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天明の飢饉 災害復興が日本を変えた!

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NHK BS歴史観
天明の飢饉 災害復興が日本を変えた!

日本は度々、国家を揺るがす大災害に見舞われてきました…江戸時代も災害が多発、中でも1782年から6年間続いた ”天明の飢饉” は全国で90万人以上の犠牲者を出したと言われ、江戸時代最大の飢饉でした。

最も被害が大きかったのは東北地方、餓死だけでなく疫病も流行し、生存者が3割という村もありました。

口減らしのため、生まれたばかりの子供を殺す間引きも横行、米の価格が上昇し、江戸や大阪では民衆が蜂起、大規模な打ちこわしが多発します。

江戸幕府始まって以来の国家存亡の危機でした。…この時、国の立て直しのため幕府老中に抜擢されたのが松平定信です。

・米の価格引き下げ
・米が全国に行き渡る政策に着手
・飢饉対策として食料の備蓄、資金の積み立て
・農村立て直しのため、赤子養育手当支給


定信は災害復興の要として民の命を守る政策をしたのです。それは幕府の政治の一大転換でした。

民を支配するだけの軍事政権から、民の側に立った政治、すなわち ”民政” を重んじる政権へ変わったのです。

 

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天明の大飢饉
江戸時代の未曽有の災害

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「人口減少だと92万人という説があります。直接飢えで死んだ人が30万人以上、病気などの複合要因を加えると100万人近く犠牲になっています。…当時の日本の人口が3000万人と考えると、日本人の30人に1人が死んでしまう。これは途方もない飢饉、事件です。」

特に被害が大きかったのは、東北・八戸藩です。勘定頭が残した飢饉日誌にその惨状が記されています。

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(飢饉日誌)
・8月下旬、葛や蕨、草木の根などを掘って食べ飢餓を凌ぐ
・食べ物を求め、親子を捨てて他の領地に走る者もいる
・10月、雪に覆われ、草の根を掘って食べる事も困難となる
・盗賊、追いはぎ、強盗が増える
・翌年1月、犬、猫、鶏、馬を奪い殺して食べるものが出てきた
・死んだ人間を食べるものがあちこちにいる…珍しくも無くなる

八戸藩では天明3年9月から10ヶ月間で人工の半数、3万人が死亡、東北全体でも多くの犠牲者が出ました。


しかし…
この飢饉は人災である

「僅か10ヶ月分の蓄えもなく、餓死者を出したのは藩に政治がないからではないのか・・・」、…実は八戸藩では緊急時に藩が出す、御救い米すら満足に支給できなかったのです。

重要な換金作物だった米は、江戸や大阪に売り払っていたからです。

当時幕府の実権を握っていたのは田沼意次でした…商業保護の政策によって全国的に経済が活性化、人々は贅沢品を求めるようになり、米より金銭を尊ぶ風潮が蔓延していました。

諸藩も商人から莫大な借金を抱え、その返済で精一杯、藩財政を優先し、凶作や飢饉が多発する地域にも関わらず食料の ”備蓄は後回し” 、…そこへ天明の飢饉が襲いかかったのです。


天明の飢饉
なぜ東北に被害が集中した?

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「元々、稲は南方の植物、江戸時代の技術で東北で米だけを作るのはリスクが高いですね。」

早稲田大学大学院 教授 北川正恭
「商品経済が発達していた時代ですが、もし自給自足でやっていれば、これほどの餓死者は出なかったのです」

学習院大学 教授 福島県立博物館館長 赤坂憲雄
「岩手や下北は稗なんですよ…『ひえはケガチ(飢餓)無しの作物だ』 と言われていて、100年備蓄が可能とも言われています。そこに換金作物のイネが入って来たんです。

縄文時代は8割が東日本にいたんです…狩猟、簡易な畑作では、東北の自然は豊かな地域だったんです…幸を与えてくれる地域だったんです。つまり何が言いたいかというと、東北の自然が厳しかったから飢饉が起こったのではなく、”人災だった” という事です。」

 

天明の飢饉
餓死者ゼロ 白河藩

東北地方で多くの犠牲者を出した天明3年、餓死者ゼロの藩があった…白河藩です。
・藩主:松平定信(1758-1829)
・年齢:26歳
・8代将軍、徳川吉宗の孫
・17歳で白河藩主、松平定邦の養子となる
天明3年10月、白河藩主就任

「凶作は珍しい事でも、驚く事でもない」(松平定信)…飢饉が目前に迫っても動じない若き藩主の姿があったのです。

当時、白河藩も財政難で食糧の備蓄はありませんでした…定信は食料の確保に動きます。

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・藩の飛び領で凶作の被害の少なかった越後から米1万俵を確保
会津藩から米6000俵を購入
・江戸、大阪からも米、雑穀などを次々に買い戻します
豪農、豪商たちから米、金を差し出すよう通達

寄付は続々と集まりました…定信は飢饉の際、御救い米だけでなく、塩や味噌まで領民に配る事が出来たといいます。

食料の確保に続き、定信が押し進めたのは、領民一人一人が自ら行う飢饉対策でした。

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松平定信告論書)
1.農民は農業に精を出し、荒れた土地を少しでも開墾する事
2.定信も木綿の着物、朝夕は一汁一菜にする、手本にしなさい

