日露戦争を勝利に導いた2つの海戦 その1 黄海海戦
明治37年(1904)年2月6日 日露戦争開戦
開戦と同時に日本連合艦隊はロシア旅順艦隊の拠点港、旅順に向かいます・・ロシア艦隊に日本海の制海権を握られると日本軍は大陸への兵、物資の輸送が出来なくなり日本軍は、敗北します。
艦隊参謀の秋山は、この旅順艦隊を一気に撃破する為の秘策を考案 「丁字戦法」 です。・・丁字戦法は、かつて秋山が室町時代の水軍から学んだ 「複数の船が敵の一部を集中して攻撃する」 という原則を応用したものでした。
まず一線となって進む敵のゆく手を 「丁」 という文字を描くように遮ります・・当時の戦艦は、船の側面に大砲の多くを並べていました。その為、敵の前に横一線に戦艦を配置すれば数多くの大砲で敵の先頭の艦を一斉に砲撃できるのです。
日本軍は生命線である輸送路確保のため旅順艦隊殲滅を目指しますが深い入り江に守られた旅順港からロシア艦隊は出てきません・・やむえず日本軍は港封鎖の為、海上待機を余儀なくされます。
更にロシアは、ヨーロッパのバルチック艦隊を日本の向かわせます・・旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちを受ければ日本連合艦隊に勝ち目は有りません。
バルチック艦隊到着までになんとしても旅順艦隊を撃破しなければならない・・そこで陸軍乃木の第三軍に旅順要塞を陥落させ旅順艦隊を陸から攻撃させる作戦となったのです。
第三軍はは、旅順要塞攻略とまではいきませんが多大な犠牲をものともしない執拗な攻撃で徐々にロシア軍を追いつめてゆきます。
旅順要塞司令官スッテッセルも 「旅順艦隊がいるから乃木も執拗に攻撃を仕掛けてくるんだ」 と考え旅順艦隊司令長官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将に 「港から出て行け!・・ウラジオストックに向かえ」 とプレッシャーをかけます。
極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフも旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令した。
警戒中の戦艦「初瀬」、戦艦「八島」 がロシアの機雷に触れ相次いで沈没、6隻の戦艦のうち2隻を戦わずして失います・・これで戦力的に戦艦の数で上回るロシア旅順艦隊に有利になってきたのです。
陸上では、第三軍の放つ砲弾が旅順市内に落ち、時には港内に落ちて水煙を上げ、艦船を傷つける事も・ヴィトゲフトはとうとう港から出て行く事を決断したのです・・日本海軍が国の命運を賭けて近代開戦に挑む時が来たのです。
日本海軍連合艦隊
戦艦4、装甲巡洋艦4、防護巡洋艦10、駆逐艦18、水雷艇30
明治37年(1904)年8月10日 午前9時38分 連合艦隊出撃 黄海開戦が幕を開けたのです。・・連合艦隊は、旗艦三笠を先頭に旅順艦隊に迫ります。
いよいよ秋山の 「丁字戦法」 が試される時が来ました。両者の距離が1万メートルにせまった午後1時36分、司令長官東郷は、全艦に右への一斉ターンを命令、連合艦隊は、ロシア旅順艦隊の進路を遮る形になります。・・「丁字戦法」 の始まりです。
しかしこの時、予期せぬ事が起こります・・ロシア旅順艦隊は、連合艦隊を避けるように左にターン・・逃走を開始したのです。
この時、日本連合艦隊の指揮系統に僅かな空白が生じました・・司令長官東郷が旅順艦隊の逃走を確認し追撃命令を出したのは3分後だったのです。
この隙に旅順艦隊は一気に加速、ロシア艦隊のもう一つの拠点港ウラジオストクを目指します・・旅順艦隊は徐々に連合艦隊を引き離します。
(写真は、追走する連合艦隊)
このまま旅順艦隊にウラジオストクに逃げ込まれれば連合艦隊は、バルチック艦隊との挟み撃ちあい日本の制海権はロシアに奪われます・・それは日本の敗北を意味します。
しかし追撃を始めて3時間後、ロシア旅順艦隊に異変が・・艦隊の一隻が故障を起こしスピードを落としたのです・・再び射程距離内に入ったロシア旅順艦隊に連合艦隊は砲撃を開始・・その内の一弾が奇跡的に旅順艦隊旗艦の司令塔を直撃します。
ヴィトゲフト司令長官が死亡した上に旗艦のコントロールが効かなくなったのです・・陣形を崩したロシア旅順艦隊に日本連合艦隊は、一斉砲撃をくわえます。
ロシア旅順艦隊主力艦10隻をほとんど戦闘不能にしたのです・・黄海開戦は、日本連合艦隊の勝利に終わりました。
■しかし黄海開戦は失敗でした・・戦いの勝敗の基準を作戦目的を満足させたかと言う事であれば・・この戦いは日本側の敗北でないにしろ失敗でした。
■ロシア旅順艦隊は、大きな傷を負いながらも5隻の戦艦を含め艦隊の大部分を再び旅順港へもぐりこませてしまったからです。
■この後、連合艦隊は、乃木の第三軍が膨大な犠牲を伴いながらも二百三高地を落とし、陸軍が旅順艦隊を撃破すまで海上封鎖を続けざる得なくなるのでした。