旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

仏教伝来 ~古代日本の文明開化~

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NHK BS歴史館
仏教伝来 ~古代日本の文明開化~

遡る事1500年、新しい宗教、仏教徒の出会いは当時の人々にとって衝撃でした…仏教伝来は国を揺るがす大事件だったのです。

初めて仏像を目にした欽明天皇は、 …「西の仏の顔はキラキラ輝いておる。今まで見た事が無い」 と驚愕。

それまで日本の神様は、万物に宿る八百万の神々のような霊的な存在、突如現れた姿形ある黄金に輝く神様は、日本国内に大きな波紋を投げかけます。


仏教伝来
国を揺るがす ”インパクト”

奈良文化財研究所 主任研究員 馬場基
「イメージとしては、 ”転校生です” と紹介されたら ”宇宙人” が来てしまったぐらいのインパクトだったと思いますね」

彫刻家・東京藝術大学大学院教授 薮内佐斗司
「仏教伝来じゃなくて仏像伝来なんですよ…経典も来てますが、やはりビックリしたのは、仏像ですよ」


激震!仏教伝来
”仏様”を巡る大抗争!?

国を統治する天皇は、神からのお告げを人々に伝える司祭のような存在、異国の神を崇拝して良いものか、決めかねた天皇は群臣たちに意見を聞きます。

代々王家に従属する豪族 物部尾尾輿
「外国の神を礼拝すれば、日本古来の神の怒りを招くでしょう」

財政部門の担当豪族 蘇我稲目
「他の国々はみな礼拝しています…日本だけがどうじて背けますでしょうか」

仏教を巡って両者は真っ向から対立、…世にいう ”崇仏論争” が幕を開けます。

排仏派 物部氏 VS. 崇仏派 蘇我氏 …両者の間で勃発した血で血を洗う一大抗争は、半世紀もの間、2代に渡って繰り広げられ、結果、排仏派リーダー物部守屋は討ち死に、…崇仏派・蘇我馬子の勝利に終わります。


日本初の寺院・飛鳥寺
判明!衝撃の建立秘話

奈良県明日香村飛鳥には、日本初の本格的な仏教寺院・飛鳥寺があります。

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(建立から1400年 飛鳥大仏)

飛鳥大仏は1400年もの間、同じ場所に鎮座しています…飛鳥寺を建立したのは、物部氏との抗争に勝利した蘇我馬子、仏教興隆に本格的に乗り出した馬子が取り組んだ一大国家プロジェクトこそ飛鳥寺の建立でした。

当時の姿をかろうじて残しているのは、大仏様だけですが、昭和31年、32年に行われた、大規模な発掘調査から様々な事実が明らかになりました。

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飛鳥寺五重塔跡から発掘された装飾品には…
・金の首飾り
・玉やガラスの飾り
・勾玉
…これらの出土品から飛鳥寺は、日本の伝統的な古墳文化と外来文化が融合したものと考えられてきました。

ところが2007年、韓国のプヨで王興寺という百済の寺院跡から 『舎利容器』 が出土されました。

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(舎利容器)

舎利容器とは、お釈迦様の骨を納めたという器です…そこに刻まれた年号から、韓国の王興寺は、飛鳥寺と同時期(577年)に建てられた寺院であることが判明したのです。

王興寺の五重塔跡から出土した装飾品を再点検すると飛鳥寺と共通する…
・金の装飾具
・玉やガラスの飾り
・勾玉
…勾玉は形までそっくりです。

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(韓国・王興寺、日本・飛鳥寺の出土品)

この調査結果は、それまでの常識を覆す大発見でした。

関東学院大学 教授 田中史生
「我々は飛鳥寺倭国の伝統的な古墳文化と外来の仏教文化のミックスだと思っていました。しかし王興寺が発掘された時に百済の強い影響があったと考えなきゃいけなくなった」

王興寺が伺える要素は装飾品だけではありません…
1.建物の並び方…五重塔を中心として三つの金堂を持つ、 ”一塔三金堂” 式の配置は日本では特異な配置ですが、飛鳥寺の左右にある建物は、王興寺の影響とも考えられるのです。

