完成するように敵の1万メートル先でターンを命じました。

しかし敵艦隊は進路を反対に取ってしまいました…慌てて追撃するものの連合艦隊は敵を逃してしまいます…丁字戦法は失敗に終わりました。

海軍に代わって旅順ロシア艦隊を撃滅するために陸軍が旅順を攻撃することになりました…陸軍は半年かけて旅順を占領、陸上からの攻撃で旅順艦隊を撃滅します。

日本軍の死傷者6万人、あまりに大きな代償でした…黄海開戦で敵を逃した東郷は、後に“黄海開戦ほど苦しく重大だった戦いは無かった” と語っています。バルチック艦隊の襲来まであと5ヶ月でした。

刻々と近づくバルチック艦隊、東郷は丁字戦法の完成を急ぎました…黄海開戦で敵を逃した失敗を繰り返さないように全艦隊が迅速にターンする演習を繰り返します。

更に東郷は砲撃の命中率を高めるための訓練を行いました…当時の攻撃の命中率は僅か3パーセントでした。東郷は3ヶ月間、朝5時から夜8時まで訓練を続けて命中率を倍以上に上げました。

こうした訓練の間にもバルチック艦隊の情報が次々と東郷の元にもたらされていました…旅順陥落の後、バルチック艦隊の目的地はロシア軍のもう一つの根拠地、ウラジオストクでした。


日本海か太平洋か

そのルートは、日本海を通る対馬海峡と太平洋側に出る津軽海峡の2つです…バルチック艦隊対馬海峡を通ると予測して東郷率いる連合艦隊は、朝鮮半島の鎮海湾で待機していました。

ところが予期した日になってもバルチック艦隊対馬に現れませんでした…この頃、バルチック艦隊連合艦隊が予測したよりも遥かに遅い速度で進んでいたのです。

それを知らない東郷は、もう一日待って敵が現れなければ津軽に向かうという命令書を封筒に入れ各艦隊宛に配りました…この封筒は翌日開かれる事になっていました。

この命令の詳細を記した本があります…『極秘 明治三十七八年海戦史』長い間その存在が知られていなかった幻の文書です。日本海海戦の極秘記録を記したこの本は、昭和54年に発見され、東郷が封筒に入れた内容が明らかになりました。

連合艦隊は北海方面(津軽海峡近辺)に移動すべし」…封筒は配布の翌日、5月25日に開かれ、この命令が実行される事になっています。

東郷の部下の参謀たちの意見は割れていました…意思の統一を図るため東郷は部下を集め会議を開くことにしました。

5月25日午前、三笠での会議は紛糾しました。
1. 今まで敵が現れない以上、すぐに艦隊を津軽に向かわせるべきだ
2. 情報が入る前に行動に移すのは危険だ
と二つの意見は対立します。

東郷は部下の意見にじっと耳を傾けていました…やがて東郷は会議の途中で自室に戻り、一人になりました。部下の意見を元に東郷が出した結論は、もう一日、津軽行きを延期し対馬にとどまるというものでした。

翌日、バルチック艦隊対馬海峡に向かっているという情報が入ります…津軽へ向かう命令を入れた封筒は間一髪のところで開かれませんでした。

5月27日午前4時45分、警戒を続けていた仮想巡洋艦信濃丸から報告が入りました…「敵艦隊見ユ」その暗号は“タタタタ”…ついにバルチック艦隊が九州沖に現れたのです。

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そしてその時

午前5時5分、報せを受けた三笠は直ちに出撃…午前6時、連合艦隊司令部は東京の大本営に宛て一報を発しました。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレヂモ波高シ」…丁字戦法を決行するときがいよいよやってきたのです。…決戦まであと8時間に迫っていました。

明治38年5月27日、九州北方玄界灘に浮かぶ沖ノ島、この島の西の海上日露戦争の勝敗を決める日本海海戦が始まろうとしていました。

6時55分、日本海に入ったバルチック艦隊はまっすぐ北上していました…一方、東郷率いる連合艦隊は旗艦・三笠を先頭に一直線になり沖ノ島目指して急行していました。

午後1時39分、連合艦隊はついにバルチック艦隊の姿を捉えます…距離1万2000メートル…両者は急速に距離を詰めてゆきます。

午後1時55分、旗艦・三笠のマストに旗が翻りました…「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」…国の命運をかけたこの戦いに全力を尽くせという激励でした。

午後2時2分、距離1万メートル、黄海開戦ではこの距離でターンを開始しました…しかし今回、東郷はまだターンの指示を出しません。…距離9000メートル、これ以上近づくとターンの最中に一方的に攻撃されてしまいます。(ターンの最中は砲撃が出来ないため)

東郷なおも動きません…距離8500メートル、…

距離8000メートル、そしてその時、明治38年5月27日午後2時5分、東郷の右手が上がり、そして緩やかに左に回りました。

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三笠は左に150度の急旋回を開始しました…東郷ターンの瞬間です。連合艦隊は三笠を先頭に一列になってターン、バルチック艦隊の前を横切ろうとします。射程距離内で日本の艦隊が一斉にターンするのを見たロシア艦隊は、驚きかつ喜びました。

バルチック艦隊司令長官・ロジェストヴェンスキーは、「この時まったく思いがけないチャンスが我々に舞い込んだ」と書き残しています。

バルチック艦隊はすぐさま三笠に集中攻撃をかけます…最初の数分で三笠は300発以上の砲弾に晒されました。しかし幸運にも致命傷を受けることはありませんでした。部下が艦内に入るよう進めるのも聞かず東郷は剥き出しのデッキを離れようとしません。

午後2時8分、三笠はついに150度のターンを終えて敵の進行方向を押さえました…丁字戦法の形です。

午後2時10分、三笠初弾発射、三笠に続いてターンを終えた他の艦も次々に砲撃を開始します。日本の連合艦隊の砲撃は凄まじい威力を発揮しました。バルチック艦隊は先頭の旗艦が叩かれ、大混乱に陥ります。

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午後2時18分、戦艦スワロフ被弾炎上
午後3時10分、戦艦オスラビア沈没
午後7時00分、戦艦アレクサンドロ3世沈没
戦艦8隻を含む27隻が沈没、または降伏、バルチック艦隊で逃げ延びたのは3隻だけでした。

東郷率いる連合艦隊は、バルチック艦隊を壊滅させました…日本海制海権を守って日露戦争の勝利を確かなものにしたのです。東郷と連合艦隊の長い一日は終わりました。

午後7時20分、東郷は初めてデッキを離れました…その時、東郷の足跡だけが波しぶきに濡れず白く残っていたといいます。


日本海海戦のその後

日本海海戦から2ヶ月余り、アメリカ・ポーツマスで日本と帝政ロシアは講和会議を開きました。すでに国力の尽きた日本はルーズベルト大統領の仲介で何とか講和にこぎつけたのです。

しかし日本の国民には、大国ロシアを破る快挙だけが知らされ、日本海海戦の大勝利は日本が無敵であることの証拠として宣伝されました。この後、日本は海軍の軍備を大拡張し、やがてアメリカ、イギリスを敵に回し世界の中で孤立して行きます。

しかし東郷は日本海海戦の勝利は薄氷を踏むようであった事を自覚していました…『極秘 明治三十七八年海戦史』の中で東郷は、「この勝利は奇跡であった」と書き残しています。