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昭和 とめられなかった戦争 第2回「日米開戦 決断と記憶」

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NHK さかのぼり日本史 昭和 とめられなかった戦争 第2回「日米開戦 決断と記憶」

日本人はなぜ圧倒的な国力のあるアメリカとの戦争を選んだのか・・最近、昭和の太平洋戦争と明治の日露戦争を繋ぐ資料が見つかりました。

太平洋戦争を指揮したある将校が少年時代に日露戦争を描いたスケッチ・・少年は大国ロシアとの戦争に心を躍らせていました。

東京大学大学院教授 加藤陽子
日露戦争というのは、すごく昔かと思うんですが太平洋戦争から考えれば35年前なんです・・この時の日露の国力差は、1対10だったんです・・そこで勝てたではないかと多くの国民が思ってしまったのです」

1941年の日米開戦、その決断の奥に秘められた日露戦争の記憶に迫ります

1937年に始まった日中戦争、戦いは中国全土へ拡大し、長期化していました・・日本に徹底抗戦する中国を支援していたのは、鉱物資源などの取引で経済的関係の深かった欧米諸国でした。

日本軍は欧米からの補給ルートを遮断すべく1941年7月フランス領・インドシナ、現在のベトナムへ侵攻します。(南部仏印進駐)

そこには南方の豊富な資源確保とうい狙いもありました・・これに対しアメリカのルーズベルト大統領は強硬な姿勢を打ち出します。

アメリカ国内にある日本の資産を凍結・・更に石油の輸出も全面禁止、アメリカの対応に日本は大きな衝撃を受けました。

「追い詰められる前に戦争を始めるべきだ」・・アメリカとの早期開戦を唱える軍部指導者は、1941年9月の御前会議で「短期決戦なら勝算はある」 と訴えます。

この席で昭和天皇は37年前の日露戦争の時に明治天皇が作った歌を読み自らの心境を伝えました・・「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」 アメリカとの戦争は避ける事は出来ないのか・・天皇は外交交渉の問題解決に望みを託していました。

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東京大学大学院教授 加藤陽子
「日本は、アメリカとの開戦を1941年の20年前から意識していたと考えます・・1923年の帝国国防方針では『中国をめぐる経済的な利害の対立が日米で高まる』という言葉が日本側の方針の中に入ってきます」

1924年 アメリカも対日作戦計画『オレンジ・プラン』を採択します・・つまり中国をめぐる経済問題で両国は対立すると両国とも考えていたのです」

日本とアメリカの国力差(開戦時)

国民総生産:12倍
鋼材:17倍
自動保有台数:160倍
石油:721倍

東京大学大学院教授 加藤陽子
「実は小学校などに内閣が配っている冊子で日米の差をわかりやすいグラフで公表していました・・むしろこういう差を乗り越えてやるという精神論になっていたと思います」

「精神論という事ならむしろ日露戦争の事が思いおこされます・・日露戦争というのは、すごく昔かと思うんですが太平洋戦争から考えれば35年前なんです・・この時の日露の国力差は、1対10だったんです・・そこで勝てたではないかと多くの国民が思ってしまったのです」


映画『硫黄島からの手紙』太平洋戦争最大の激戦を実話に基づいて描いた作品です・・主人公は硫黄島を守る部隊の最高司令官、栗林忠道 中将です。

物量に勝るアメリカ軍に対し、日本軍は地下壕を張り巡らす戦術で善戦・・栗林は優れた指揮官としてアメリカでもその名を知られる存在となりました。

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最近、長野県にある栗林忠道の生家で新たな遺品が見つかりました・・忠道が少年時代に書いた絵や手紙などです・・その殆んどが日露戦争に関するものでした。

日露戦争の当時、忠道は地元、高等小学校に通っていました・・出征した兄に憧れ軍人を志していたといいます。

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上記写真は、忠道が13歳の時に資料を元に書いた旅順作戦の解説本です・・塹壕戦の詳細なスケッチやメモ、日本軍を苦しめたロシア軍の戦術が詳しく記されています。

