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「聖徳太子は実在したのか!?」…BS歴史館より

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NHK BS歴史館
シリーズ英雄伝説 「聖徳太子は実在したのか!?」

近年、こんなアンケートの結果が出ました…。

日本史最強の外交の英雄 第1位
女性が彼氏にしたい歴史上の人物 第5位

実力と人格で人を引き付ける英雄が今回の主人公…聖徳太子です。

お札の顔としても知られる聖徳太子、今から1400年前に推古天皇の補佐役を務めた厩戸皇子(うまやどのみこ)の事だと言われています。

厩戸皇子は古代日本が国づくりをする際、重要な役割を果たしたとされています…その偉大な業績が讃えられ、後の時代に聖徳太子と呼ばれるようになりました。

しかし、日本人なら誰でも知っているこの英雄に大きな疑問が投げかけられています…なんと聖徳太子はいなかった!?…今に伝わる聖徳太子の姿は、全て後世に描かれたものなのです。

聖徳太子架空説が出るほど、その知名度とは裏腹に英雄聖徳太子の実態は、殆どわかっていないのです。…今に内容が伝わる日本最古の正史『日本書紀聖徳太子の業績は、確かにこの歴史書には記されています。

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しかし例えば ”憲法十七条” 通説では聖徳太子が自ら作ったとされてきましたが日本書紀を詳細に分析すると本当に聖徳太子の業績か疑わしいと言うのです。

逆に現在進む発掘調査からは、聖徳太子の優れた業績が裏付けられるという事例も…果たして聖徳太子は何者なのか?…聖徳太子の実像を追いかけていくと、その先に古代史の大きな謎に行き当たります。

日本を大きく動かした『乙巳の変』(いっしのへん)と『大化の改新』…そして日本書紀成立をめぐる謎です…日本が自立しようともがいた7世紀を聖徳太子の謎を中心に徹底的に解析します。


古代史の巨大な謎
聖徳太子は実在したのか?

沢山の偉大な業績が現代まで語り継がれる聖徳太子、そもそも聖徳太子は6世紀後半から7世紀にかけて実在した皇族の一人、厩戸皇子のことだと考えられています。

当時の日本は、ハッキリとした法律や制度がまだなく、国の基礎が整っていない状態でした…政治の中心は、天皇や皇族たち有力な豪族たちとの話合いによって決まります。

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豪族たちは、各々領地と民をかかえ独立した力をを持つため権力争いが絶えず、天皇の地位も不安定なものでした。

そうした時代に現れた厩戸皇子は、推古天皇の補佐役として後世、聖徳太子と讃えられる活躍をしたと言います。

1.憲法十七条の制定、成文された法律で国のルールを明確に
2.冠位十二階の制定、能力主義で位を定め有能な人材を抜擢
3.仏教の導入、当時最先端の学問だった仏教を人心を束ねる要として導入
4.遣隋使の派遣、当時の中国、大国であった隋に使者を送り、直接国交を結ぶ外交

厩戸皇子が亡くなってから100年後の歴史書日本書紀』、聖徳太子厩戸皇子の業績の多くは、この日本書紀に記されています。

その決定的な記述として…「厩戸皇子推古天皇の皇太子となり、政治の全てをつかさどった」、つまりこの時代に行われた政策全てを厩戸皇子の業績と認めているのです。

厩戸皇子の偉大な業績の数々、それらを全て一人で成し遂げたという超人的な人物像が後に聖徳太子という名で呼ばれるようになったのです。

日本書紀に記された聖徳太子の業績の数々、その中には、確かに厩戸皇子が成し得たと裏付けが取れているものがあります。

それはこの業績…「厩戸皇子斑鳩宮と斑鳩寺を作り、移り住んだ」、奈良県斑鳩、当時の都、飛鳥から20キロ離れたこの地で発掘調査が進められています。

ここからは厩戸皇子が生きた柱跡が出土しています…出土した宮殿と寺の跡が「日本書紀」の記述通り隣接している事、斑鳩で立派な宮殿に住む人物は、厩戸皇子しか記録がない事、こうした理由でこの遺構は、厩戸皇子斑鳩宮だと確定されたのです。

