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大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿物語

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桂昌院(お玉)(1627~1705)

NHK 歴史秘話ヒストリア
大奥シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 玉の輿物語

京都市北区にいま、女性たちが熱い視線を注ぐスポットがあります…今宮神社です。…お目当ては、”玉の輿お守り”…玉の輿に乗ってセレブで幸せな結婚が出来ると人気のお守りです。

玉の輿の言葉の由来は、桂昌院の事だと言われています…桂昌院(お玉)、江戸時代、この神社の近くで八百屋の娘として生まれ、なんと天下の将軍と結ばれた日本のシンデレラです。

八百屋の娘から徳川5代将軍・徳川綱吉の母へ…究極の出世を遂げたシンデレラ、お玉こと桂昌院、町娘がシンデレラの階段を上るキッカケはちょっとした運命のいたずらから。

次から次へと幸運を射止める桂昌院の元祖「玉の輿」物語です。

episode1
江戸時代のシンデレラ 元祖「玉の輿」物語

今から400年前、江戸に幕府を開いた徳川家康から三代目、3代将軍家光の時代…京都で一人の女の子が誕生します。

名前は、お玉…後に5代将軍、徳川綱吉の生母となる桂昌院です。…父は手広く野菜を商う八百屋、お玉は商人の子として活発に育ちました。

しかし、そんなお玉に突然の不幸が…頼りの父が亡くなったのです。…支えを失ったお玉と母、寄る辺を求め京都西山の善峯寺に奉公に出ます。

そんなお玉に最初の転機が訪れます…下級武士、本庄家の養女になったのです…亡くなった父が本庄家に野菜を収めていた縁からです。

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その本庄家の家紋が「九目結紋」(ここのつめゆいもん)…当時家紋は武士など身分のある家だけが付ける事ができました。…運に恵まれ初めて家紋を持つ身分になったお玉、シンデレラストーリーの幕開けです。

するとお玉は、勤め口にも恵まれます…本庄家の紹介で公家出身の尼僧の待女となります…町人⇒下級武士⇒公家へとお玉はステップアップして行きます。

寛永16(1639)年 13歳のときお玉は最大の転機を迎えます…尼僧のお供で江戸城に登ります。…尼僧が高貴な寺院の責任者になった挨拶を将軍・家光にする為でした。

お供のお玉には、将軍は雲の上の存在、当然、お目見えは許されず別室で待たされます…その頃、尼僧は家光に謁見、型通りの挨拶を済ませて早々に帰る予定でした…しかし事態は思わぬ方向へ。

なんと家光は、尼僧に一目ぼれ、尼僧は、お万の方と名を改め家光の側室になります…そしてお玉も京都に一度も帰ることなく、お万の方の侍女として江戸城で暮らすことになったのです。

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お玉の入ったのは大奥、それは江戸城の一番奥にある将軍のプライベートルームです…将軍以外、男子禁制、生母を始め、正室、側室、そしてそれぞれに仕える女中など数百人が働く、女の園、…役割は、ただひとつ、徳川政権を盤石にするため将軍の世継ぎを生み育てること。

この大奥で働く女中でも将軍のお眼鏡にかなえば、将軍の側室になる大出世も可能でした…多くは、女性たちにとってシンデレラになるチャンスのある憧れの場所だったのです。


episode2
我が子を将軍に! シンデレラの祈り

そしてお玉も成人して19歳の時、家光に見初められ側室となり、やがて家光の子を懐妊します。…信心深かったお玉は、身仏に「どうか男子が授かりますように」と祈ります。

正保3(1646)年 お玉20歳、後に将軍となる男子を出産したのです…5代将軍、徳川綱吉です。…そしてお玉は、更に仏教に帰依するようになったのです。

お玉は、見事、男子を出産したのですが当時、すでに家光には2人の男子がいました…将軍の跡目順位は、1番が摘男・家綱、次に二男・綱重となり、お玉の子・綱吉は三番目と将軍になる望みは薄かったのです。

お玉は、将来、息子が将軍になった時の事を考え、儒学などを熱心に学ばせます…しかし、将軍になる機会は訪れませんでした…慶安4(1651)年、家光が死去、4代将軍には予定通り、11歳の嫡男・家綱が就任します。

お玉は、当時の習慣に習い、出家して桂昌院と名乗りました…しかし桂昌院は諦めません、綱吉の教育にも更に力を入れます。

延宝8(1680)年 桂昌院54歳…息子を導くこと30年余り、事態は大きく動きます…4代将軍・家綱が突然病死、家綱には子がありません…更に世継ぎ候補の二男・綱重はすでに死去、…見渡せば将軍候補は、桂昌院の子、綱吉だけだったのです。

ここに5代将軍・徳川綱吉が誕生します。…身仏の心を信じ、綱吉を養育してきた桂昌院は、努力が報われ54歳でついに将軍の生母へと上り詰めたのです。

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そして桂昌院の実家、本庄家も大出世を遂げます…下級武士から美濃因幡の大名に取り立てられ、徳川家ゆかりの「松平」の姓まで与えられた者もいたのです。

東京文京区にある護国寺桂昌院は綱吉の将軍就任後、この壮麗な寺院を建てます…更に仏への思いを形にするため東大寺大仏殿、法隆寺唐招提寺、新薬師寺、日本各地の神社、仏閣の修復、復興に力を尽くします。

桂昌院の願いの歌です。「もろともに 光をてらせ五地の寺 君があゆみを よろづ世までと」…全ての寺院よ、あまねく光を照らしてください。我が子綱吉の世がいつまでも続くように。

桂昌院は、どんなに難しい状況になろうとも息子の幸せを願い祈り続けたのです。


episode3
我が子に世継ぎを!

