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真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘

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BS歴史館 真珠湾への7日間 外交官たちの苦闘 

今から70年前、昭和16(1941)年12月8日、日本軍の奇襲で始まった真珠湾攻撃、日本とアメリカ、戦争の幕開けでした。そんな日米が開戦へと突き進む状況でもギリギリまで戦争を阻止しようとする男たちがいました。

アメリカ・ワシントンの日本大使館に勤務していた外交官たちです…緊迫した状況で繰り広げられた暗号回読合戦、大国アメリカに対して一瞬の隙も許されない駆け引きが続きました。

更に外交官たちは本来の外交ルートを超えた独自の行動に踏み出します…「君には国賊になってもらいたい…それが唯一の戦争を防止しうる道だ」、「万一この事が外部に漏れれば憲兵は関係者を全て殺すだろう…しかし、戦争を防いで沢山の命を救えるならば惜しくない命だ」

彼らが画策したのは、アメリカ大統領ルーズベルトから日本の天皇に宛てたメッセージ…互いの国のトップを結びつけ戦争を回避する…本国の命令に反した独自の判断でした。しかし、戦争は始まってしまいます。

しかも、アメリカへの宣戦布告が遅れ、外交官たちは騙し討ちの元凶という汚名を着ることになるのです…なぜ戦争は食い止めることが出来なかったのか…そして、なぜ前線布告は遅れたのか…近年新たに見つかった幻の戦線布告文とは…今回のBS歴史館は日米開戦のギリギリまで奔走した、外交官たちの苦闘と誤算に迫ります。


真珠湾への道 外交官たちの苦闘

日米開戦時、駐米大使を務めたのが駐米特命全権大使・野村吉三郎…赴任から開戦までの10ヶ月、悪化する日米関係の回復に奔走しました。

1941年11月、日米交渉は最大の局面を迎えていました…戦争回避の為の大詰めの折衝が始まっていたのです。アメリカ側の交渉相手は、大統領フランクリン・ルーズベルト国務長官コーデル・ハル

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そもそもここまで関係が悪化した理由はなんだったのでしょうか?
満州事変以降本格的に中国に進出した日本は、1937年中国との戦争に突入…これを痛烈に避難し、全面的な中国支持を打ち出したのがアメリカでした。

アメリカは東南アジアに植民地を持つイギリスなどとともに大量の援助物資を中国に送る一方、日本に対して資源の輸出を制限する厳しい経済制裁を加えます。

結局、追い詰められた日本は資源を求めてフランス領インドシナを南へと軍を進めます…それは近くに植民地を持つアメリカなどに重大な危機感を与えました。

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アメリカは日本に対し、石油の全面禁輸を断行します。元々石油の8割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとってこれは致命的でした。

日本は、この交渉が始まるまで4年と数ヶ月、大陸で戦争をしています。その間、256億円、現在の貨幣価値で20兆円を戦費で使っており、引くに引けない状態です。

しかし、中立国であるアメリカが中国に大きな援助をしている…日本側から見れば中立国であるアメリカがなぜそんなに中国に肩入れしてるんだということで対米感情も悪化していたんです。

日本側では軍部を中心にアメリカと即時開戦せよとの声が沸き上がりました…しれに対し、外交による解決を強く主張したのが外務大臣東郷茂徳せした。しかし、外交交渉にはタイムリミットが設けられました…デットラインは12月1日午前零時と決まったのです。

11月4日本国からワシントンの日本大使館に日米交渉の指令が届きます…駐米大使野村に託されたのは、日本政府が決定した甲案という交渉案でした…公安とは悪化を辿る日米関係を打開するため、日本側が提示した譲歩案…。

石油の全面禁輸のきっかけとなったフランス領、インドシナからの撤兵は、日中戦争の解決後に撤兵するということを明示していました…野村は国務長官ハルにこの案を提示します。

しかし、ハルはインドシナからの撤退がいつ解決するかしれない日中戦争次第という条件に首を縦に振りませんでした。一日も早く妥結し、戦争を阻止したい野村、…11月18日(アメリカ東部時)与えられたタイムリミットまですでに2週間を切っていました。

