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山本五十六 運命の作戦を決行!!~真珠湾への道~(後編)

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NHK その時歴史が動いた真珠湾への道~(後編)
山本五十六 運命の作戦を決行!!

昭和16年(1941)年1月7日 山本は対米戦の作戦案を提出 真珠湾攻撃
「敵主力の大部隊、真珠港に在箔せる場合には、飛行機隊にてこれを徹底的に撃破す」・・開戦直後、アメリカの軍事拠点ハワイ真珠湾を航空機にて先制攻撃する作戦です。

山本は海軍の作戦を立案する軍令部に自ら立てたこの作戦を提出します・・しかし軍令部の反応は 「あまりにも博打的すぎる」 と拒否されます。
当時の海軍に戦いは艦隊決戦が支配的でした・・戦艦の補助的役割しか無かった航空機を主力として敵の本拠地に乗り込むという山本の策は、あまりにも現実離れしていると却下されました。

しかし従来の戦い方では長期戦になり日本は持ちこたえられないと山本は考えていました・・しかも山本は、この作戦の鍵となる航空機に誰よりも自信を持っていたのです。

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零式艦上戦闘機ゼロ戦)、97式艦上攻撃機、速度、航続距離、攻撃力、いずれも世界最高性能を持った航空機です。

山本は、作戦を承認されないまま準備に入ります・・敵艦隊を確実に殲滅するために山本が選んだのは、実戦でほとんど使われた事の無い航空機による魚雷攻撃でした。

大きな問題がありました・・魚雷は着水するとスイシン60mまで沈みます。真珠湾の水深は12m、海底にぶつかります・・それを避けるには従来より低空から魚雷を発射するしかありません。

密かに訓練が始まります・・場所は鹿児島湾、水深が浅く真珠湾に地形が似ています。
パイロットたちは、これまでにない訓練を強いられます 「魚雷発射高度を10mにせよ」 海面ギリギリを飛べと言うのです・・困難を極めます。

昭和16(1941)年4月16日 戦争回避に向け日米外交交渉が始まる
山本が作戦準備を進める中、アメリカに強硬姿勢をとっていた軍部に変化が生まれたのです・・場所はワシントン・・駐米大使 野村吉三郎、米国務長官 コーデル・ハルとの間で交渉が進められました・・海軍出身の野村は、山本と考えを同じくしていました・・山本は戦争回避を期待します。

昭和16(1941)年7月28日 しかしその時、陸軍部隊が南部仏印に進駐・・アメリカが警戒していた南方進出、それを更に拡大してしまったのです。

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昭和16(1941)年8月1日 米国は石油の対日輸出禁止を決定、石油の7割をアメリカからの輸入に頼っていた日本は窮地に追い込まれます。

9月、山本は首相の近衛文麿から私邸に呼ばれ日米戦の勝算について尋ねられました。
山本は答えます 「はじめ半年や一年は暴れてご覧に入れます。しかし2年、3年となっては、まったく確信は持てません・・日米戦争回避に極力ご努力願います」

昭和16(1941)年10月18日 東条英機内閣成立
日米開戦の是非を議論するも結論は出ず、戦争準備と外交交渉を並行して進める事となる。ただし外交交渉は12月1日と期限が設けられる・・それまでに外交解決が出来なければ戦争を決行、開戦は12月8日と決まりました。

真珠湾攻撃の要であった魚雷攻撃もようやく目途がついたが軍令部は相変わらず真珠湾攻撃を承認しません・・山本は、「作戦を認められなければ日米戦をやり通す見込みは無い、そうなれば自分と連合艦隊全幕僚は辞職する覚悟でいる」 と言い放ちました。

昭和16(1941)年11月19日 軍令部は、ついに真珠湾攻撃を正式に了承
海軍は開戦に向け準備を開始、真珠湾攻撃に参加する30隻が集められました・・その中心は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍、瑞鶴、翔鶴、6隻の航空母艦です・・山本は航空機による作戦を実現する為、戦艦ではなく空母を主軸とした世界で初めての航空艦隊を編成したのです。

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山本は攻撃部隊に 「ワシントンで行われている対米交渉が妥結したならハワイ出動部隊は、ただちに反転、帰投せよ」 と命令したのです。

命令に対し南雲忠一中将ら何名かの指揮官は 「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません」 と山本に回答・・・。

山本は珍しく声を荒げ 「もしこの命令を受けて帰れないと言う指揮官があるなら即刻辞表を出せ・・百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」 と言ったのです。

山本は、ここまで来ても戦争回避を諦めていなかったのです。

昭和16(1941)年11月20日 日本は南部仏印からの撤退の大幅譲歩の和解案を提出・・日本政府は、これだけ譲歩すればアメリカの態度を軟化出来るだろうと期待。

昭和16(1941)年11月26日 日本の和解案に対するアメリカの回答が届きました。
三国同盟からの脱退
仏印だけでなく中国大陸の全ての日本軍を撤退せよ
有名な 「ハル・ノート」 です・・明治以来、築きあげてきた権益のほとんどを放棄せよというアメリカ、日本政府にはとても受け入れられないものでした。