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この斑鳩宮の特徴は、立地条件です…都の飛鳥から大和川を下り、海に近い場所にあります…厩戸皇子がここを拠点に選んだ事が彼の更に大きな業績につながっていくのです。

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日本書紀によると、厩戸皇子斑鳩宮を建て始めたのが601年、完成は4年後の605年、丁度この頃、日本は国際外交で大きな転換期を迎えていたのです。

それは海外の歴史書に見てとれます…当時の隋王朝の歴史書『随書』の倭国伝、ここには600年に日本から使者がきたと記録されています。…いわゆる遣隋使です。

遣隋使は、日本にとって切実な目的がありました…新羅百済高句麗といった朝鮮半島の国々は、当時勢力を競い合い争いを繰り返していました。

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日本はそれぞれと国交を結んでいましたが争いにより振り回され外交が安定しません…そこで日本は、大国隋と直接、国交を結び安定した外交を展開しようとしたのです。

しかし、隋の都、長安で遣隋使を待ち構えていたのは厳しい現実でした…遣隋使は日本の政治の仕組みを問われても満足に説明する事は出来ませんでした…その上、国書さえ持参していなかったのです。

隋は、日本が政治の仕組みがあまりにも遅れた未熟な国と判断し、国交を結びませんでした…この外交の失敗こそが厩戸皇子斑鳩宮の造営に向かわせたのです。

歴史学者 遠山都男さん
「600年の遣隋使で日本は、国際舞台で赤っ恥をかいたわけです…翌年601年に厩戸皇子斑鳩宮の造園を始めています…何らかの役目を帯びて政治の中枢に参加したのです…それは外交です」

この外交問題を解決するため厩戸皇子が目を付けたのが朝鮮半島から来ていた渡来人でした…厩戸皇子に強い影響を与えた渡来人は、厩戸皇子の師匠、高句麗の高僧・慧慈です。

厩戸皇子は慧慈ら僧侶を始めとする渡来人と接する事で当時の国際的知識を学んでゆきます…更に厩戸皇子斑鳩宮に様々な国から渡来人を集め、最先端の文化と技術を集積させていきました。

斑鳩を流れる大和川は当時、海外との玄関口である大阪湾の難波津とつながっていました…つまりこの大和川を通って多くの渡来人が斑鳩を訪れたのです。…こうして厩戸皇子斑鳩は国際都市へと成長していったのです。

厩戸皇子斑鳩宮を完成させた2年後、607年、練り上げた国書を携え、第2回・遣隋使を派遣…国書は日本外交史に残る書き出しに始まっています。

「日出づる処の天子 書を 日没する処の天子に致す」…これを受けて隋の皇帝は日本と国交を結びました…聖徳太子の業績と伝わる大国隋との対等な外交、指揮したのは確かに厩戸皇子だったのではないでしょうか。

作家 童門冬二
「中国の思想では天子というのは一人、日出づる処の天子というくだりで隋の皇帝・煬帝はこの国書に激怒したと言われていますが…実はこの時期、隋は高句麗に手を焼いていたのです…だから日本とも国交を結ばざるを得なかったとも言われているのです」

「隋と高句麗が戦争に入る直前に遣隋使を送ったという絶妙なタイミングのアドバイスを渡来人から厩戸皇子が受けていたというのは容易に想像できます…まして厩戸皇子の師匠とされる高僧・慧慈は高句麗の人だったのです」


聖徳太子の偉業
憲法十七条の謎

憲法十七条…それは有名な「和を持って貴しとなす」に始まる日本最初の成文法です…内容は国の役人に仕事や生活の基本的な心構えを説いたもの、制定は604年、当時文章になった法律は、国が整備されている事を示す重要なものでした。

史のため国を作ったとされる厩戸皇子のとりわけ偉大な業績とされています…ところがこの通説が今覆ろうとしています。…憲法十七条が厩戸皇子によって作られた事を疑う声が上がっているのです。

そのカギとなるのは、やはり日本書紀です…実は、憲法十七条の存在は、唯一日本書紀にのみ記されているのです。

その日本書紀、完成は奈良時代の初め720年、歴代天皇ごとに巻を分け、30巻からなります…二二巻、推古天皇の推古記に憲法十七条が掲載されています。

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上記写真は、現存する最古の推古記『写本 岩崎本』です。…日本書紀研究の第一人者、京都産業大学、森博達教授が読み解きます。

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これまでは厩戸皇子が書いたものを日本書紀に書き写したと考えられていました…ところが森教授はこの内容に不自然な点があると気付きました。

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日本書紀憲法十七条の部分には、文法上の誤りが19ヶ所もあるのです。(上記写真赤部分)

実は、こうした誤りは憲法十七条に限った事ではなく推古記(日本書紀)全体にあるのです…これはいったいどういう事なのでしょうか?

