旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

江戸のスーパー日本人 関孝和 世界水準の ”和算” を創り出した男

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NHK BS歴史館
江戸のスーパー日本人
関孝和 世界水準の ”和算” を創り出した男

日本が誇る世界最高級の頭脳、『スーパーコンピューター京』…1秒間に10,000,000,000,000,000回もの高速計算が可能なスパコン京の頭脳には、何と江戸を生きた一人の数学者が関係しているのです。

江戸時代の数学者、関孝和です。

スパコンの計算効率をアップさせる特別な計算方法の原点には、関孝和が生み出した定理が含まれているというのです。

科学技術振興機構CREST 研究代表者 藤澤克樹さん
「関さんが考えたものが最近の研究成果によると、スーパーコンピューターの特性を生かして高速に正確に答えを出せるようになっている」

江戸を生きた関の数学が現在のスパコンに活かされている…ご存知でしたか。…大数学者、関孝和に凄さはというと…

俳聖 松尾芭蕉
茶聖 千利休
算聖 関孝和

芭蕉、利休と並んで三聖と称されています。…その実力は、国内にとどまらず、同時代に生きたアイザック・ニュートンゴットフリート・ライプニッツにも引けを取っていません。

関は和算の世界に革命を起こします…その画期的な発明を解説し、科学立国日本の原点を探ります。

 

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司会 渡辺真理
芭蕉、利休と並んで三聖?…天才ということですか?」

サイエンスナビゲーター 桜井進
「いえ、天才は沢山います…天才の中の神のようなただ一人」

四日市大学 関孝和数学研究所長 上野健爾
「関が出てくる前の日本の数学は、小学校、中学校レベルの数学です。関は、現代の大学の専門に学ぶような数学をいきなり作り上げてしまったのです…まさに空前絶後です」

歴史学者 北川智子
「日本にいる時は、関という和算家いると習ってはいたんですが…『SACRED MATHEMATICS(聖なる数学)』という算学を題材としたプリンストン大学で出版した本があって…関孝和が紹介されているんです。…これを見た時、世界レベルで認められているひとだと認識しました」

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司会 渡辺真理
「では、世界の常識であるくらいの偉大さなのに…私たち日本人には ”え!知らないんですか、おたくの関孝和さんを” ってことになるんですね」

サイエンスナビゲーター 桜井進
「関がいなければ間違いなく、今のこの日本はないですよ。…なになに立国日本ってありますよね…その多くは、電子技術立国、科学技術立国ですよね…大元に数学があるんです。彼がいなかったら明治維新もどうなっていたかわからないんです。…明治維新がどうなっていたかわからないという事は、今の日本も分からないという事です」

四日市大学 関孝和数学研究所長 上野健爾
「私も40年ぐらい前にアフリカに行って現地の数学者と話したんです…聞かれたのは『どうして日本は短期間に数学を取り入れて一流国になれたのか?』なんですよ。しかし恥ずかしながら分からなかったんです。帰国して調べてみると、江戸時代に ”和算” という関から始まったレベルの高い数学あったんです」


ミステリアスな天才数学者!
関孝和の正体とは…

関孝和という人物は、様々な業績を残したにもかかわらず、意外なほど私生活の資料は残されておりません。

残っているのは、甲府藩士としての藩の仕事上の書類だけ、…『御賄頭』(勘定方)江戸時代藩の金銭を取り扱った役職、日常業務の会計全般に関する帳簿、新田開発の田の面積、藩士の給料などのチェック、をした際の署名、捺印などです。

ようは天才数学者、関孝和の実像は、今でいえば経理部係長、…地味な仕事をする役人だったのです。

それとなぜ甲府藩士の関が江戸に住んでいたかというと、甲府藩主、後の6代将軍・徳川綱豊は江戸にいて甲府の領国経営を行っていたのです。その為、関の勤務地も江戸(東京・新宿駅付近)ったんですね。

関の数学者としての一面を物語る数少ない貴重な資料が残されています。筆者は江戸時代屈指の知識人として有名な新井白石(1657-1725)、関と同時期に儒学者として勤めていた白石は関についてこんなコメントを残しています。

「関新助という同僚に数学に優れた人がいる」…関の実力は、後に幕府を改革へと導いた新井白石にも認められるほどだったのです。

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天才・関孝和を生んだ
江戸の数学大フィーバー!

関が登場した背景には、江戸時代に起こった数学ブームがあったのです。

歴史学者 北川智子
「これは問題を絵馬にして書いて奉納したものです」

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算学とは問題や回答が書かれた絵馬のこと、それを江戸時代の人は神社や寺に奉納し、絵馬に書かれた数学問題をお互いに解いていたのです。…こうした算学は全国で大流行しました。

算学に書かれた江戸時代の数学とはどんなものだったのでしょうか?

