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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

大奥はこうして誕生した~お江VS.春日局 女の戦いに秘められた真実

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NHK BS歴史館
大奥はこうして誕生した~お江VS.春日局 女の戦いに秘められた真実

作家 島田雅彦(著書『退廃姉妹』など多数)
「まあ2000人も女性が集まってる場所ってのは、そうそう無いから女子大、女子寮、宝塚、男子禁制ですから秘境って感じですね。…大奥に関する一般的なイメージってのは、面白おかしく描いた映画、テレビドラマの影響が大きいですね」

作家 鈴木由紀子(著書『大奥の奥』『女たちの戦国』など)
「私も調べてビックリするぐらいイメージと違いました。…キャリアを持った女性の国家公務員の組織みたいなものです…それが幕末に至るまで巨大になって行ったという事ですよ」

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「表が政調、中奥が公邸、そして大奥が将軍のプライベートな私邸…表と中奥が4800坪、大奥が6300坪…6割が大奥なのです」

作家 童門冬二(『春日局』『時代を変えた女たち』など)
「当時のお福さんたちの意識というのは、表と変わらない政治意識を持っていたんです…情報の収集とかね…大奥は平和維持の装置だったと考えています」


大奥誕生
お江VS.お福

慶長10(1605)年、徳川秀忠、2代将軍継承…その年、江戸城完成とともに大奥の空間が生まれました。そこに御台所、将軍の正室として君臨したのが大奥誕生のキーパーソンの一人、お江…彼女が側室を嫌った事でこの時、大奥には一人の側室もおらず、男子禁制でもありませんでした。

そしてもう一人のキーパーソン、3代将軍・家光の乳母・お福、…後に大奥最高の権力者として春日局を名のります。

お江は聖母として、お福は乳母として時期将軍として相応しく育てるはずだった二人…ところが竹千代誕生の2年後、次男・国松誕生、これが二人のバトルのキッカケでした。


お江VS.お福
ROUND1
「将軍継承問題」

竹千代と国松、兄弟の性格は正反対、長子・竹千代は病弱な上、ひっこみじあん…一方、次男・国松は聡明な上、活発、…お江と秀忠は国松を可愛がり、ゆくゆくは国松を3代将軍にと考えます。

正室と乳母、力の差は歴然!…そこで逸話が…
切羽詰まったお福は大胆な行動に出る…お福はお伊勢参りに行くと偽り、駿府で隠居する大御所、徳川家康に「どうか竹千代様を将軍に」と直訴したのです。

江戸城にやってきた家康は、竹千代を上座に呼び寄せた…つられて上座に上がろうとする幼い国松、その時家康は、「国松はそこにいろ、上座に上がるのは将軍のみである」と一喝、こうしてお福がお江とのバトルに勝利したのです。…という逸話があります。

しかし、この逸話は、信憑性に乏しく意図的に作られたと最近の研究では言われています。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「お福は単なる家臣の一人でお江は秀忠の正室ですから身分違い、力関係を比べる事すら論外なのです」

お福の家康への直訴、その逸話に疑問を投げかける史料が家康がお江に宛てたとされる『訓戒状』です…将軍教育の方針が27ヶ条に渡って細かく書かれ、とりわけ兄弟の序列が強調されています。

「長男は後継ぎとして別格、次男以下は家来と同じであると思っておくように」
「長男よりも次男の威勢が良いのは家が乱れる原因となる」

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次男・国松を可愛がる、お江をたしなめ、長男の大切さを説いた家康、つまり家康は、お福の直訴を受けなくても長男・竹千代に将軍を継がせるつもりでいたし、お江もそれは、訓戒状で心得ていたのです。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「戦国時代は、トップの能力次第で家が滅びたり、下剋上の世界…長男だからといって家督を約束されたわけではないのです。…しかし世の中が安定すると能力のあるなしよりも兄弟間の争いの危険性をなくすことが大事になるのです」

江戸幕府を開き、戦国時代に終止符を打った家康、平和と安定のために着目したのが儒教の『長幼の序』年齢順や上下関係を重んじる教えでした。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「もうこの段階ですと家康は、武断政治から文治政治へ…法令により世の中を安定させようとした…だから家康自身は、別に能力が有ろうが無かろうが、とにかく年長者が跡を継ぐという長子相続のルールさえ決めておけば家の中は争いが起きないと考えたのです」

お江とお福の逸話で示された長子相続の原則、それを守り維持する事が大奥最大の目的となったのです。

作家 鈴木由紀子(著書『大奥の奥』『女たちの戦国』など)
「お江とお福のバトルは無かったと思います…あの逸話は、長子相続を定着させるための作り話、ヤラセというか仕掛けでしょうね」

作家 島田雅彦(著書『退廃姉妹』など多数)
「あの逸話は、長子相続は正室でさえも私的な感情を持ち込めないというデモンストレーションになります」


お江VS.お福
二人は敵同士だった?