京都産業大学 森博達 教授
「考えられる事は、十七条憲法は、原文を書き写したのではなく、この推古記の執筆者が考えたのではないかという疑問が浮かんでくるのです」

…この森教授の考え…あなたはどう思いますか???

阪南大学教授 来村多加史
「この憲法十七条には、儒教、仏教、道教律令といった知識が満ち溢れています…相当な知識人です…聖徳太子じゃなかったらいったい誰なんだと考えると、他に誰もいないのです」

作家 童門冬二
「歴史というのは勝者の記録ですよ…負けた方はぼろくそになっちゃうんですよ…」


聖徳太子の謎
日本を変えた大事件!

改めて年表を見ると厩戸皇子が亡くなったのが622年頃、そして日本書紀が完成したのが720年、ほぼ100年あります。…この100年の間に何が起こったかと言うと『乙巳の変』(蘇我入鹿 暗殺)、そして『大化の改新』、日本にとって大変な事が起こっています。

推古天皇の時代、「厩戸皇子は皇太子として政治の全てをつかさどった」…日本書紀には、こう記されています。…実は厩戸皇子が執り行う政治には、有力豪族の協力者がいました。…蘇我氏です。

推古天皇厩戸皇子の信頼を得ていた有力豪族・蘇我馬子、…ところが厩戸皇子が世を去ってから20年、馬子の次の代になると天皇の一族と蘇我氏は決裂します。

645年、乙巳の変(いっしのへん)皇族である中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足たちが蘇我入鹿を殺害、その父・蝦夷も自害に追い込むことで蘇我氏の本家を滅亡させた事件です。

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強大な権力を持つ豪族、蘇我氏を滅ぼすと中大兄皇子は国の仕組みを変える大改革に着手します…天皇の一族と豪族が並び立つ状況から、豪族とその土地や民を全て天皇の下におき、天皇を頂点とする国家へ新しく作りかえるという改革、大化の改新です。

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蘇我氏がなぜ排除されなければならなかったのか?

日本書紀にはこう記されています…「蘇我氏は、甘樫丘に大邸宅を築きそこを『宮門』王の住まいと呼んだ…蘇我入鹿は野望を抱き、みずから天皇になろうとした」(『日本書紀・皇極記』より)

蘇我氏は、王のように振る舞い、天皇家を乗っ取ろうとした逆賊であると記したのです。…ところがこの日本書紀の記述に疑問の声が上がっています。

京都産業大学 森博達 教授
日本書紀の記述で明らかに蘇我入鹿の非道を記した部分が不自然なのです…後から別人が加筆した可能性を考えます…つまり、乙巳の変のクーデターを正当化する為に蘇我氏を悪者にしなければならなかったのです」

蘇我氏の排除、乙巳の変…この事件を正当化する為には、日本書紀において蘇我氏天皇家に歯向かう悪役にする必要があったというのです。

更に日本書紀では、同じ癖を持つ執筆者が厩戸皇子について加筆している部分も見つかっています…それは587年、まだ若き厩戸皇子天皇の軍勢の一員として有力豪族との戦いに参加した時の事、味方の軍勢が今にも敗れそうになると。

厩戸皇子は仏教の守護神四天王に祈願し、勝利を呼び込んだ」(『日本書記・崇峻記』より)…まさに天皇方に奇跡の勝利を呼び込んだ英雄として持ち上げられています。

京都産業大学 森博達 教授
「ここは明らかに加筆されたところです…つまり、日本書紀の最終段階で厩戸皇子をより聖人君子として描く、特別な人間として描こうとする意図が働いていたのだと思います」

そうすると日本書紀に書かれた厩戸皇子の偉大な業績も実態より、大きく書かれている事は、大いに考えられるのです。

こうした土台の上に聖徳太子のイメージは、生まれているのです。