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「大円4個と小円4個で正方形を囲む。大円の直径が5寸で小円の直径が3寸の時、中に出来る正方形の多きさは?」

早速、北川さんも挑戦しました…

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歴史学者 北川智子
「この問題を解くには『余弦定理』を使います。この定理は高校ぐらいで習うものです」

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現代では、高校で習う余弦定理を使うこの問題、回答は、『1辺の長さが4.4寸』の正方形となります。現在の方式を使っても複雑なこの問題、出題者は今掘弥吉、12歳。

歴史学者 北川智子
「今の高校生でも最初見た時ビックリすると思います…とても難しい問題です。こうした絵馬という形だったらどんな方々も1題から載せる事が出来る…」

誰でも参加出来た算学は人々の知的好奇心に火を付けて日本中に広まっていったのです。…こうした数学ブームのきっかけは、一冊の大ベストセラー本でした。

その名は『塵劫記』です。
内容は、一、十、百、千、万など数の数え方やソロバンの使い方や数学の基礎の基礎から始まっています。

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更にこの本の魅力は、日常生活に必要な数学の問題をイラスト入りで楽しみながら学べる事、たとえば様々な形をした土地の面積の求め方など、すぐに役立つ例題と答えが書かれていたのです。

実用を重視した生活密着型の塵劫記は、庶民たちに大いに受け、江戸の世に空前の数学ブームを巻き起こしたのです。

塵劫記の人気の秘密はこれにとどまりません…その魅力は、遺題継承システム…算術書の最後に付録として問題が掲載されているのです。この問題は、『遺題』といわれ、著者から読者への挑戦状でした。

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この遺題に多くの人がチャレンジし、更にそれを超える難問を考えては、新たな遺題を発表します。こうして次々に出題と回答が繰り返されて行くのが『遺題継承』、このシステムによって江戸時代の数学は大きくレベルアップしていったのです。


数学ブームが
生んだ現象…遊歴算家

この全国的な数学ブームを背景に、『遊歴算家』という職業が誕生します。…遊歴算家とは旅をしながら数学を教え、その代わりに宿や食事を提供してもらう、いわば出張数学教師…。

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山口和という新潟出身の遊歴算家か書き残した貴重な日記が残されています。…日記には、各地の算学の問題や旅先の風景など行く先々の事こまやかに記されています。

ここから高度な数学の欲求が日本国内でどれだけ高まっていたかだ読みとれるのです。

和算研究所理事長 佐藤健一さん
「遊歴算家の山口和が来ると村の人々がやってきて、次は自分のところに来てくれと、来れば教えてもらおうという人がかなりいたのです。何年も遊歴していながら泊まる場所がないから、寺の軒下に泊まるとかが無いんです…必ず誰かの家に泊まらせてもらっている…そういう社会だったんです」


老若男女が夢中!
江戸時代に起こった ”算学ブーム”

サイエンスナビゲーター 桜井進
「あの時代、職の無い浪人で算学にたけている者は、看板を立てて算術の寺子屋を始めると行列をなすぐらい江戸の町では算数塾が大流行したんです」

四日市大学 関孝和数学研究所長 上野健爾
吉田光由著『塵劫記』の役割が大きいですね…読んでいて非常に楽しいのです」

サイエンスナビゲーター 桜井進
「『塵劫記』の素晴らしさは教科書です。ソロバンの使い方から数の読み方から始まって面積を求めなさい、長さを求めなさい、最後には答えが付いていない『遺題』まで…これ一冊ですよ。この本は素晴らしいですよ」

四日市大学 関孝和数学研究所長 上野健爾
「数学を知らなくても『塵劫記』を教科書にして教える事もできるわけですよ」

サイエンスナビゲーター 桜井進
「にわか先生までいっぱいいて…だから著者の吉田光由は、イカサマ教師を見つけるために『遺題』を載せて、調べろ、教師にこの問題を解かせろというんです…解けたらちゃんとした先生というわけです」

塵劫記の最後に『遺題』が付いたのが決定的です。遺題があるということは、自分が問題を作る人間にもなれるんです。”俺はこんな問題を作った、解いてごらん” といえるんです」