お江とお福、二人のバトルは少女時代に起こったある事件によって宿命づけられたといいます…それは、天正10(1582)年に起きた本能寺の変、天下統一を目前にしていた織田信長を家臣・明智光秀の謀反により自害に追い込んだ一大事件、その時、お江10歳、お福4歳。

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お福の父は、明智光秀重臣・斉藤利光、…一方、信長はお江の伯父、お江にとってお福は伯父を殺した仇の娘だったのです。

本能寺の変によって仇同士になった二人は、家康に導かれ22年後の江戸城で生母と乳母として初めて出会う、二人の間にバトルが生まれるのは必然だったというのが通説です。

しかし、この二人の仇同士という関係も見方によって変わってくると田端さんは言います。
京都橘大学名誉教授 田端泰子さん
「お江も浅井長政が信長軍に敗れて亡くなるわけですけど仇は信長になるわけです」

お江は近江の有力武将、浅井長政織田信長の妹・お市の末娘として生まれました…しかし、父・長政は、お江が生まれてすぐに信長との合戦に敗れ自害、お江にとって信長は、父の仇でもあったのです。

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その信長に引き取られ、信長亡き後は、重臣柴田勝家に身を寄せたお江たち…しかし、勝家は豊臣秀吉との合戦に敗れ、お市とともに自害、…親の仇・秀吉の元でお江は政略結婚に利用されました。

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3度目の相手が家康の3男、徳川秀忠でした…家康は戦国を生き抜いたお江の経験とたくましさを高く評価、秀忠を支える正室として期待したのです。


家康がお福を
乳母に選んだ理由

京都橘大学名誉教授 田端泰子さん
「乳母というのが当時の女性にとっては、一番のエリート職です。お福の能力に目をつけて家康は採用したのです」

将軍家の乳母は、最高の能力を身に付けたスーパー乳母でなければいけなかったのです…お福の伝記『春日局由緒』には乳母に抜擢された際の家康の励ましの言葉が書かれています。

「汝は斉藤利光が娘なり…父、武名をもって天下に現る、汝、女人といえどもおそらく常人にあらず…よく務めて竹千代を保護せよ」

スーパー乳母の条件①
名将・斉藤利光の遺伝子
お福の父・斉藤利光明智光秀重臣本能寺の変で実行部隊を務めた名将…『惟任退治記』によれば光秀を討った秀吉も斉藤利光の能力を高く評価、死を惜しむほどの名将だったといいます。

スーパー乳母の条件②
名家・京都三条家の品格

京都橘大学名誉教授 田端泰子さん
江戸幕府は、武家対策だけでなく、公家対策、寺社対策もやっていかなければならないので教徒に対して知識のある乳母を探し出すのは大事な事だったのです」

お福の母方の祖母は、西三条右大臣公條の娘です…西三条家とは代々、和歌や皇道の家元と知られた公家の名家でした。

お福は少女時代、13歳から3年間、三条家に奉公に上がり、公家のしきたりや教養を身に付けたのです。

スーパー乳母の条件③
戦国一の苦労人
お福は4歳の時、父・斉藤利光を謀反人として晒し首にされ、貧苦のどん底を経験、京都や高知などを転々としました。

母方のつてで因幡正成と結婚、4人の息子をもうけますが夫の愛人問題で離縁されたといいます…お福の苦労人としての経験やしたたかさを家康は最も評価しました。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「家康は、組織作りのプロですから、そういった負い目みたいなものを持っている女性を二人合わせるという事で女性の役割を家康は高く買っていたことは間違いないと思います」


お江VS.お福
ROUND2
「お世継ぎ問題」

元和2(1616)年、徳川家康は72歳で亡くなり、その意志は、お江とお福、二人の女性に託されます…元和9(1623)年、徳川家光は3代将軍を継承(20歳)…その妻を誰にするのかお世継ぎは生まれるのか…。

こんな逸話が残っています…お江が選んだのは公家の娘・鷹司孝子、2年間みっちり武家の娘として教育して家光の正室とした。…自らの力を強めようとする正室・お江ならではの正室作戦である。

しかし、とんでもない対抗策を考え付いたお福、なんと密かに孝子に堕胎薬を飲ませ、子どもが生まれないよう図り、更には中の丸へ追いやってしまった。

更にお福は、自らの息子たちや親戚の美少年たちを家光の側近に育て権力を盤石にしていった…しかし家光には30過ぎてもお世継ぎが生まれない…なんと家光は、側近たちと男色関係にふけり女性に見向きのしなかくなったというのである。

