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壬申の乱 古代史最大の内乱が日本を築いた!

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NHK BS歴史館
壬申の乱 古代史最大の内乱が日本を築いた!

1300年以上前、日本という国の在り方を定めた戦いがありました。

672年、壬申の乱天智天皇の後継者をめぐって…その長子・『大友皇子』 と天智天皇の弟・『大海人皇子』 が国を二分して戦った、古代最大の内乱です。

勝利した弟・大海人皇子は、天武天皇として即位、その後、国の基盤となる様々な政策に着手します。

律令制
国史編纂
・新都造営
・初めて天皇の称号を用いる
・皇室所縁の様々な儀式を整備

ところが壬申の乱を記述した正史『日本書紀』 を見ても乱の経緯は謎だらけです。

戦の発端は?
大海人皇子は、天智天皇皇位継承を要請されながらそれを辞退、…にも関わらずなぜ大友皇子と戦わなければならなかったのか。

圧勝のわけ?
更に僅か30人足らずで吉野を脱出した、大海人皇子の一行は、なぜ4日間で3万人の軍団に膨れ上がり、圧勝する事が出来たのか。

そしてこの戦いの新しい国造りの影には、大海人皇子の妃・持統天皇の影響が…。

古代日本最大の内乱、壬申の乱大海人皇子大友皇子、二人はなぜ戦ったのか、その後日本はどういう国に変わったのか、壬申の乱が決めたこの国の在り方を考えます。

 

壬申の乱
日本書紀』の謎

司会 渡辺真理
「日本という国を作り、天皇制を作ったのが壬申の乱と言われていますが、戦前の教科書には壬申の乱自体載っていなかったわけですか?」

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ジャーナリスト 田原総一朗
「僕は、まったく習っていない…戦前は、万世一系天皇である…これを正当化するためには、壬申の乱というのは非常に都合が悪かったのではないですか」

『天上の虹 持統天皇物語』作者 漫画家 里中満知子
持統天皇の父が天武天皇、夫が天武天皇、…私が小さい頃は、 ”あの人は父の七光り、夫の七光りで女性天皇になった人だ” みたいな言い方をされていたんです。評判が悪かった…持統天皇を描く事は、まず母に反対されました。」

国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
「戦前はもちろんですが、戦後もかなりイデオロギーに縛られて、安保があって紛争がありました。その時代は古代史もその影響を受けていたのです。…日本書紀は、勝った側の論理で書かれていますから実際はどうだったか復元するのが難しいのです。」 

ジャーナリスト 田原総一朗
「今まで国なんか無かった…初めて国を作ろうと…壬申の乱が起きて初めて日本という国が出来た、治めているのは天皇だとなった。日本の形を決めた」

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天智天皇 画・里中満知子)

大化の改新を成功させた中大兄皇子・後の天智天皇、663年、白村江の戦いという対外戦争に直面します。

当時、倭国と呼ばれた日本は、百済復興のため朝鮮半島に大量の兵を派遣、唐・新羅連合軍と戦います。

しかし巨大戦艦を要する大国・唐の圧倒的な軍事力の前に倭国軍は大敗しました。…その後、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼすと朝鮮半島の支配権をめぐって、今度は、唐と新羅が対立、半島情勢が益々混沌とする中、隣国である倭国の対外危機は続きました。

668年、白村江の敗戦の後に即位した天智天皇、各地の有力豪族たちに分散した権力を自らに集中し、外圧に対抗する軍事国家を目指します。

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国土の防衛を強化するために西日本沿岸に 『水城』 や朝鮮式の 『山城』 を急ピッチで建設、外国の侵略に備えました。

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671年、しかし天智天皇が病にふせます。…問題は国造りを誰が引き継ぐかという事、有力候補は天智天皇の子で若干24歳・大友皇子。…もう一人は、天智天皇の弟・大海人皇子天皇の政治をサポートしていました。

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(画・里中満知子)

 

日本書紀によれば、死期が迫る天智天皇は、病床に大海人皇子を呼び寄せます。…「私は病が重い、後の事はお前に託す」、天智天皇の選択は大海人皇子でした。

なぜ自らの子でなく、弟だったのか…当時の皇位継承は…
・統治能力
・暗黙のルール(年齢40歳以上)
・資質優先
・大友の母は采女天皇の食膳を司るメイドのようなもの
大海人皇子は白村江以降の中で力を示していた
大友皇子は未知数
…つまり、当時の慣例として天智天皇は自らの後継を実績のある弟に託したのです。

ところが当の大海人皇子からは、意外な答えが…「大友皇子に政務を任せてください。私は出家して、陛下の回復を祈ります」…大海人皇子皇位継承を辞退、出家してしまったのです。