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昭和16(1941)年11月26日 同じ日に千島列島にあるヒトカップ湾に集結した30隻の艦隊が密かに日本を出港、ハワイ真珠湾に向かいます。
航空艦隊指揮官は、南雲忠一中将・・山本は、呉に停泊している戦艦長門の司令部で指揮をとります。
ヒトカップ湾を出た航空艦隊、ハワイまでは6000キロ、アメリカに察知されないため北太平洋航路が選ばれました冬は激しく海が荒れ船舶の往来がほとんど無いからです。

昭和16(1941)年12月1日 御前会議にて東条首相は、「事ここに至りましては、米英蘭に対し開戦やむなきに立ち至りましたる次第であります」 ここにアメリカとの開戦が正式に決定されたのです。

しかしここまで来てもワシントンの日本大使館は、諦めていません昭和天皇ルーズベルト大統領の国家元首の直接対話で戦争を回避する努力が続けられていたのです。

昭和16(1941)年12月2日 午後5時 呉の司令部から全部隊に電信が打たれました 「新高山登れ1208」 12月8日に作戦を実行せよ・・それは真珠湾攻撃の6日前の事でした。

昭和16(1941)年12月7日 ルーズベルト大統領から昭和天皇へ親書が送信されます・・国家元首による直接対話により開戦はギリギリ回避されるのか・・真珠湾攻撃へと突き進むのか・・山本は和平への動きが見えれば即時作戦中止の手筈を整え結果を待ちかまえました。

昭和16(1941)年12月8日 航空艦隊はハワイ北方426㎞の攻撃発信地点に到着・・攻撃開始時刻は現地時間、午前8時、6隻の空母ではパイロット達が発進命令を待っていました。

午前6時00分 真珠湾に向け183機の攻撃隊が発進
午前7時30分 先行していた偵察機より 「敵艦隊真珠湾に在り」 入電

同時刻、長門司令部・・ワシントンで開戦の事前通告が行われる時刻です。もし連絡があれば和解が進んだ印であり、作戦は即時中止・・連絡がなければ最後まで戦争回避に賭けた山本の願いがついえた事を意味します。

・・・ジッと待つ山本、しかしついに連絡は入りませんでした。

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午前7時55分 真珠湾の真上に到達した攻撃隊は一斉に降下して行きました・・停泊するアメリカ艦隊や飛行場に魚雷と爆弾で襲いかかる攻撃隊、真珠湾アメリカ軍は、空から突然襲い掛かってきた日本軍にほとんどなすすべがありませんでした。

8隻の戦艦をはじめ18隻の軍艦が撃沈もしくは大破、航空機200機損壊、作戦は僅か2時間でアメリカ太平洋艦隊に壊滅的な打撃を与えたのです。

呉の長門司令部に次々と戦果の報告が入り湧き立つ司令部だがただ一人、山本は腕組みをして表情がありません。

午前10時30分 攻撃を終えた航空機が次々と空母に帰還・・しかしまだ燃料タンクとドックを攻撃していませんでした。・・更に真珠湾には、アメリカの空母の姿が無かったのです。
再び出撃し攻撃し残した施設や空母を攻撃するか・・実は現地指揮官の南雲には軍令部から 「航空艦隊を無傷で連れ帰る事」 が重く課せられていたのです。

南雲は命じます 「航空機を格納庫へ収納せよ日本へ帰投する」 でした。

日本の司令部では、攻撃がまだ不十分だと参謀達が山本に詰め寄ります・・「敵をこの一撃で徹底的に撃破すべし」 それが山本の当初の作戦構想でした。

しかし山本は告げます 「ここは航空艦隊指揮官に任せておこう」 この瞬間、真珠湾攻撃は終わりました。

作戦後、山本は思いがけない知らせを受けます・・アメリカへの開戦通告が攻撃開始の55分後だったのです・・「日本はだまし討ちをした」 アメリカ世論は一気に対日戦指示に傾きます。

山本は攻撃に成功しながら作戦書で意図したアメリカ国民に戦意を喪失させ戦争を早期に終息させる事は出来ませんでした・・やがて巨大な産業力を背景に軍を立て直したアメリカの逆襲が始まります。

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昭和17(1942)年6月 ミッドウェー海戦敗北
昭和17(1942)年8月 ソロモン海戦敗北
昭和18(1943)年2月 ガダルカナル島撤退

山本は戦況が悪化するにつれ、求めて最前線で指揮をとるようになります。

昭和18(1943)年4月18日 山本は周囲の反対を押し切ってラバウル基地から敵の多い危険地域に飛び立ちました・・しかしあの真珠湾を指揮した司令官を躍起になって探していたアメリカ軍に待ち伏せされます。

山本搭乗の飛行機は16機の戦闘機の猛攻を受け密林に撃墜されました。

山本五十六 戦死(享年60) 
死の7か月前、密かにしたためていた手記には、こう記されていました。

「ああ 我なんの面目かありて見えむ大君に・・はたまた逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし・・いざ待てしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦ひて・・やがて後追ふ我なるぞ。」

真珠湾攻撃から3年8ヶ月、国土は焦土と化し日本は降伏したのです。