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(一塔三金堂)

2.丸瓦…王興寺の物と大きさ、花の形など極めて良く似ています。
3.舎利容器に掘られた人名『昌王』…王興寺が昌王によって建てられた事がわかったのです。

この昌王こそ飛鳥寺に技術を送った百済王、…昌王は仏教を日本に伝えた聖明王の長男で当時の百済王、日本書紀には王興寺建立の僅か9ヶ月後、百済から仏像や寺を作る技術者が日本に送られた事が記されています。

つまり飛鳥寺は日本独自の物ではなく、百済の国を挙げた技術派遣によって建てられた可能性が高まったのです。


日本初の寺院・飛鳥寺
古代ニッポンの文明開化!?

6世紀の古代日本に忽然と出現した飛鳥寺、その姿とは…

1.飛鳥大仏、当時は全身金箔でした…金銅仏は鋳造技法、型を作らなきゃいけない、型の中に銅を流し込む…これが難しい。大仏を作る事で日本の鋳造技法は発達していったんです。

2.柱を直接土中ではなく、礎石の上に立てるという新しい建築技術を導入、これまで困難だった高層建築物が可能になったのです。

3.寺院全体を彩る、赤や緑の豊かな色彩、自然に中にしか色彩を見てこなかった日本の人々は、人工的な極彩色に圧倒されました。

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飛鳥寺

飛鳥寺建立の高度な技術は、古代日本に新しい時代をもたらしたのです。


飛鳥寺に隠された
外交メッセージ

なぜ百済は、ここまで熱心に日本の寺院建設に力を注いだのでしょうか。

実は当時、百済は、高句麗新羅と領土問題を巡って対立、苦境に立たされていました…そこで百済は、日本に仏教や技術を伝える代わりに、見返りとして強固な同盟関係を結びたいと考えていたのです。

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朝鮮半島勢力図)

東北学院大学 教授 熊谷公男
「… 三国が対立関係にあったわけですが、新羅が力を増し、最強国だった高句麗が押されてきて、高句麗倭国を味方につけたいと飛鳥寺を立てた時、高句麗王が大枚はたいて金を贈って来たのです。

ですから飛鳥寺に使われた金箔は、かなり高句麗の金が入っていると考えます。…」

奈良文化財研究所 主任研究員 馬場基
「… 飛鳥寺の出現は、別世界がいきなり登場したという感じでしょうね…しかも塔という形で飛鳥の地であれば、遠くからでも見える、目に入ってしまう。

最新の考えでは、王興寺のコピーをそのまま持って来た…丸ごと外国人に全てやってもらったという感じだったんではないかという人もいます。

飛鳥寺は、朝鮮半島の技術を丸ごと輸入して建設されたのは、間違いないでしょう。…」

彫刻家・東京藝術大学大学院教授 薮内佐斗司
飛鳥寺は 『法興寺』 とも言います…『王興寺』 と似てますね」


日本仏教の転換点!
驚きの巨大仏像造り

6世紀半ばに日本にやって来た仏教は、飛鳥寺建立によって華やかに日本デビューしました。しかし初めは、仏教はあくまで政治的なツール、担い手は限られた貴族階…。

そんな中、仏教が広く民衆に浸透していく、大きなきっかけとなった一大事業があります…それは、 ”東大寺大仏建立” です。

仏教伝来から200年後の事です…発案したのは、時の天皇聖武天皇、…聖武天皇が即位したのは、平城京に都を定めて間もなくの事、まさに日本にとって苦難の時代でした。

政治は乱れ、飢饉、疫病が流行していました…そんな中で聖武天皇が救いを求めたのが仏教でした。民に幸福をもたらすために仏教の力で国を守ろうと大仏建立を発願したのです。

計画されたのは、高さ15m、世界最大級のもの…この聖武天皇の大事業実行を支えたのは、行基(668-749)という僧侶でした。

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行基


立役者・行基
秘められた渡来人パワー!

