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日露戦争100年 日本海海戦 ~参謀 秋山真之・知られざる苦闘~

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NHK その時歴史が動いた
日露戦争100年 日本海海戦
~参謀 秋山真之・知られざる苦闘~

明治36(1903)年 日本と大国帝政ロシアとの衝突は避けられないものになっていました…帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上、占領下に置き更に朝鮮半島日本海に進出する動きを見せていました。

大陸での利権を争っていた日本はこれに対立します…しかし新興国日本と大国ロシアの国力、軍事力には大きな差がありました。大陸での戦いになれば日本軍は補給路の確保が生命線になります…そこで予想されたのが日本海制海権を争うロシア艦隊との激突でした。

しかしこの時、日本海軍の戦力はロシア海軍の1/3にすぎませんでした…日本海軍は一人の男に白羽の矢を立てます。海軍少佐・秋山真之、まだ30代半ばながらその明晰な頭脳は “智謀湧くが如し” と言われるほどの俊英でした。

秋山は、明治元(1868)年、伊予の国(愛媛県松山)の貧しい士族の家に生まれました…15歳で上京した秋山は築地の海軍兵学校に入学します。政治経済界の中枢を薩摩藩長州藩出身者が占めていた明治初頭、若き秋山は海軍で実力で勝負しようと考えていたのです。

海軍兵学校で秋山はあまり勉強している気配が無いにもかかわらず、その成績は常に主席でした。その秘訣を聞く友人たちに秋山はこう答えます。

「教官の説明振りや講義中の顔つきに気をつけていると出しそうな試験問題をほぼ推定することができるのだ」(『秋山真之の言葉』)…いかに効率よく高得点を取るのか戦術家秋山の片鱗はこの頃すでに表れていました。

兵学校を卒業し、海軍少尉となった秋山は戦術の研究にのめりこみます…ある年、体調を崩し入院した秋山は意外な本に熱中します。それは室町時代に故里・伊予の海で勢力を誇った村上水軍兵法書でした。

その書には、「海の戦では、複数の船が全力を挙げて敵の一部を攻撃することが肝要である」…ということが書かれていました。

秋山は友人にこう語ります…「この書を活用すればりっぱな近代戦術ができる…実に愉快じゃないか」

明治30(1897)年 秋山は海軍の先進国であるアメリカを視察します。当事世界の海軍は技術革新を急速に進めていました。大砲の射程距離や破壊力が飛躍的に伸びる一方で軍艦を守る鋼鉄の装甲は厚さを増し、船の速度も飛躍的に速くなっていました。

そうした近代的戦艦による海戦では、組織的な行動が勝利の鍵を握っていました…渡米した秋山はこの事実を明らかにする絶好の機会に遭遇します。スペイン艦隊とアメリカ艦隊がキューバ沿岸で激突したサンチャゴ海戦です。

この時、サンチャゴ湾に閉じ込められていたスペイン艦隊は隙を見て脱出を試みました…不意を突かれた上、指揮系統が混乱したアメリカ艦隊は初動が遅れます。この時、アメリカ艦隊の戦艦オレゴンが指令を待たずスペイン艦隊を追走、砲撃に成功します。やがて他の軍艦も追いつきスペイン艦隊は撃破されました。

秋山はアメリカ戦艦オレゴンが作戦の目的をよく理解し、戦況の変化に対して独自の行動をした事に注目します。“近代海戦では作戦の理解の徹底が勝利を生む” という事を秋山は学んだのです。

帰国した秋山は明治35(1902)年、海軍大学校の教官に任命されます…ところがこの時、秋山は日本海軍が大きな問題を抱えていることに気づきます。ある演習で秋山がごく基本的な海戦の戦術について語ると艦長クラスの指揮官の殆どがその戦術を知らなかったのです。

海軍には秘密保持の為、戦術は一部の指揮官、参謀だけにしか知らせないという伝統があったのです。秋山は上官への手紙で訴えています。

「有益なる技術上の知識が敵に遺漏するを恐るるよりは、むしろその知識が味方全般に普及・応用されざるを憂ふる次第に御座候」(『秋山真之の手紙』より)

