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大奥よ永遠なれ 将軍・家斉と美女たちの物語

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NHK 歴史秘話ヒストリア
大奥よ永遠なれ 将軍・家斉と美女たちの物語
episode1
”大奥将軍” 誕生への道

天明7(1787)年 江戸時代後期、徳川家斉・15歳で将軍に就任…この頃、天明の飢饉といわれる未曽有の食糧危機で餓死する人が続出、…米を買えなくなった庶民の怒りが爆発、大規模な暴動に発展、江戸だけで1000軒の米や質屋が打ち壊しの被害にあう。

更に幕府の年貢収入も激減、飢饉対策に出費がかさみ深刻な財政難に陥りました。…しかし若き家斉には、この難局を打開する力はありません。

ここで将軍補佐として政治を切り盛りしたのが老中・松平定信、…江戸時代の三大改革として知られる 『寛政の改革』、定信は徹底して倹約を推し進めます。

最大の標的は大奥、年20万両(100億円)、定信は大奥の責任者を次々とリストラし、経費を1/3に切りつめたのです。

将軍・家斉にまで倹約は押し付けられます。…「色事は遠ざけること」 なんと大奥での男女の行為まで制限されてしまいました。

定信はいつも苦言を申してくる
わやしの耳に逆らう事ばかりで
気分も悪くなる。
(『文恭院殿御実紀』より)

管制5(1798)年 家斉21歳 二十歳を超えた家斉は、ついに逆襲に打って出ます。

家斉:「定信、長年大義であった…ひまを取らせる」

家斉は突如、定信を辞任に追い込みました…家斉の大奥通いをとめる者はもういません。…お手つきの女性は40人、生まれた子供は55人、…まあ、おめでたい事です。

家斉の時代の大奥は、女性1000人を超える大所帯となり、史上最も膨れ上がったのです。


episode2
大奥を支えた錬金術

幕府の財政は行き詰っていたはず…?…なんで大奥のお金をかけられるの?

倹約家の老中・松平定信を止めさせた家斉は、すぐに財政難に陥ります…定信の主導で倹約に励んでいた時には、幕府の蓄えは100万両ほどあった。家斉の浪費ですぐに半分が消えることになったのです。

最大の問題はお金が足りないこと…そこで家斉が繰り出した手は、…「金が無ければ作ればよいのじゃ」 …でした。

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江戸時代に作られた小判は10種類、見た目は変わりありませんが、家斉の小判(文政小判)は金の含有量が少ないのです。

家康・慶長小判:銀15%、金85%
家斉・文政小判:銀44%、金56%

幕府はこれによって莫大な収入を得る事になったのです。…その後、家斉は20年以上、改鋳(お金の作り直し)を行って500万両を超える巨額の利益を得ていったのです。

市場には大量に貨幣が供給されました…すると当然、インフレに…家斉が改鋳を実施した12年後には米価格が7割も上昇、…

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酒1割、味噌2割、塩4割、値上がりしています。改鋳のしわ寄せが庶民の暮らしを直撃したのです。

膨れ上がった大奥を支えるために打ちだされた家斉の貨幣政策、…その後も打ち出の木槌のごとく小判を生み出す、改鋳で財政赤字を補っていったのです。


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松平定信の行った『寛政の改革』では、風紀の取り締まりや、出版統制が厳しく行われました。贅沢と見なされた商品は次々と販売禁止に浮世絵、作家が弾圧されるなど経済は停滞します。

しかし家斉が実権を握ると統制は緩み、それまで抑えつけられてきた庶民のエネルギーが爆発したように華やかな文化が一気に花開いていったのです。

その代表格が天才浮世絵師の葛飾北斎、この時代、北斎の不朽の名作・富嶽三十六景が生まれるなど浮世絵は黄金期を迎えます。

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演劇の世界でも歌舞伎の人気が沸騰、芝居小屋も大がかりなものになり、庶民の娯楽として歌舞伎は成熟して行きます。…この時代の文化を江戸時代後期を代表する ”化政文化” と呼ばれています。

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episode3
将軍に愛されすぎた女

文化3(1806)年 家斉34歳 お美代という女性が大奥に上がります。…僧侶の娘として生まれましたが、その美貌を見込まれ大奥で奉公する事となったのです。

家斉はお美代を深く愛するようになりました。やがて姫が生まれ、二人の愛情は一層強まりました。…その頃、家斉が苦心していたのは子供の縁づけです。なんせ多い…小大名にまで手を伸ばしなんとか全てかたずけます。

厳しい結婚事情の中、お美代の娘のために家斉が進めた縁組は、申し分ないものでした。相手は日本一の大大名、加賀百万石の前田家です。

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(右手の門が前田家、現在の東京大学の赤門)

姫を迎え入れるため、前田家の屋敷内に数千両の費用をかけて新たな御殿が作られました…その時に設けられたのが今の東京大学赤門です。

家斉はこの婚儀のために4万両(20億円)整えます…それは、お美代への限りない愛情を天下に知らしめることになったのです。

家斉の寵愛を背景にやがてお美代は、大奥だけでなく、幕府高官や大名からも一目おかれる存在になって行きます。

お美代の方にお願いすれば
家斉様に単独でお目通りすることができる
(『寺社奉行 阿部正弘の書付』より)

お美代の縁者で家斉の側近に取り立てられる者も現れます。…将軍・家斉をも動かせるようになったお美代、その極め付けが東京豊島区の目白に建てられた感応寺、僧侶の娘で信仰心の厚かったお美代の願いで、家斉は、2万8000坪(東京ドーム2つ分)の土地を与えています。

感応寺の凄まじい繁栄ぶりは、江戸市中の大きな話題になったと言います。

感応寺は、高貴な方々が
家斉様やその姫様の代理として
日々お参りに来られている

行く末この寺は
どれほどの大寺院となることであろうか
(『名主の記録』より)

しかし、お美代の絶頂の日々はやがて終わりを迎えます。

天保12(1841)年 徳川家斉 死去(享年69)

将軍代替わりの中、新たに台頭してきた老中・水野忠邦が浪費が続き、再び苦しくなった幕府財政の立て直しをするため ”天保の改革” を推し進めます。

再び始まった厳しい倹約と風紀の取り締まり、大奥も例外ではありません。この改革の中、集中的に摘発されたのが、お美代の身辺でした。

感応寺は、浪費政治の象徴と見なされ、家斉の死から僅か9ヶ月で、徹底的に破壊されました。…更に僧侶だったお美代の父も大奥に取り入って世を惑わしたとして逮捕され、獄中で亡くなります。

お美代の回りで力を持っていた人物は粛清、排除されていったのです。…いつしか幕府の記録からもお美代の姿は消えて行きました。

やがて徳川幕府は激動の幕末を迎え、時代の渦に大きく飲み込まれて行きます。

慶応4(1868)年4月、江戸城は新政府軍に明け渡されます。徳川の時代が終わるとともに大奥の幕もとじたのです。

1000人とも言われた大奥の女性たち、ある者は故郷に、親類に…そしてお美代は、東京文京区にある講安寺に身を寄せます。僅か8畳の簡素な部屋を与えられ、余生を送ったのです。

晩年のお美代について大奥で働いていた女性が語っています。

家斉様がご寵愛になった
お美代の方は、仏門に入り
頂いた家斉様のご位牌の
お守りをしていました
(『元大奥の女中の証言』より)

お美代が最後を過ごした寺は、ある特別な場所に位置しています。…それは、娘が嫁入りした時に作られた、あの赤門のそばでした。

明治5(1872)年 お美代死去 (享年77)