綱吉が将軍となり、世継ぎも得た桂昌院、順風満帆に思われました…ところが天和3(1683)年 桂昌院57歳、世継ぎの徳松が5歳で病死、桂昌院と綱吉は深い悲しみに沈みます。

その後、綱吉は子を授かりません…世継ぎを授かるために仏に祈る、桂昌院と綱吉、やがて子が授からないのは世を収めるための功徳、つまりよい行いが足りないからだという思いに至ります。

綱吉の言葉です…「この世の誰もが慈悲の心を持ち、他に仁愛を施さねばならぬ…しかし、実際には万物の命を奪いながら誰ひとり顧みるところがない、なんとも嘆かわしいことじゃ」(『観用教戒』より)

当時世間では、辻斬りや子殺しなどの殺人事件が多発、江戸城内でも事件が起こるなど武力で解決する戦国の気風がまだ色濃く残っていたのです。

桂昌院と綱吉は、仏教の功徳を積もうと大改革に乗り出します…その一つが天下の悪法と知られる ”生類憐みの令” すべての生き物の殺生を禁じたお触れです。

しかし、現代の研究でこの生類憐みの令は、福祉社会を実現させた優れた政治だったことが分かったのです。…詳しい記事(BS歴史館”お犬様”騒動『生類憐みの令』隠された真実~徳川綱吉は名君だった!?)⇒http://ameblo.jp/e-fh/entry-11031721961.html

桂昌院と綱吉は、更に功徳をつもうと行動、生活に困っている人たちに米を支給、病気の旅人が無料で治療を受けられるようにし、更に全国の没落した小さな寺の復興にも尽力しました…その数100余り。

ようした費用は、70万両(現在の価値で1400億円)これまで蓄えてきた幕府の資産の3分の1をつぎ込んだのです。…この散財も非難を浴びましたが現在の最新の研究・分析では、公共事業として大きく、当時の社会の発展、経済活動に寄与したという評価なのです。

しかし、徳松を亡くしてから20年余り、綱吉の世継ぎは生まれませんでした。

宝永元(1704)年、59歳になった綱吉は、苦渋の決断を下します…自らの子供を諦め養子を迎え入れたのです。…これまで幾度となく幸運に恵まれてきた桂昌院、しかし綱吉の血筋を残すというシンデレラの最後の願いは、かないませんでした。

宝永2(1705)年、その翌年 桂昌院 死去(享年79)

その4年後、綱吉も母・桂昌院の後を追うように亡くなりました(享年64)

茨城大学准教授 磯田道史さん
桂昌院と綱吉は、殺伐とした武士の世を変えた親子だと思います…人を殺めるのが武家、…軍事政権だった徳川幕府が『慈悲』だとか『憐み』とかを言うようになるのです…幕府を日本史を塗り替えた歴史だと考えます」


桂昌院
今に伝えるもの

300年後、東京…桂昌院はお寺だけでなく、庶民の暮らしに直接役立つものも建設していました…隅田川に架かる新大橋、絵師・歌川広重が描いたこの橋は、桂昌院が川の往来に困っていた民衆のために架けた橋です。

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浮世絵『名所江戸百景』歌川広重

近くに庵を構えていた俳人松尾芭蕉は、橋の完成後、感謝の一句を詠んでいます…「有がたや いただいて踏 はしの霜」

江戸時代、桂昌院が復興した多くのお寺、私たちが訪ねるとある共通のものを見つける事が出来ます…奈良の法隆寺の灯篭には、桂昌院がシンデレラの第一歩を踏み出した養女先、本庄家の家紋、「九目結紋」(ここのつめゆいもん)が付けられています。

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桂昌院が奉公した京都・善峯寺の屋根瓦にも「九目結紋」が…そして日本海の海辺の町の寺・大頂寺(京都 宮津市)にも「九目結紋」が…再建に尽くした桂昌院への感謝のしるしとして各地の寺は、恩人所縁の家紋を掲げているのです。

桂昌院は死の直前、朝廷から女性としての最高の官位、従一位桂昌院従一位)を授かります…お寺の再建や福祉政策などに尽くした事が認められたのです。

そんな桂昌院が後の世の事を思い詠んだ歌です。…「法の師の をしえたまうにならいそて わが後の世も たのみこそすれ」、…もう何年も身仏の教えに触れています。ですからどうか私の後の世も人々が幸福でありますようお守りください。