朝10時半から始まった会談は、既に2時間半が経過、野村は突然、甲案とは違う独自の案を示します…「日本は南部フランス領インドシナから兵を引く、その代わりアメリカ側は資産凍結以前の状態に戻して、ひとまず緊張緩和を図ってはどうだろうか」

日本が南部フランス領インドシナから撤兵、アメリカから石油供給の再開、…後に野村試案と呼ばれるこの案は、インドシナ1点に絞った野村独自の暫定的な妥協案でした。

ハルは野村試案に大きな関心をよせます。…ハル「日本政府首脳が平和政策を遂行するなら、自分はイギリス、オランダ両国を説得し、凍結令以前の状態に復帰することを考えてもよい」

野村は急ぎ、東郷外相に野村試案の正式許可を求める電報を打ちます…ハルとの会談を詳しく報告し、戦争回避のため、妥協案への理解を求めたのです。

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野村:「支那事変も4年を越え、国力が疲弊している時に、更に長期の大戦争をあえてするのは、決して時機を得るものではない…私は一時的に局面を埋め合わせmその百方努力した平和の間に交渉妥結という目標を達成したい…ここはギブアンドテイクをもって一時的な休止を図るのが大きな解決の前提となると思う次第である」

日米開戦を阻止したい野村の必死の思い…しかし、日本の東郷から返ってきたのは意外な返事でした。

東郷:「当方と事前の打ち合わせなく、私案を提示せられたるは、国内の機微なる事情に鑑み遺憾とする所にして、かえって交渉に遅延、不成立の導くものと言うほかなし」

中央大学教授 佐藤元英さん
「これは野村の勇み足の感がありますね…東郷が直ちに拒否したのは、やはり軍部を説得するのは不可能だ…今まで国内には国内の事情がある、外務省の基本政策に出先は従って交渉してほしいという叱責の電報が野村に出される訳です…結局、野村試案は取り下げになってしまいます」

東京大学教授 加藤陽子
「確かに野村のフライングですが・・・しかし、これは本省と出先の全ての国に起こる問題です。ここで多少、東郷という人の特徴を言いますと…外交官は試験を受けると調査が入るんですが東郷の書類には、普通は温和とか書かれるんですが『やや頑固』『剛毅』『寡黙』という非常に珍しいコメントが付いています…東郷の人柄を考えると本省の側にも問題があったのではないかと考えます」

そして東郷は、すぐさま新しいプランでの交渉を命じます…乙案と呼ばれるその案は、野村試案と同じく南部インドシナからの撤兵を謳っていましたが、一つ大きな条件が付け加えられていました。

”米国政府は、日中両国の平和に関する努力に支障を与えるような行動に出てはならない”(乙案)…日中問題アメリカを関与させない…野村試案を提示した直後の条件変更、アメリカ側は難色を示します。

そして11月26日(アメリカ東部時間)アメリカ側から乙案に対する回答が示されます。…”ハルノート”…。

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ハルノートは、これまで野村たちが積み上げてきた日米の交渉内容を一切考慮しない強硬なものでした…。
・フランス領インドシナからの撤兵
・中国全土からの即時撤兵
三国同盟の空文化
…とうてい受け入れられるものではありませんでした。

イムリミットまであと4日、しかし、この瞬間、日米交渉は絶望的な局面に立たされてしまったのです。


しかし、なぜアメリカは、それまでの交渉を打ち消すようなハルノートというような強硬手段に出てきたのでしょうか?
アメリカ側に大きな判断をさせたものは暗号の解読です…アメリカ国立暗号博物館には、世界中の国々で使用されてきた暗号機械が展示されています。

ナチスドイツが使用したエニグマ、…一度も解読されなかったアメリカ軍のシガバ暗号機、そして下記画像が日米交渉の命運を分けた機械です。

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パープルマシン、…日本の外務省の暗号を解読するためにだけ作られた暗号機です。日本政府と大使館とでやり取りされる外交暗号は、全て解読されていたのです。