なぜ一僧侶だった行基が窮地に追い込まれていた天皇を助ける事が出来たのか…その訳は行基の出生に大きく関わってきます。

父は元、百済国の王子・ワニの子孫、…母も百済から渡来した蜂田家の家系、…つまり行基は渡来人の末裔だったのです。

行基が育ったのは堺市のあたり、強力な渡来人の技術者ネットワークを持っていました…仏教信仰に基づいて自発的に労働力を提供することを 『知識』 といいます。

行基は、多くの民衆の 『知識』 を結集して精力的に活動していたのです。

畿内を中心として農業用の灌漑、橋などを次々と建設、行基は大規模な土木事業を行いながら、人々に仏教の教え説いていきます。

行基のもとで働く事は徳をつむ事に繋がる” …そう考える人々が工事に参加するために自主的に集まって来たのです。

聖武天皇は、この行基に注目し、協力を求めました…大仏建立プロジェクトは、行基の参加によって大きく前進します。


驚きの巨大仏像造り
こうして”仏教”は広まった
聖武天皇は、人々に向けてこう訴えかけます…

たとえ草のひと枝
一握りの土を運ぶ事でもよい
大仏造りに参加してほしい

天皇自ら人々に大仏造りに参加するよう求めたのです。

幅広い階層の人々が関わって行われた、大仏造りは日本の仏教信仰の大きな転換点となったのです。

立命館大学 教授 本郷真紹
「諸階層の人々の信仰心は一気に高まったと考えます…実質上、日本が仏教国となる礎がここに完全に確立されたといっていいと思います」

天平勝宝4(752)年、大仏開眼法要が行われます…心から民を救いたいと願った聖武天皇、広いネットワークを駆使出来た行基、二人が手を結ぶ事で巨大大仏は、ついに完成しました。

ここから日本の仏教は、天皇から庶民に至るまで大きくすそ野を広げ、新たな時代へと踏み出してゆくのです。


東大寺・大仏建立
なぜ完成できたのか?

彫刻家・東京藝術大学大学院教授 薮内佐斗司
「当時の人々は、聖武天皇がやろうとしている、大事業に参加できる喜びがあったと思います。」

奈良文化財研究所 主任研究員 馬場基
「最初の仏教伝来の飛鳥寺は、囲いの中にあるというか他人事ですよね…それが自分も参加する…自分の事になる…仏教の教えが仮に分からなくとも仏様を作る事でキッカケになる」


仏教伝来1500年
神と仏が共存する世界

毎年3月、東大寺で催される修二会(しゅにえ)、この時行われる儀式の中に現代にも通じる日本仏教の在り方が垣間見えます。

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東大寺 修二会)

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(修二会 神々の読み上げ)

読み上げられているのは、大仏造りの際に力を貸してくれた日本古来の神々の名前、その数13,700余り、神々への感謝の気持ちを込めた儀式は、深夜まで続きます。

神と仏が共存するという日本独特の姿、大仏開眼の年から一度も途絶えることなく続けられてきた祈りの風景です。

東北学院大学 教授 熊谷公男
「仏教伝来を見て行くと、アジアの東の端の日本ですが、外来文化を積極的に受け入れて、しかし自分たちの伝統、固有のものは無くさないで、その中に取り入れて、独自の文化を豊かなものにしていったと考えます」

奈良文化財研究所 主任研究員 馬場基
「一部の貴族文化にとどまらなかった…多くの人々がわかろうとして関わったところに、日本という国の今に至る力があると思います」

彫刻家・東京藝術大学大学院教授 薮内佐斗司
「… 朝鮮半島、その奥の大陸から様々な仏教の経典、僧侶が来て平城京に根付いたわけですが、肝心の教えてくれた中国本土、朝鮮半島では全部消滅するんです。日本にだけ残るんです。

日本人は1500年間、仏教を中心に据えて日本の歴史を築いてきたのです…日本の文化を作って来た。日本から京都と奈良が無くなっていたら何と寂しい国だ…日本の仏教は日本の文化そのものだと思います。…」

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司会 渡辺真理
奈良文化財研究所 主任研究員 馬場基
彫刻家・東京藝術大学大学院教授 薮内佐斗司
東北学院大学 教授 熊谷公男