旅cafe

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日露戦争の大激戦地 二〇三高地の悲劇

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日露戦争二〇三高地攻略戦というのは9日間で日本軍、ロシア軍、合わせて8000人の戦死者を出した日露戦争の中でも最も悲劇的な戦いでした。

現地の指揮官は乃木希助 陸軍第三軍司令官・・乃木は、二百三高地を攻めれば相当な被害が出る事を事前の調査で分析していました。

大きな犠牲を伴う二百三高地攻略戦実行を乃木はためらい続けたのですが結果的に乃木は、攻撃という苦渋の決断をせざる得なかったのです。・・何が彼を二〇三高地総攻撃へ決意させたかを読み解きます。

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明治37年(1904)年2月6日 日露戦争開戦
開戦と同時に日本連合艦隊はロシア旅順艦隊の拠点港、旅順に向かいます・・ロシア艦隊に日本海制海権を握られると日本軍は大陸への兵、物資の輸送が出来なくなり日本軍は、敗北します。

日本軍は生命線である輸送路確保のため旅順艦隊殲滅を目指しますが深い入り江に守られた旅順港からロシア艦隊は出てきません・・やむえず日本軍は港封鎖の為、海上待機を余儀なくされます。

更にロシアは、ヨーロッパのバルチック艦隊を日本の向かわせます・・旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちを受ければ日本連合艦隊に勝ち目は有りません。
バルチック艦隊到着までになんとしても旅順艦隊を撃破しなければならない・・そこで陸軍乃木の第三軍に旅順要塞を陥落させ旅順艦隊を陸から攻撃させる作戦となったのです。

陸軍は旅順要塞総攻撃を決定、5万の兵員を旅順に派遣します・・ところが総攻撃予定の2週間前、日本の諜報員から陸軍参謀本部に驚くべき情報が入ります。
「東鶏冠山と二龍山の間には12個の砲台があり、各砲台は塹壕で連絡し前面には幅5軒の深い水郷がある」・・ロシアの旅順要塞が当時世界最強の近代的な設備を持った大要塞に増強されていたのです。
しかし、参謀本部は、総攻撃を推進したのです。

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明治37年(1904)年8月19日 旅順要塞への第一階総攻撃が始まる・・乃木の作戦は集中砲撃で敵陣の守りを崩し一気に歩兵を突入させ要塞を突破する強襲作戦でした。

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しかし厚いコンクリートで守られたロシアの陣地には砲撃の効果がほとんど無く、突撃した日本兵は倒れてゆきました。
8月24日 乃木司令官は、総攻撃中止を命令します・・海軍と参謀本部の要請によって強行された作戦は失敗に終わりました。

立ちはだかる旅順要塞、多大な犠牲を出した陸軍第三軍は作戦の根底からの見直しを迫られたのです。
会議の席で一人の参謀が 「ロシア旅順艦隊撃滅が目的なら西北の丘(二〇三高地)を占領すれば山頂から港が展望できる。そこに観測所を設けて旅順要塞の頭越しに長距離砲で旅順艦隊を攻撃すればよいのでは」・・と提案したのです。

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明治37年(1904)年9月19日 日本軍、二〇三高地への攻撃を開始する・・砲撃の後、斜面を駆け上がる突撃作戦を実施するも山頂からの攻撃に対し身を隠すものが何もない事に加え、予想以上のロシア軍の激しい抵抗に日本兵は次々と倒れてゆきます。
4日後2500人もの死傷者を出して攻撃は中止、日本軍は二〇三高地攻略にも多大な犠牲が伴う事を思い知らされたのです。

しかし乃木司令官の元に朗報が・・二〇三高地の攻撃の途中に占領出来た隣の南山玻山から旅順港が見えると言うのです。
ただちに南山玻山山頂から旅順艦隊の位置を測定、砲撃を開始、大口径の28サンチ砲の砲弾が要塞を超え旅順艦隊に降り注ぎました。

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第三軍の砲撃記録・・
「10月7日、一週間の砲撃により戦艦三隻はもはや運動力を有せざると判断する」
「10発13日、新たに戦艦に命中、この艦も戦闘力無きものと判断す」
となっています。
やがて日本軍の砲撃に対してロシア旅順艦隊は、山影の死角に避難します。

この時、捉えられたロシア軍捕虜から有力な情報が得られます。
「旅順艦隊主力は弾薬・火薬を撤去し火砲も全て陸上砲に転用し水兵も陸戦隊に編成された」
この大本営と海軍首脳が待ち望んだ情報を乃木司令官は、ただちに大本営に報告します。