当然、東郷外相と野村大使のやり取りも、ハルやルーズベルトに筒抜けでした。そして日本外交が必ずしも一枚岩でないことも見抜かれていたのです。

1941年11月26日、アメリカ側から提出されたハルノートで日本は開戦へと大きく舵を切ります…同日、択捉島のヒトカップ湾から海軍の機動部隊がハワイを目指し出撃、しかし、この動きをワシントンの日本人外交官たちは、一切知らされていませんでした。

ハルノートが出されたその晩、彼らは戦争回避に向けた独自の作戦を実行に移します…ヴァージニア州ノーフォーク(世界最大の海軍基地がある軍港都市)にある第二次世界大戦の軍事機密が数多く収められているマッカーサー記念館に戦後、アメリカ軍人と日本外交官・寺崎英成一等書記官との間に交わされた手紙と手記が収蔵されています。

寺崎英成一等書記官の手記には、ハルノートが出された夜から秘密裏に行こなわれた工作が克明に記されています。

「駐米特命全権大使・来栖三郎が私を呼んだ…そして次のような会話が行われた」(寺崎の手記より)
来栖:「君には国賊になってもらいたい」
寺崎:「どういうことですか」
来栖:「こうなったら戦争を防ぎうるのは天皇陛下しかいない…大統領から天皇に御親電を打ってもらうよう取り計らってもらいたい…それが唯一の戦争を防止しうる道だ」
※親電とは、一国の元首がその名の元に発信する電報

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寺崎たちは、大統領から日本の天皇に直接メッセージを送らせトップダウンで開戦を阻止しようとしたのです。

「その夜私は眠れなかった…大統領から天皇に電報を打っていただくということは、容易ならぬ問題だ…そして眠っている妻子の寝顔を見ているうちに感慨に耽った…万一この事が外部に漏れれば憲兵は関係者を全て殺すだろう…しかし、戦争を防いで沢山の命を救えるならば惜しくない命だ」(寺崎の手記より)

寺崎は、その後どのような行動に出たのかアメリ国立公文書館の膨大な資料の中に、彼の具体的な行動記録が残されていました。

来栖大使に親電工作を命じられた翌日、寺崎が訪ねたのはメゾジスト協会・牧師スタンレー・ジョーンズでした。ジョーンズはルーズベルト大統領と個人的に接触できる人物、寺崎はこの人物を通じて天皇への親電を実現させようと試みたのです。

12月3日、ジョーンズはルーズベルトと密かに会談、…そして12月6日午後7時(アメリカ東部時間)大統領が天皇に向け親電を打つことが新聞報道されたのです。

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親書…日本国天皇陛下
「陛下に対して国務に関する親書を送るのは両国にとって特に重大な場合のみですが現在起こりつつある深刻で広範な非常事態を鑑みると、まさに今がその時であると感じています」

更にルーズベルトは、親電の中で日本軍のフランス領インドシナ進駐に関して繰り返し触れ、兵を撤退するように強く求めていました。そしてこう結んでいます…

「私と陛下が日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため両国民の友情を回復させる神聖な責務を有している事を私は確信しています」

この時、すでに日本は余談を許さない状況に陥っていました…12月1日(日本時間)御前会議において開戦が決定、ハワイへ向け出撃中の機動部隊へ、12月8日未明をもって(ニイタカヤマノボレ1208)戦闘行動を開始せよという命令が下っていたのです。

そんな開戦ギリギリの状況下で親電は、東京電信局に届きます…真珠湾攻撃まで15時間半に迫っていました…しかし、アメリカ大統領から天皇に送られた親電は、東京電信局で10時間も止められてしまうのです。

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なぜ国家の命運を左右する最重要電報が止められてしまったのでしょうか?…親電の遅れた理由を知るある人物を訪ねました。

須藤眞志さんは、親電の遅れた訳を義理の父親から聞かされていました。…戸村盛男氏、元陸軍参謀本部通信課で電報の受け渡しを直接指示していた人物です。

京都産業大学名誉教授 須藤眞志さん
「これがですね戸村さん自記筆の手記です」

戸村氏が残した手記、そこには親電の遅延理由が記されていました…「もう今更、親電を届けてもかえって現場が混乱をきたすであろう…したがって御親電は10時間以上遅らせる処置をしたのであった…そうすることによって陛下も決心を変更されずに済むし、南方軍もまた海軍も敵を急襲することができると考えた」