「今の受験は、問題が早く沢山解けて、100点とれたら偉いでしょ…江戸時代はそれを遥かに超えています。 ”こんなに素敵な問題を作りました” という勝負なんです」

司会 渡辺真理
関孝和のような天才を生み出す土壌が既に江戸時代にはあったということなんですね」


江戸の数学革命!
関孝和のスゴ技計算法

関が存命中に出した最初で最後の書 『発微算法(はつびさんぽう)』(1674)です。

この書の中で関は画期的な計算方法を発表します…その名は、『傍書法(ぼうしょほう)』です。

関以前の人々は、「+-×÷」 の記号が無くて、全て文章だけで算数の問題や答えが書かれていたのです。…今の問題で2次方程式を習いますが関以前の人は 「aにxの倍をかけてそれにbのx倍を足して更にcを足すとそれがゼロになりますよ」 というような非常に長い文章で書かざるを得ないんです。

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関孝和は非常にシステマチックな数式を数学の現場に投入した。…この事により、今まで解けなかった問題が解けるようになったのです。


和算”界が大騒ぎ!
波紋を呼ぶ…関孝和の著書『発微算法』

和算界に革命をもたらした関孝和数学書『発微算法』…しかし、関の『傍書法』はほとんど評価されませんでした。

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当時の人々にとっては、あまりに斬新なものだったのです。発微算法の中で関は、15問の問題(当時の算学では、回答は不可能とされていた問題)を傍書法で解いて見せています。

ところが具体的な回答は無く、正解を導く最終的な方程式しか記されていなかったのです。…そして発微算法刊行から7年後、一つの事件が起こります。

天和元(1681)年、江戸に並び数学研究が盛んだった京都。…その京都の佐治一平という和算家が関への挑戦状とも言うべき本を出したのです。…「発微算法の理術、僅かに可にして、未だ可ならず…故に之を改たむ」…。

発微算法の回答は、15問中、12問が間違っていると激しく関を批判したのです。…それに対して関の弟子・建部賢弘が激怒…。

この理不尽な批判に対して関はまったく意に介しません…それどころか「建部、君にまかせる」…と若干20歳の弟子・建部賢弘にその役目をまかせたのです。

当時、関の元には新進気鋭の弟子が集まっていました。…中でも関の一番の信頼を得ていたのが建部賢弘です。

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東北大学に弟子たちが関のノートを写本したものが残されています。その数、300冊…弟子たちは関のノートを写し、それを元に弟子同士で話し合いながら関の数学を習得していったのです。…こうして関と弟子たちが一体となって取り組む組織研究こそ関の数学の強みだったのです。

天和3(1683)年、そして佐治の批判から2年後、若き建部が反撃の狼煙を上げるべく一冊の書を出します。…『研幾算法』です。

建部はこの本の序文で…「佐治の論は無形の妄術だ」 と激しく批判…さらに追い打ちをかけるべく佐治は次の手を打ちます。

『研幾算法演段諺』という書物を刊行、関が大幅に省略していた傍書法の計算過程を補足しながら丁寧に解説しました。

前橋工科大学名誉教授 小林龍彦さん
「建部たちは、先生の新しい数学のアイディアをとにかく知ってもらう事が大事なんだ。…彼、建部賢弘は先生の業績を広く知ってもらいたかった…普及させたかったのが本心だと思います」

この建部らの努力は見事成功します。…京都の和算家たちが「関孝和の術は、難問を解く新しい術である」 と発表し、『傍書法』が広く世間に理解されるようになったのです。


世界水準の ”和算” を
創り出した男・関孝和

四日市大学 関孝和数学研究所長 上野健爾
「関登場以前は、問題を解くことが主要でしたが、関がやったのは、どんな問題であろうと解ける一般的な方法を創り出したわけです。…不変性をもったわけです」


まだある
関孝和 世界水準の大偉業!

サイエンスナビゲーター 桜井進
「『ベルヌーイ数』という数学をする人ならだれでも知っているとても大事な数があります。…ベルヌーイ数がなければ今の数学は語れません。…円周率ぐらい大切なものだと考えてください」

ヤコブ・ベルヌーイは『推測術』という本により、この数を発表したのが1713年のことです。…しかし、関亡くなって4年後関の弟子たちが『活要算法』を出したのは1712年、その中に全く同じ、『ベルヌーイ数』が書かれているんです…関の方が1年早く発表しているんです…この事実どう思います…『関・ベルヌーイ数』とでも呼び名を変えるべきでしょう」

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『発微算法』により、一躍脚光を浴びた関孝和、関は宝永5年、静かにその生涯を閉じました。…しかし、関の数学研究はそこで途絶えたのではありません。

関の没後、弟子たちの手により、
大きな飛躍を見る事になります。

そして関一派は脈々と生き続け、
幕末の動乱期を経て明治維新の富国強兵への基礎を築いたのです。

他のアジア諸国との違いは
数学の基礎力の違いです。

和算という数学の基礎があってこそ
日本は、西洋文明をなんなく取り込む事ができたのです。