全国の大名たちが注目した定信の政治手腕、やがて彼を幕府・老中へと押し上げて行きます。

 

天明の飢饉
発生から5年後…

飢饉は東北だけでなく全国に波及していました…犠牲者は90万人以上、農村は荒廃し、米の収穫高は平年の1/3まで減少、これは深刻な食糧不足と物価の高騰を引き起こしました。

江戸でも大規模な打ちこわしが始まります。

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打ちこわしは、全国30余りの都市に及びました。政治に対する不満と怒り、それは幕藩体制を根底から揺るがす危機でした。

天明7(1787)年6月、国の復興を担う幕府の老中として抜擢されたのが松平定信です。
・米の価格引き下げを実施
・米が全国に行き渡る政策に着手
・飢饉対策として食料の備蓄、3年の蓄えがなければ国では無い

とは言うものの幕府の財政は火の車、年貢増、商人への課税強化といった方法に頼る事は出来ませんでした。

そこで定信は、諸藩や農村で実施されていた取り組みに学びながら、幕府主導で食糧備蓄の政策を推進して行きます。

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・各藩は1万石につき50石の割合で備蓄
・江戸の町人は町の経費節約の7割を食糧備蓄の積立金に
・農民には村ごとに食料備蓄の郷蔵を作らせる

 

天明の大飢饉
老中・松平定信の復興政策

災害対策に努める一方、荒廃した農村の復興に力を注ぎました。年貢収入を支える農民の暮らしの安定こそが、何よりも重要だと考えたのです。

当時の大きな問題として食糧不足により、口減らしのため、生まれたばかりの子供を殺す ”間引き” が横行していました。

これに対して定信は、農村の生活の安定のために ”赤子養育手当” の制度を整えます。貧しい家庭に子供の養育費を支給しました。

実はこの取り組みは、すでに白河藩で行われていたのです。定信はこの取り組みを幕府の政策として引き継いだのです。…支給する金は幕府や諸藩が用意しましたが運営は各地域に任せました。

民から搾りとるのではなく、民の命と生活を守る政策を最優先した定信、それは大災害復興のために取った ”政治の大転換” でした。・・・定信は民の側に立つ ”民政” に大きく舵を切ったのです。

 

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静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「…今でいう子供手当です。これってすごい事なんです…
・住民を管理しなければいけません
・妊婦で妊娠した段階で帳簿を付ける
・出産に立ち会い、確かに生んだ、間引いたりしないかを確認
・そして成長の様子を記録した
…これは近代国家でなければできない、母子手帳の最初ですよ。

古文書を読んで行くと天明あたりからの村落、町場の上層の人たちの政治意識は高くなります。外国の情報だろうが、国内の情報だろうが、民たる貴方がそこまで知っていていいのというような記録を残し始めたのがこの時代です。

明治維新の変革や民権運動の元を作るような地殻変動の始まりは、この辺りからだと見る歴史学者が増えて来ています。…」


天明の飢饉
復興を支えた名代官

時代劇で代官といえば、商人と結託する悪代官をイメージしますが…実は定信が進めようとした農村の自治、このカギを握っていたのが代官でした。

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幕府の代官は全国の直轄地に置かれ、年貢の取り立てなどを司る役目、世襲が慣例でした…それを定信は、能力本位で採用、60人いた代官の内、44人を新たに任命します。

岡山県真庭市久世、天明7年、この町に定信の信頼厚い代官が派遣されました…久世の名代官・早川八郎左衛門正紀です。

着任早々目にしたのは、飢饉によって荒廃した村の姿でした…痩せた田畑、疲弊し気力を失った農民たち、賭博や盗みも横行していました。

早川は早速、久世の復興に着手します…
・年貢の徴収法を検見法に変える…凶作時など年貢を少なくするなど
・廃坑銅山の再開発を奨励
・農民たちの自助力を高める復興策
…しかし早川が最も力を入れたのが教育でした。

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早川は自ら 『久世條教』 を出版、道徳教科書のようなものです。早川は村々にこの本を配り、人として農民として心得を教えたのです。

「…人はどれほど働いても
天地の力には及ばない

しかしこの道理を合点した上で
怠りなく昼夜働く事が大事である…」

早川が目指したのは、教育による心の復興でした。

代官・早川八郎左衛門正紀
「米を植えれば米ができ、豆を植えれば豆が生じる。善を植えれば幸福となる。悪を植えれば災いとなる」


久世の民政に尽力した早川、…次の赴任地への転勤話が持ち上がると早川の功績をまとめた長文の留任願いが出されました。

「…農民たちは大変慕っています
久世の悪習も改まりつつあります

どうか早川代官が永住しご支配下さいますよう
お願い申しあげます…」

全ての村から4度も留任願いが出されました。結局、早川は14年に渡って久世の代官を務めました。その優れた政治によって久世は飢饉の痛手から立ち直ったのです。

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静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「それまでは、年貢を多く取れるのが良い代官、…しかし、このあたりから ”村おこし” が出来る代官が評価されるんです」

早稲田大学大学院 教授 北川正恭
世襲を止めさせて新たな代官を任命、これが定信の ”分権自治” なんです。代官の采配に任せるのはすごい権限移譲です」


司会 渡辺真理
静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
学習院大学 教授 福島県立博物館館長 赤坂憲雄
早稲田大学大学院 教授 北川正恭