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開戦・リーダー達の迷走 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(4)

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NHKスペシャル
日本人はなぜ戦争へと向かったのか(4) 開戦・リーダー達の迷走

今から70年前の1941年 日本はアメリカとの破局的な戦争 太平洋戦争へと向かいました。・・当時のリーダーはアメリカとの圧倒的な国力差という現実を無視して開戦へと進んだと考えられてきました・・しかし事態はもっと複雑でした。

海軍省兵備局長 保科善四郎
海軍省の中枢責任者として国策にも係ったこの幹部は首脳部に戦争回避を訴えていました。
アメリカと対等はできないんですよ」
「向こうの工業力はとても日本の比にならんほど」
アメリカと戦争しても得がないんだから日米戦争は避けなきゃならん」

陸軍省戦備課長 岡田菊三郎
強硬派とされる陸軍中枢も対米戦の不利をよくわかっていました・・この陸軍省の装備担当者も徹底的な国力データの分析のもと勝算無しと結論、トップと直談判を重ねていました。
「武藤軍務局長にも絶対積極的に戦争に持って行くべきじゃない」
「何回も何回に日本の国力からして、数字の上から勝てないと」
「絶対開戦に賛成しちゃダメだ」

大本営政府連絡会議と呼ばれる最高首脳会議の中で日本の首脳たちのによる驚くべきやりとりがあった事が戦後告白された膨大な証言テープからわかってきました。

日本人だけで300万人の命が失われた太平洋戦争、国家の指導者たちはなぜ不利と承知の戦争を避けられなかったのか・・これは開戦前半年間の衝撃的な記録です。

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中国と戦争していた日本に対してアメリカ・イギリス・オランダが経済制裁を強めてきます。ABCD包囲網、特に石油に関しては94%依存している日本にとって由々しき大事です。

一方、日米間の国力差は
石炭 10倍
鉄鋼 12倍
石油 530倍
総合力 80倍
・・これでは歯が立たないだろうと言う事を当時のリーダーは皆、認識していました。
この段階で日本はアメリカと戦争をしなければいけないんだと本気で思っていたリーダーは誰もいなかったんだと言う事なんです。

世界で戦争が拡大していた1941年各国の指導者は、危機の時代を乗り切ろうと懸命でした。リーダー自らに権限を集中し迅速な決定で激動に対応しようとしていました。

一方の日本、突出した権力者がいなかったのです。
当時は、第二次近衛内閣、運営は内閣の国務大臣統帥権を担う軍のトップが責任を負っていました。
経済制裁や中国問題を巡ってアメリカとの交渉が始まる中、彼らのリーダーシップが大きく問われる事になります。

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1941年5月22日(開戦まで200日)
首相官邸大本営政府連絡会議が始まった。
松岡外相「アメリカのハル国務長官には野村大使から我が方条件を手渡しました」
杉山陸軍参謀総長「もしアメリカが大陸からの撤兵、三国同盟の破棄を条件を蒸し返すならこちらに応じる余地はない・・その辺りぬかりは無いででしょうな」
松岡外相「むろんこちらの条件は念を押してある・・しかし物になるかは3分、正直厳しいと思う」
※交渉に見込みがあるのか・・交渉以外に道はあるのか首脳部は揺れ続けていました。

首相、外相、陸海軍の代表など各組織のトップが集うこの連絡会議が実質的な日本の最高意思決定機関でした・・重要な国家方針は御前会議にかけられますがそこでは天皇の承認を受けるのみ・・その方針案は連絡会議が責任を持って全会一致で示す事が原則でした。

しかし会議では各代表の権限が対等で首相にも決定権がなく反対者が一人でると何も決められません・・話をまとめるには各組織の要望を均等に反映したあいまいで実態の無い決定に合意するのが慣例となっていました。

※「具体的な事は別に定む」とし実際のチャンスが来た時に改めて議論しようじゃないかという事になります。・・となると反対派は必ずその場で反対する・・そして意思決定は出来ずに時間だけ無駄に消費される。

1941年6月22日 独ソ開戦
この日本の意思決定の問題点が露わになります。・・三国同盟を結んだソ連とドイツの間に全面戦争が勃発、日本の首脳陣はどう対応したら良いのか判断を迫られます。

陸軍は、日露戦争以来の北の脅威ソビエトを叩く北進論
海軍は、自存自衛で南の資源を確保せよという南進論
が同時に浮上・・陸海軍が自分達の組織の都合を訴える中で連絡会議の近衛首相ら首脳陣の方針は定まりません。

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1941年7月2日(開戦まで159日)
結局、リーダー達は方針とは名ばかりの決定を決議・・選択肢を 「外交交渉、南進、北進」 どれかに絞る事無く全て進めるという八方美人的プラン・・しかも具体的な事は 「状況を見て定む」 とし、何も決めず準備だけするという実質、様子見・先送りでした。