秋山は日本海軍の遅れた近代戦術の知識を克服しようとアメリカで学んだ新しい作戦演習を取り入れます…軍艦に見立てた駒を動かして行う兵棋演習です。

兵棋演習では海戦で起こりうる様々な状況に対し、各自が作戦目的に従ってどのような行動を取ればよいか、不測の事態にどう対処すればよいか対応力を問われます。

秋山は将校たちに語ります…「ただかくの如きもある、是もある、という知識の増加で力は増加しないのである。兵書より得たる所を自分にて種々様々に考え、考えた上に考え直して得たる所こそ、実に諸君の所有物である」(『秋山真之の言葉』より)

明治36年5(1903)月、ロシアはついに朝鮮半島への南下を開始、日本とロシアの緊張は頂点に達します。12月28日、日本海軍は歴戦の勇士・東郷平八郎を司令長官に任命、各地の艦隊を一つに結集し、連合艦隊を編成します。

明治37(1904)年2月6日、日本はロシアに国交断絶を宣告、この日の早朝、連合艦隊佐世保を出航します。旗艦・三笠の艦橋に立つ司令長官・東郷平八郎の傍らには東郷自らが指名した作戦参謀、秋山真之の姿がありました。

日本海軍が国の命運をかけて近代海戦へ挑むときが近づいてきました…それは日本海海戦の1年3ヶ月前のことでした。

明治37(1904)年2月、開戦と動じに連合艦隊が目指したのは中国東北部旅順港…ここにはロシア旅順艦隊がいました。ロシア旅順艦隊は日本の大陸への補給ルートを容易く断ち切れる位置にいました。

連合艦隊はまずこの旅順艦隊を壊滅する必要があったのです…ロシア旅順艦隊の主力は戦艦7隻、巡洋艦4隻、秋山はこの旅順艦隊を一気に撃破する秘策を考案します。…丁字戦法(ていじせんぽう)です。

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丁字戦法はかつて秋山が室町時代の水軍から学んだ “複数の船が集中して敵の一部の船を攻撃する” という原則を応用したものでした。

まず一線となって進んでくる敵の行く手を『丁』という文字を描くように遮ります…当事の戦艦は船の側面に大砲の多くを並べていました。その為、敵の前に横一線に船を配置すれば数多くの大砲で敵の先頭の艦を一斉に攻撃できるのです。

こうして敵艦を一隻づつ全軍で砲撃して敵艦隊を壊滅させる、それが丁字戦法でした…ところがロシア旅順艦隊は連合艦隊との戦いを避け、港から出てこようとしません…これでは広い海上での戦術である丁字戦法は使えません。

連合艦隊旅順港の沖でロシア旅順艦隊とにらみ合いを続けるしかありませんでした。持久戦となって3ヶ月経った明治37(1904)年5月15日、連合艦隊は思わぬ打撃を被ります。警戒行動中の戦艦・初瀬、八島がロシアの機雷で相次いで沈没、6隻の戦艦の内2隻を戦わずして失ったのです。

更に連合艦隊を追いつめる報せが秋山たちに飛び込んできました…ロシアがバルト海にいる主力艦隊、バルチック艦隊を日本に向かわせるということでした。ロシア旅順艦隊が健在である今、更にバルチック艦隊が到着すれば連合艦隊は挟み撃ちにあい壊滅します。

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バルチック艦隊到着前に旅順艦隊を撃破することができなければ日本の命運は尽きる…東郷、秋山ら連合艦隊幹部は追いつめられます。

明治37(1904)年8月10日、事態は急変します…内陸から旅順に迫った日本陸軍が港への砲撃を開始、ついにロシア旅順艦隊が港を出たのです。それは秋山らが半年間待ち続けたチャンスでした。

午前9児8分、連合艦隊出撃、黄海開戦の始まりです…連合艦隊は旗艦・三笠を先頭にロシア旅順艦隊に接近します。いよいよ秋山の丁字戦法が試される時がやってきました。

両者の距離が1万メートルに迫った午後1時36分、司令長官・東郷平八郎は全艦に右への一斉ターンを命令、連合艦隊はロシア旅順艦隊の進路を遮る形になります。丁字戦法の始まりです。

しかし、この時、予期せぬ事態が勃発します…ロシア旅順艦隊は日本連合艦隊を避けるように左へターン、逃走を開始したのです。この時、日本連合艦隊の指揮系統に僅かな空白が生じました。