頭を抱えたお福がとった作戦とは、なりふり構わぬ側室探し…ある日、お福の元へ朗報が舞い込んだ、家光が一人の女性に一目ぼれしたというのです。

ところがその相手は19歳の尼僧、…お福はその尼僧を強引に還俗させ髪の毛が伸びるまで待った…そしてお万の方として大奥にめしあげたのである。

その後も家光好みの女性がいれば、八百屋の娘をお玉の方に…農民出身で死罪になった父を持つ、お楽の方などなりふりかまわぬ側室スカウト戦略を展開したのです。

この作戦が功を奏し、家光は女性に目を向けるようになった…という逸話が残っています。

しかし家光の妻やお世継ぎやをめぐる逸話の裏にも隠れた意図があるといいます。

お江の「正室作戦」:横並びの武家ではなく、公家衆から正室を迎えるのは将軍の権威を武家より一段高いものにしています…更に公家衆対策、公家衆を支配下に置く方策です。

お福の「堕胎薬」:幕府の中に朝廷の力があんまり入ってくるのは好ましくない…だけど朝廷との間は上手く維持したい…朝廷から正室を迎えるが正室には子どもを生ませないのは、公家の力を深入りさせないためだったのです。

家光を孝子と結婚させたのは、いわば公家との政略結婚、この対策は後世にも引き継がれ、その後も徳川幕府の御台所は代々、皇室や公家から迎えられました。…しかし御台所たちからは一人も将軍は生まれなかったのです。

お福が庶民を側室に選んだ理由も、幼少時から病弱だった家光に庶民で健康な側室をあてがい元気なお世継ぎを産ませる。

お福の奔走の結果、見事、罪人の娘・お宅の方が4代将軍・家綱を生み…八百屋の娘・お玉の方が5代将軍・綱吉を生んだのです。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「お江が正室探しに奔走し、お福が側室を探し、まさに二人が手を取り合って徳川幕藩体制の奥向きの維持にむけて頑張っていた事になります」

お江とお福…二人のバトル伝説には徳川将軍家を継承し維持する為の巧妙な仕掛けが隠されていたのです。


大奥
知られざる役割とは?

大奥を取り仕切る、お江とお福、そして女性国家公務員といえる女性たち、実は彼女たちは表の政治にも重要な役割を担っていたのです。

2代将軍・秀忠た3代・家光の時代は、まだまだ徳川幕府草創期、幕府は参勤交代で大名家を統制し、改易で厳しく処罰しました。

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そうした徳川幕府支配のカギは『大名証人』…証人=人質です。(大名の妻子に江戸在住を義務付けられた、その妻子たちを大奥が統制した)

当時幕府は大名同士がととうを組まないよう勝手に婚姻関係を組まないように禁じました…そこで大名家の情報を集め縁談を取り持っていたのが、お江やお福と大奥の女中たちでした。

静岡大学名誉教授 小和田哲夫さん
「どこの娘は今、何歳になったかとか、そういう情報を得て大名同士の婚姻を将軍などに進言して、裏で大名統制、大名の監督をする…ある意味、将軍の表と大奥の裏で表裏一体の関係という側面があったのです」

情報収集や外交、徳川幕藩体制の根幹ともいえる役割を大奥は裏で果たしていたのです。

作家 島田雅彦(著書『退廃姉妹』など多数)
「大名家の改易そのものに影響力をもてるわけですから実質的に大奥で力を握れるってわけですよ…相応しい奥さんを斡旋してやる…公式結婚あっせん書所ですよ」

作家 鈴木由紀子(著書『大奥の奥』『女たちの戦国』など)
「大名の奥方は人質に取られてますが、大奥とつながってれば中央の情報を国元に流せます…どういう婚姻関係を結べば有利になるかをいち早く察知して大奥に取り持ってもらうような工作が出来るのです…外交官です…江戸藩邸は大名家の大使館です」

「表、中奥、大奥とありますが大奥が大きくなるはずなんです…しかも将軍も大奥に取り込まれている…大奥の権力は絶大なのです。…そして次第に将軍も大奥に口出しできなくなるぐらい大奥の力が大きくなってゆくのです」

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大奥によって徳川幕藩体制の礎を築いた、お江とお福、寛永3(1629)年9月、お江 没(54歳)…徳川幕府の御台所としての役割を果たしたお江、それをお福が受け継いでいったのです。

寛永20(1643)年、春日局(お福)没(65歳)…

京都・金戒光明寺、ここにお江とお福の間柄を偲ばせるモニュメントが残っています…お江の供養塔、お福が建てさせたものです。…その傍らには、お福の供養塔がひっそりと建っています。

お江とお福、ともに協力して作り上げた巨大組織、大奥、その後の太平の世をもたらした二人の絆を偲ばせます。