塹壕を掘り、陣地を繋げる・・この忠道13歳の時に作った旅順要塞手引きは、硫黄島守備隊の手引きと同じです。

大国ロシアを相手に1904年に始まった日露戦争、翌年日本はロシアを打ち破ります・・世界を驚かせた快挙です・・日本は国を挙げて勝利を祝いました。

その記憶は当時の多くの国民に、とりわけ幼い男の子達の心に深く刻まれました・・日露戦争の勝利から36年、アメリカとの戦争をためらう天皇へ、様々な情報を提供して決断を促した軍の参謀たち…
日露戦争開戦時 6歳 陸軍省軍務局軍事課長 真田穣一朗 大佐
日露戦争開戦時 8歳 陸軍省軍務局軍務課長 佐藤賢了 少将
日露戦争開戦時 3歳 参謀本部作戦会長 服部卓四郎 大佐
日露戦争開戦時 9歳 海軍省軍務局第一課長 高田利種 大佐
日露戦争開戦時 10歳 海軍省軍務局第二課長 石川信吾 大佐
日露戦争開戦時 6歳 軍令部第一部第一課長

・・・彼らは皆、少年の頃に日露戦争を体験した世代でした。

東京大学大学院教授 加藤陽子
「彼らは日露戦争の時、出回っていた色絵、とても奇麗な少年雑誌を見てある種エンターテイメントとして戦争を体験していた最初の世代といえます」

「日清・日露の戦争を通して大国中国、大国ロシアを倒してきた日本・・歴史の記憶として大きなものだったと考えます」

軍事力に経済力、日本とアメリカにはあらゆる点で大きな格差がありました。

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1941年9月、総理大臣・近衛文麿は戦争ではなく外交による解決の道を模索していました・・アメリカに対して首脳会談の開催を訴えかけます。

しかしアメリカの態度はかたくなでした・・日本のアジア進出に懸念を示し、主権の尊重や内政への不干渉など厳しい要求を突き付けていました。

結局、近衛内閣は外交交渉に行き詰まり、1941年10月に総辞職しました・・新たに総理大臣となったのは対米強硬派の東条英機陸軍大臣でした。

11月に開かれた御前会議で開戦の決意が固まったのです・・1941年12月、日本はアメリカとの戦争に突入します。


短期決戦なら勝てる!・・で・・その根拠は?

東京大学大学院教授 加藤陽子
「2つあります」

1.戦争準備
日本は財政的な準備をしていました・・1937年からの日中戦争が始まりますが軍事予算を特別会計で組みまして太平洋戦争が始まるまで256億円(現在の価値で20兆円)使う自由を陸海軍は得ています。

その3割を日中戦争に使い残り7割を陸軍は対ソ戦準備、海軍は対米戦準備に当てていました・・財政的に準備していたんだという自信があったと思います。


2.奇襲作戦
連合艦隊司令長官になった山本五十六日露戦争に軍人として参加した最後の世代です・・かれが戦史を振り返って歴史的な背景を持った奇襲作戦・・相手国の国民にどんな影響を与えるかを考えて真珠湾攻撃アメリカに大打撃を与えれば1年半は大丈夫という考えがあったと思います。

東京大学大学院教授 加藤陽子
「日本の国民、一般庶民は日米開戦の一報については、今まで続いてきた長く暗い日中戦争に比べて最新鋭の兵器を投入した強いアメリカへの戦いだという事で・・違う新しい明るい戦争が始まったと受け止めたと考えます」

「文学者の伊藤整は、『今日は人々みな喜色ありて明るい』(1941年12月9日の日記)と書き止めています・・真珠湾攻撃の大戦果、初戦の勝利で35年前の日露戦争の勝利を浮かべたという事もあったんだと考えます」

「しかし総力戦における国力差というものを日本人は日露戦争を思い出しながらも忘れれしまっていたのです・・アメリカにおける兵器生産能力・造船能力、これがいかに凄いものかという事が時間がたつに従って明らかになるそれで日本は敗戦に至ったという事になると思います」