司令長官・東郷がロシア旅順艦隊の逃走を確認し、追撃の指令を出したのは3分後だったのです。…この隙に旅順艦隊は一気に加速、ロシアのもう一つの拠点港・ウラジオストクを目指します。

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ロシア旅順艦隊は徐々に連合艦隊を引き離します…このままロシア旅順艦隊にウラジオストクに逃げ込まれれば連合艦隊バルチック艦隊との挟み撃ちあい日本の制海権はロシアに奪われます。それは日本の敗北を意味していました。

しかし追撃を始めて3時間後(午後5時37分)、ロシア旅順艦隊に異変が起こります…艦隊の一隻が故障を起し、スピードを落としたのです。再び射程に入ったロシア旅順艦隊に連合艦隊は砲撃を開始、その内の一弾が奇跡的に旅順艦隊・旗艦の司令塔を直撃します。

司令長官が死亡した上に旗艦のコントロールが利かなくなったのです…陣形を崩したロシア旅順艦隊に日本の連合艦隊は一斉砲撃を加えます。ロシア旅順艦隊の主力艦の多くが先頭不能となりました…黄海開戦は日本連合艦隊の勝利に終わりました。

しかし秋山は大きな挫折を味わっていました…自信を持って発案した丁字戦法は、もろくも失敗したのです。

明治37(1904)年10月15日、黄海開戦の2ヵ月後、秋山たちの次なる敵バルチック艦隊がロシア・リバウ港を出港、バルチック艦隊と遭遇するまでに連合艦隊勝利の策を見つけることができるのか、その成否は東郷に全てを託された秋山の肩にかかっていました。

それは日本海海戦の7ヶ月前の事でした。

黄海開戦から7ヵ月後、明治38(1905)年3月、ロシア・バルチック艦隊が迫る一方、大陸ではロシア軍との戦いの中、日本軍が多くの兵員を失い武器、食料も底を付き始めていました。

本土からの補給が途絶えれば大陸の日本軍は壊滅します…連合艦隊の指名は大陸への補給路を確保するためバルチック艦隊を撃破し、日本海制海権を死守することでした。連合艦隊司令長官東郷平八郎は日本の命運を決する日本海海戦の作戦立案という重責を秋山真之に託します。

この時、予想されるバルチック艦隊の到着まであと2ヶ月、秋山は三笠の士官室に閉じこもり、作戦立案に没頭します。防衛庁防衛研究所にこの時の秋山の苦闘をうかがわせる資料が残されています。

『連隊機密』連合艦隊司令部が発した極秘命令文です…これによると秋山は日本海海戦前の一ヵ月半の間に4回作戦改定を行っています。

4月12日、第1回の作戦書が提出されました。『七段構えの戦法』…まず夜間に駆逐艦水雷艇が奇襲攻撃、そして日中に主力艦で一斉砲撃を行います。それを3日間、6段階にわたって繰り返し、最期はウラジオストク水域の機雷域に敵を追い込んで全滅させる作戦でした…その後、秋山は艦隊配列を変えた第二回の作戦書も作成しています。

5月17日、第3回作戦書で秋山は七段構え戦法に更に改良を加えます…連繋水雷による先制攻撃です。連繋水雷とは秋山が自ら発案した戦術です…複数の水雷をロープで繋ぎ敵がその内の一つに接触すれば引き寄せられた水雷が次々爆発し敵艦を撃沈させるというものでした。

バルチック艦隊が間近に迫った5月21日、秋山は最期の作戦書の中でついに主力船隊の丁字戦法の改良に着手します。名付けて『平航戦』(へいこうせん)…黄海開戦では敵の進路を遮るようにターンしたために反対方向に敵を逃す隙を与えてしまいました。

これを防ぐために、まず敵の一方の逃げ道をふさぐようにギリギリまで艦を進めます…次に常に敵と併走して敵よりも速い速度で先回りして進路を塞ぎます。そして丁字型に持ち込んだところで先頭の敵艦に集中砲火を浴びせるということです。

しかしこの作戦には大きなリスクがありました…敵に近づいてからターンする場合には逆に集中砲火を受けるのです。バルチック艦隊が迫る中、秋山はこの丁字戦法を改良した『平航戦』を東郷司令長官に提出、了承されます。

秋山は作戦を成功させるために厳しい艦隊行動訓練を繰り返し行います。正確な舵取り、速度、ボイラーに石炭を投入するタイミングとその量、しかしそれだけでは足りないと秋山は訴えました。