富岡定俊 軍令部作戦課長 談話速記録より
「なんでもって妥協したかと言うと文字で妥協したわけです作文で・・名人がだいぶ出てきましてね、国策を陸軍は自分の了解に従ってどんどんやる。海軍は海軍の了解でやる。そう言うげんしょうなんです」

1941年7月13日(開戦まで148日)
連絡会議の方針に基づき陸軍は北進準備の動員を開始した。総勢16個師団85万人の大兵力、準備がどこんでを指すか軍に判断に任されていた。

方針のあいまいさを良い事に陸軍は準備の内容を最大限に解釈、「陸軍の準備は行き過ぎではないか」 国家に緊張が走った。
様子見の為にあいまいにした首脳部の方針が逆に現場の拡大解釈を許す結果になった・・近衛らは陸軍を止める為、その感心を南に向けようと今度は南方準備に同意した。

アメリカもイギリスもヨーロッパで手いっぱいだからそれほど日本に強く出ないだろう」 と言う予測が甘かったのです。

仏印への進駐はアメリカの態度を決定的に硬化させました。・・それまでの部分的な輸出制限から一気に一滴も石油も日本に売らないという全面禁輸へと踏み込んだのです。
そして経済制裁解除には、「中国と仏印からの撤兵」 が条件となったのです。

日本の首脳部が方針をあいまいにして選択肢を残そうとしたのが最悪の結果を引き起こしました・・全面禁輸など覚悟していなかった軍の中枢でもたちまち混乱が広がりました。

日本の石油備蓄は2年、国家の機能が停止するのは時間の問題です・・刻々と石油は減って行きます・・事ここに至ってリーダー達の選択肢は2つしかありません。
1.対米譲歩 中国からの撤兵を飲む・・国内の反発あり
2.独自調達 南方の資源地帯に進出・・英米との対決覚悟
どちらも厳しい・・まさに 「進退きわまれり」 です。

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1941年9月3日 第50回連絡会議(開戦まで96日)
リーダー達は究極の選択に向き合う事になった・・アメリカへの 「譲歩」 か 「戦争」 か統帥部は焦りを露わにした。
永野修身 海軍軍令部総長
「各方面で物が減りつつあり、無駄に時を経れば痩せて足腰が立たんようになります」
杉山元 陸軍参謀総長
「10月上旬には外交の目途をつけて下さい。これ以上の引延しは統帥部として認められない」
1日1万トンの備蓄燃料が消えてゆく中、リーダーに決断の時間は残されていませんでした。

本当に戦争をやるのか! まず深刻な動揺が始まったのは海軍でした。
海軍省兵備局長 保科善四郎
「海軍の最高幹部は絶対やっちゃいかんという考え・・そんな事を目標にして日本の陸海軍の戦備というのは出来てるわけじゃない」
海軍省調査課長 高木惣吉
「何度、対米戦の頭上演習をやっても勝ち目は無い・・実際のところ審判でごまかしてるんですけど率直に言えば勝ち目は無い」

まもなく陸軍でも対米戦に慎重な声が上がります・・日中戦争が終わらないままでアメリカに挑む事の無謀を現場の指揮官達は訴えました。
支那派遣軍総司令官 畑俊六
「日米交渉はなんとしても成功させてほしい」
支那派遣軍総参謀長 後宮
「このさい撤兵の条件を飲む事もたいした問題で無いと考える」

いざ戦争回避を決断するとなるとリーダー達の覚悟は揺れました・・
1.中国から撤兵すらなら失った兵士20万人の命
2.毎年の国家予算7割の陸海軍費は何のためなのか
国民は失望し、国家も軍もメンツを失うと恐れたのです。

海軍省兵備課長 湊慶譲
「日本は世界的に威信を失墜させる・・将来日本人は中国人につばを吐きかけられる、朝鮮人に石を投げられる、どこに行ったって立つ瀬は無い」

この頃、軍の大勢は中堅層を中心にリーダーを強硬につき上げ出しました 「一日も早く開戦すべきだ」 と言うのです。

海軍省兵備局長 保科善四郎
「海軍はなんでグズグズしてるんだと、なぜ戦争に反対なんだと脅迫までされましたよ」 との事。
結局、リーダー達には、軍や国民を説き伏せる言葉がありませんでした。

1941年9月6日(開戦まで93日)
石油が来なくなって一ヵ月連絡会議は、またしても当面の方針でしのごうとします・・「交渉の推移を見つつ一ヵ月後の10月上旬までに開戦か否かの決意を固める」・・決断はやはり先送りでした。

近衛首相心境 海軍次官 沢本頼雄日記より
「どちらの軍からも対米戦に見込みありという話は聞かない。このさい私は人気取りで開戦決意しようと思えば容易なことだがそれは陛下のみこころに反する事になる。・・対米譲歩は国内を乱すと言うが国内問題がどうあろうと国を滅ぼす事は無い、対外問題を誤れば一国の安危に係るのだ」