10時間留め置かれた親電が天皇の元に届いたのは、日本時間12月8日午前3時、真珠湾攻撃20分前でした…既にハワイ上空には、日本軍攻撃機が姿を現していました。…そして、…外交官たちの最後の切り札は、実を結ぶ事はなかったのです。

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東京大学教授 加藤陽子
「この親電が仮にもっと早く届いていたとしても事態が変わったかというと疑問です…針の穴にラクダを通すような、ほんの僅かな可能性だったでしょう」

東京大学教授 加藤陽子
「これは私の想像でしかないのですが…『二・二六事件』の時、確かに天皇が内乱になるおそれを抑えた…しかし統帥と国務が対立していた時なのです…今回は、統帥と国務が一致して開戦を決定した訳で天皇といえども覆すのは難しかったのではと思います」

防衛研究所主任研究員
「これで戦争が止められると思うのは極めて楽観的です…しかし、現場の外交官たちは知らされてないのです。真珠湾についても、何時攻撃をするかも…ですからワシントンの現場からすれば、親電には可能性があると考えるのは当然なんです…だから殺されるかもしれないのに走ってるわけなんです…なんか切ないですね」


"宣戦布告”はなぜ遅れたのか?
真珠湾攻撃の翌日、…ルーズベルト大統領

アメリカは、突然日本軍によって奇襲攻撃を受けました…なんと攻撃から一時間後に日本の駐米大使が外交交渉の公式返答を提出したのです…しかし、その内容は外交交渉を打ち切るとだけ述べられ、軍事攻撃による戦争への警告は一切示唆されていませんでした…この卑怯な行為にアメリカは敢然と立ち上がり、必ず勝利するでしょう」

ルーズベルト大統領が卑怯と罵った訳、それは開戦の通告が攻撃の開始より、後に行われたからでした…いったいなぜ、日本側の通告は遅れたのか…ここにも本国と現地大使館の情報をめぐる認識のズレがあったのです。

12月6日午前10時(アメリカ東部時間)真珠湾攻撃の前日、ワシントンの日本大使館に外務省から一通の電報が届きます…「11月26日の米側提案につき”対米覚書”を決定せり」それは、10日前に出されたハルノートへの日本側の回答をこれから送るという通知でした。

そこには合わせてこう書かれていました…「アメリカ側へ提示する時期は追って知らせる…長文であるため全文を受け取るのは明日であるかもしれない」…大使館に緊張が走り、本文が届き始めます。

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対米覚書、実は、これは日本からのアメリカに対する事実上の最後通牒でした…しかし、そのことは野村たち現地外交官には知らされていませんでした。更に真珠湾攻撃の情報も機密保持のため秘密にされていたのです。

対米覚書には、これまでの日米交渉の経緯を振り返ることから始まり、日本の要求を理解しないアメリカを避難する文面が続きます。この覚書、実際はアメリカにさとられないよう14部に分割された暗号伝聞で1部づつ時間をおいて送られました。

12月6日午後3時、およそ2時間かけ、対米覚書、14部の内13部までが到着、…12月7日午前1時30分、夜半には13部までの暗号解読が終了します。…しかし、最後の1部はなかなか届きませんでした。

12月7日午前9時、彼らが14部目を手にしたのが朝9時、そこには日米交渉打ち切りという日本側の通告が書かれていました…「今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」…彼らを驚かせたのは合わせて送られてきた指示でした。

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「午後1時にハル国務長官に手交せよ」…慌てる外交官たち、このとき時刻は午前10時30分、残すところ2時間半で14部全ての文章を正式な外交文章にし、タイプライターで清書しなければなりません。

しかも、機密保持のためプロのタイピストに扱わせることを禁止され、清書作業は手こずります…そしてこの時点でも外交官たちは、これが事実上の最後通牒だとは気づいていなかったのです。

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野村たちが対米覚書を持ってハル国務長官の元到着したのが、本省から指示された午後1時を大幅に遅れた午後2時20分、…しかし、すでにこの1時間前にはハワイで真珠湾攻撃が始まっていたのです。