指揮官から水兵まで全員が作戦を完全に理解し、どんな不測の事態が起こっても瞬時に修正する判断力を持たなければ勝利は無い…それはかつて秋山がサンチャゴ海戦で一隻のアメリカの戦艦が独自の戦況判断で単独行動を行い勝利を導いたのを目撃した経験からの訓練でした。

明治38(1905)年5月27日午前4時45分、長崎県五島列島の沖、西北74キロ、連合艦隊の偵察船・信濃丸は暗闇の中に船の灯りを発見します。バルチック艦隊です。

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報せを受けた秋山はすぐに東京の大本営への伝聞を起草…「連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす…本日天気晴朗なれども波高し」

この天気晴朗なれども波高しの言葉には秋山の苦悩が隠されていました…波が高いと先制攻撃のために準備した連繋水雷作戦が決行できないのです。水雷艇は非常に小さく、3mを超える波の中では作戦行動が出来ません。

先制攻撃、連繋水雷作戦が不可能となった今、丁字戦法を改良した『平航戦』の成否に日本の命運がかかっていました。午後1時57分、ついにバルチック艦隊との距離が1万メートルに迫ります。

かつてターンをした距離です…しかし東郷はまだターンの合図を出しません。敵の退路を絶つ事が出来る距離までこのまま進む、東郷は傍らに立つ参謀・秋山の作戦を信じ、粛々とその時を待ちます。

午後2時5分、その距離8000m、連合艦隊はついにバルチック艦隊と並ぶ寸前の位置に達しました…東郷の右手が上がります。旗艦三笠が猛烈に舵を切り150度のUターンを開始、その後ろを第一戦隊、更に第二戦隊が一糸乱れることなく続きます。

午後2時24分、三笠以下連合艦隊第一戦隊は、敵の進路を完全に塞ぎました…計63の砲門が一斉に敵の先頭艦スワロフに集中攻撃を開始、この砲撃の凄まじさをロシアの水兵はこう表現しています。

「日本の砲弾はまるであられのように降ってきた」(『バルチック艦隊水兵の回想』より)

連合艦隊は敵の先頭艦スワロフに続く戦艦オスラビアにも集中攻撃を浴びせ壊滅的な打撃を与えます。…ところが午後2時50分、不測の事態が起こりました。

バルチック艦隊3番手の戦艦ボロジノが突如進路を反対方向に転じたのです…旗艦三笠にいた秋山の脳裏に逃走を許した黄海開戦の記憶がよぎります。秋山らは直ちにボロジノ追撃を決断、後続艦もこれに続きました。

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一斉に逆ターンを決行した連合艦隊第一戦隊、ところがこれを見たバルチック艦隊はボルジノを先頭に再び逆にターンしたのです。この時、東郷・秋山率いる第一戦隊は既に逆ターンを終え、即座にロシア艦隊を追う事は不可能でした。

日本の運命を担った秋山の作戦は再びついえるかに見えました…その時、第一戦隊の後方、第二戦隊が驚くべき動きを見せました。まだターンに入っていなかった第二戦隊は秋山らの第一戦隊を追わずそのまま直進、逃走するバルチック艦隊を追走したのです。

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これは第二戦隊を指揮下におく、司令長官・上村彦乃丞の判断によるものでした…上村はこの不測の事態に敵の前方からの集中攻撃という秋山の作戦を達成させるために独自の判断で行動したのです。

その時、明治38年5月27日午後3時10分、直進した第二戦隊は逃走するバルチック艦隊の進行方向を再び塞ぎ敵の頭を押さえたのです。

第二戦隊は集中砲撃を開始します…この砲撃にバルチック艦隊の後続艦は次々と大破、やがて三笠以下、第一戦隊も態勢を立て直して攻撃を再開、主力艦を次々撃沈させます…ロシア・バルチック艦隊はここに壊滅したのです。

「司令官以下、全員が作戦を理解し、不測の事態に対処する」…秋山が目指した近代海軍の理念に応えた第二戦隊独自の行動が日本を危機から救いました。

後に秋山は日本海海戦の勝利をこのように語っています…「この成果を見るに及んで唯感激の極、言う所を知らざるものの如し」(『秋山真之の言葉』より)