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その3日後、10月16日 衝撃的な情報が大本営に入ってきます。
ロシア海軍の主力、バルチック艦隊17隻がついに日本近海に向け出港したというのです。
バルチック艦隊来襲が現実になると海軍首脳は、「ロシア艦隊撃滅」 の報告を疑い始めます。

動揺する海軍首脳は、再び陸軍に要請します。
「一刻も早く、港の全景を見渡せる二百三高地を占領して旅順艦隊を砲撃し、撃滅を確実なものとしてほしい」 と・・。

一方、旅順艦隊の壊滅を信じる陸軍第三軍は、海軍からの203高地攻撃の要請を黙殺します。
多大な犠牲が避けられない二〇三高地を攻めるより、塹壕を掘り進める着実な作戦で旅順要塞を攻略しようと考えていました。

明治37年(1904)年10月26日 第二回旅順要塞総攻撃
塹壕がロシア軍要塞付近まで掘り進むと乃木司令官は総攻撃開始を命じます・・まず要塞地下のコンクリートの壁を爆破、兵士たちは一斉に地下通路に突入したのです。・・しかし、いたるところに設けられた隠し部屋から狙い撃ちにされ次々と倒れてゆきました。

10月31日 旅順総攻撃中止・・2カ月に及ぶ塹壕建設もむなしく総攻撃はまたしてもロシア要塞に跳ね返されたのです・・海軍の二百三高地攻略要請を退けて決行された作戦は失敗しました。
この事が大本営を動かし、乃木第三軍司令官を追い詰めてゆきます。

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その間もロシアバルチック艦隊は着々と日本に近づきつつあります。大本営バルチック艦隊到着を来年1月と予想。
明治37年(1904)年11月8日 大本営連絡会議 バルチック艦隊来襲まで残り2カ月、海軍は改めて第三軍に二〇三高地攻略を実行させるよう迫ります・・陸軍最高幹部 山県有朋 陸軍参謀総長バルチック艦隊接近という緊急事態にこの意見を受入れます。

翌日山県は現地に打電
「旅順攻撃の重点を二〇三高地に変更せずして時日を経過すれば艦隊の準備が損なわれ、我が軍に遂に救うべからざる状態を招きかねない」

しかし乃木は、これまでの要塞攻略作戦を続けようとします・・旅順市内に送り込んだスパイから次のような情報を得ていたのです。
「当初4万人いたロシア兵の多くが負傷し、今や健全な戦闘員は1万5千人以下である。兵員不足をしのぐため傷病兵までが前線に駆り出されている」
乃木は、このまま攻撃を続ければ確実に旅順を陥落できると考えたのです。

明治37年(1904)年11月14日 203高地攻略に踏み出さない乃木に業を煮やした陸海軍首脳は、明治天皇ご臨席の御前会議を開き 「現地陸軍にロシア旅順艦隊攻撃を優先させる」 という天皇の裁可を得たのです。

そして乃木は御前会議の決定を受入れたのです。
しかし、2か月前の日本軍の攻撃で二〇三高地の戦略的重要性に気付いたロシア軍は、突貫工事によって一大要塞に変貌させていたのです・・これを陥落させるには前回を大きく上回る未曾有の犠牲が予想されました。

バルチック艦隊が迫る中、もし作戦が失敗に終われば日本の敗北につながる・・その責任の全てが司令官乃木の肩にのしかかったのです。

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明治37年(1904)年11月27日 二百三高地総攻撃
まず28サンチ砲が二百三高地に対し砲撃、6000人の日本兵が決死の突入を開始します。
その頭上からのロシア要塞の砲台から容赦なく銃弾と手榴弾そして砲弾が降り注ぎます。
ある将校の言葉 「ああ惨劇 虐殺以上の惨劇 敵の鉄条網切断に至る数十メートルの地面は瞬時にして一面我が兵の死体を持って覆われ尺寸の地をも余さざるに至った」

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明治37年(1904)年12月5日 ここまでの日本軍死傷者1万7000千人、ロシア軍4600人・・9日間に及ぶ日本軍の絶え間ない突入にロシア軍はついに力尽き二百三高地は陥落したのです。

午後、二〇三高地に観測所が設けられ、旅順艦隊に向け砲撃が始まりました・・日本軍は未曾有の犠牲の果てにロシア旅順艦隊の壊滅を確実なものとしたのです。

明治38年(1905)年5月27日 日本連合艦隊は、日本海海戦バルチック艦隊を撃破・・この段階で日露戦争での日本の勝利が決定的なものとなったのです。