ハルは野村にこう言い放ったといいます…「50年の公的生活を通じ、自分はこれほど不名誉な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない」…外交交渉打ち切りの通知がなぜ虚偽と歪曲と言われなければならないのか、野村は大使館に戻り、全てを知ります。

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東郷が指定した手交時刻、午後1時というのは、まさに攻撃開始の20分前、ギリギリまで遅らせたのは奇襲をアメリカに察知されることを警戒したためでした。

既に開戦を知っていたハルに対して野村たちは外交交渉打ち切りという意味の無い通告をしたことになったのです…では、もし対米覚書の提出が東郷が指定した真珠湾攻撃の20分前に行われていたら、日本は騙し討ちの汚名を着せられることはなかったのでしょうか。

実は、この対米覚書は書き換えられた物であったと示す証拠が近年見つかりました…東郷から野村へ3日前に記された対米覚書の原案、その最後の通告部分です…「将来発生すべき一切の事態については合衆国政府において、その責に任ずべきものなる旨、合衆国政府に厳粛に通告するものなり」

日本との間で将来発生する”一切の事態”についてその責任はアメリカにあるという通告、実際に送られた対米覚書とは、内容が大幅に異なっています。…この文章を発見した井口教授です。

尚美学園大学名誉教授 井口武夫さん
「”将来発生すべき一切の事態”というのは、外交断絶から武力行使・開戦まで含む事態です。…国際法上も”一切の事態”というのは戦争状態を含むということになっていますから、これが開戦意図を表明した『最後通牒』の原案です」

日本政府は当初、国際法上、宣戦布告として認められる文章を作成していたのです…それが外交交渉打ち切りへと書き換えられた背景には、真珠湾の奇襲攻撃をどうしても成功させたい軍部の圧力があったと井口教授は考えています。

尚美学園大学名誉教授 井口武夫さん
「軍部かこの”一切の事態”というのは、戦争する意図を表明することになるから困ると…この際は、外交も軍事戦略に協力せよと…開戦の意図を表明するものは一切削除すべし、…これは軍機機密上どうしても必要だったのです」


奇襲攻撃を悟られないため、日本側がとった極端な機密保持の方針、それは結果として”リメンバーパールハーバー”としてアメリカ側の戦意高揚へとつながって行った…真珠湾の攻撃は、軍事的に成果を上げたわけですが、逆にアメリカに完全な大義名分を与えてしまったのです。


しかし、果たして宣戦布告は必要だったのか?

当時、国によって考え方が違っていました…つまり、日本側は、アメリカが経済封鎖という殆ど戦争行為と同じ事を仕掛けたから自衛で戦争をする。

そうした時、必ずしも明示的に宣戦布告はいらないというハーグ条約の考え方もあったんです…そういうのもあって日本側、本省は最後までどういう言葉にするか揺れたりする…アメリカもそういうのがわかっているから、日本は宣戦布告なしに攻撃するかもしれないと予期していたと思います。

つまり、国際法上どう解釈して、それが正義であるか正当であるか、どうアピールできるかそれが日米両国の戦いであったと考えます。

東郷側もやられっぱなしではなく、反論としては、1941年7月アメリカ軍がアイスランドに進駐したじゃないか…なんで他国に心中するのか…アメリカ側は安全のためだと主張してますが…だったら日本がフランス領インドシナに進駐したのと同じではないかと、アメリカが1941年7月、8月にやってた事を日本は、ずっと反論しています。

その中で正当性を歴史に残すかというところで、やはり負けたというのはあると思います。…何においても大義は大切、重要です。

日露戦争で大国ロシアを日本が破ったのも日本の主張に大義があり、各国が応援してくれたからです…しかし、太平洋戦争を思うと日本が主張する大義は、自存自営、大東亜共栄圏、…結局日本が経済的豊かになるだけですねと言われてしまうのです。

■つまり、どうやって軍事的、経済的原理で自分の国の進出を説明するかです…太平等戦争での日本は、この大儀に矛盾があったから、近隣、各国の指示を得られなかったのです。