本音では戦争を避けたいリーダー達、しかし多くの恨みを買うその決断を誰が言い出すのか水面下でなすり合いが始まるのです。

1941年10月初旬
陸軍が 「海軍から戦争回避を言いださせる」 工作を開始・・海軍は 「それはたまらん」 と別工作を開始・・国家経済を統制し国力の総合判断を行っていた企画院です。
企画院総裁 鈴木定一
「2人ね僕の家にやってきたですよ夜に・・及川海軍大臣、豊田外務大臣、何をしに来たかというと企画院総裁が御前会議の時 ”戦争は絶対に出来ません” と御前会議の前に陛下に内奏してもらいたいと・・海軍は戦は出来ない、やりたくないと・・”そんな事言えません”と僕は言いましたよ」

自分で軍に撤兵を説得する力の無い近衛首相は、ルーズベルト大統領まで引っ張り出す工作までして天皇陛下の裁可を仰ぎ自分で判断するのを避けようとしたほどです。

※誰を悪者(戦争回避の言いだしっぺ)にするかのなすりあいです。

1941年10月12日 荻外荘 旧近衛邸(開戦まで57日)
そして10月上旬決断の期限を迎えました・・会議直前、海相の及川に戦争回避の意向を確認していた近衛は、海軍がそれを明言する事を期待していた。
及川古志郎 海相
「戦争か交渉か海軍はいずれにも従います・・しかし決定は首相のご裁決に一任します」

及川は本音を言わず下駄を近衛にあずけてしまったのです。
先に戦争回避を言い出せないリーダー達、議論は4時間に渡ったが誰も勇気ある決断(戦争回避)を下せなかった。

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1941年10月16日 近衛内閣総辞職
途中で内閣を投げ出した近衛・・後をついだのは対米強硬論じゃと見られていた東条英機でした。

1941年10月18日 東条内閣発足(開戦まで51日)
強硬な陸軍勢力をまとめてきた東条の首相就任は、いよいよ開戦内閣誕生かと国民や諸外国に受け止められていました。

しかし実態は、違っていたのです。
内大臣の木戸から天皇陛下の意思が伝えられました 「9月の国策にこだわらず白紙に戻して検討を」 それは開戦を既定路線としないであらゆる可能性を探る異例の意思表示でした。

1941年10月23日 第59回連絡会議(開戦まで46日)
東条は連絡会後を招集します・・それは自分達で戦争を回避する最後のチャンスでした。
軍や企画院の数字をもとに10日間にわたって国策の再検討が始まりました・・しかし今更再検討と言っても今まで議論を尽くした事項、状況は以前よりも悪化しています。

軍では開戦となった場合の準備をしていました。
1.400万トンの民間船舶を徴用
2.海軍の年間予算を超える額をかけ軍艦の装備を戦時用に改装
膨大な人と金が動くほどに後戻りは難しくなって行きます。

なし崩し的に 「開戦やむなし」 の空気が支配し始めました。

1941年11月5日(開戦まで33日)
検討の結果、戦争回避の選択は取り上げられませんでした・・一方で開戦の最終決断も下せませんでした。・・決断に期限はなおも12月1日午前零時に先送りされます。

この間にも日米交渉の状況は悪化、アメリカ政府内は対日強硬派がいよいよ主導権を握り、ハル国務長官は日本との交渉に熱意を失っていました。
11月下旬アメリカが改めて提示条件をまとめます・・これが有名な 「ハル・ノート」 です。それは即時完全撤兵という日本がまさに飲めない原則論に立ち返った容赦の無いものでした。

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1941年11月26日 連合艦隊出撃(開戦まで12日)
早朝、ハワイ真珠湾に向け日本の機動部隊が移動を開始、しかしここまで来ながらも交渉次第で引き返すという留保をここでもなお残していました。

その直後、東京にハル・ノートが到着、連絡会議はついに交渉打切りを決定します。判断を先送りする間に状況は悪化し、選択肢を全て失った上の決意なき開戦でした。

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開戦決定後 水交社本館
上の集合写真は、開戦決定直後に撮った関係者達のものです。・・ついに決断の重圧を解かれたリーダー達、その表情には不安と同時に安堵の色がうかがえます。

海軍省兵備局長 保科善四郎
「総理大臣が2~3人殺されるつもりでやれば戦争は回避できたと思うんですが、それだけの人がいなかった」
陸軍省軍務課長 佐藤賢了
「独裁的な日本の政治では無かった。だから戦争を回避できなかった。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東条さんをはじめ我々の自主独往の気力が足りなかった事がこの戦争に入った最大の理由だと思う」

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-首脳

・戦略を持たなかった外交
・目的を見失っていた陸軍の組織
・大衆に迎合したり、軍部の宣伝をするようになったメディア
・目の前の重要案件を先送りしたリーダー達

見通しの無い戦争に国家と人々の命運をゆだねリーダー達は結局なにを守ろうとしたのか・・真の勇気は最後まで示される事はありませんでした。