日本書紀』は、更に込み入った事情を記しています…天智天皇の病床を見舞う前、大海人皇子は家臣にこんな事を忠告されます。… 「お言葉にはご用心なさいませ」 …その一言で大海人皇子は、兄の謀略を悟り、身の安全のため出家したというのです。

しかし謀略の内容について日本書紀は記していません…大海人皇子出家の背景には、天智天皇の国造りに対する諸豪族の不満があったとも指摘されています。

たとえば『庚午年籍』(日本で最初の戸籍の制定)を実施、土地や徴税などの豪族たちの既得権を管理下に置く事が狙いでした。

更に天智天皇は、都を大和・飛鳥から近江・大津宮に移しました。この遷都に対する不満から、謎の火事や不吉な出来事が相次いだといいます。(不満豪族の仕業)

大海人皇子は、天智天皇に対する周囲の不満を感じとり、そのまま皇位を継承するのは不利だと思ったのでしょう…かくして大海人皇子は。671年、僅かな供を連れて近江を出発し吉野で隠遁生活に入ります。

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(画・里中満知子)

妃・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)後の持統天皇と子・草壁皇子が同行します。

671年、それから1月半後、天智天皇 崩御、…こうして大友皇子が父に代わり、近江朝廷の実権を握ったのです。

 

壬申の乱
大海人皇子 吉野脱出

大友皇子に朝廷を任せ、吉野で隠棲していた大海人皇子、…壬申の乱の発端は、大海人皇子の吉野脱出から始まります。

日本書紀』はこう書いています…672年、天智天皇が亡くなった翌年5月、大海人皇子は家臣から驚くべき報告を受けます。

「朝廷は天智天皇の陵墓を造るためとして人夫を集めていますが、何故か武器を持たせています。陵墓を造るためではありますまい…早く逃げないと危ない事になるでしょう」

・陵墓の造営は徴兵の口実
・朝廷はその兵を大海人皇子追討に差し向けるはず
・吉野脱出はやむを得ないとする『日本書紀
…しかし、逆に大海人皇子の計画性が指摘されています。

国立歴史民俗博物館 教授 仁藤敦史さん
「『日本書紀』は大友皇子が仕掛けたと言っていますが、細かく見て行くと大海人皇子は用意周到に事を進めた事が読みとれるのです。」


1st MISSION
近江の皇子たちとの合流

大海人皇子は吉野を発つ前、近江・大津宮に密使を送り、…「高市皇子大津皇子を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにせよ」…。

高市皇子大津皇子とは大津に残してきた大海人皇子の王子たち、脱出の情報が伝われば人質にされかねない二人を逃がし、伊勢で合流させる…それが最初の重要なミッションでした。

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6月24日、僅か30人余りで大海人皇子は吉野を発ちました…吉野を出てなだらかな道を進むのかと思いきや険しい矢治峠へ…大海人皇子は伊勢へ抜ける道を事前に調べていたのです。

6月24日夜、行軍は夜になっても続きました…行く手を阻む暗闇、近隣の村々に参軍を呼びかけても応答は全くありません。…『日本書紀』 の記述は不安を煽ります。

更に黒雲が上空を多い、誰もが暗い前途を予感したまさにその時、大海人皇子は歩みを止め、占いを行いこう言います。…「天下が二分される前兆だが、最後は私が天下をとる」…この予言の後、数百の兵が初めて見方につくのです。

なんともドラマチックな展開!(そんな上手い話あるのかな?)

6月25日、翌日、一行は ”積殖山口”(つむえのやまぐち)という場所に到着、そこで近江から駆けつけた高市皇子と感動の再開、後に大津皇子とも合流します。

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2st MISSION
鈴鹿び山道を塞げ!

この頃、大友皇子と近江朝廷は、高市大津皇子がいなくなった事で異変を知り、追って差し向けます。

一方、鈴鹿の山道に到着した大海人皇子は、近江からの追手を防ぐため、具体的な軍事行動に出ます。…「500の軍勢で鈴鹿の山道の守りを固めた」、…。

三重大学 名誉教授 山中章 先生
「なぜここに来たかというと、鈴鹿峠を越えれば近江ですから、まさに朝廷の守備範囲です。ここにきて初めて兵士を置くと…駐屯させて道を塞がせた。第一の目的がここにあったのです。」

鈴鹿の山道は、近江からの追手を防ぎ、更に朝廷のもう一つの拠点、飛鳥からの追っても防ぐことのできる交通の要衝でした。


FINAL MISSION
不破の道を塞げ!

大海人皇子の目的地はいったいどこだったのでしょうか…大海人皇子はこう命じました。…「急いで不破の道を塞げ」…。

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不破とは現在の関ヶ原、当時も東西交通の最大の要衝でした。不破を占拠する事で近江と東国の連絡を断ち、東国の兵力を味方につける作戦。

26日、先発隊がいち早く、不破を押さえました。

27日、大海人皇子の一行もついに不破に到着…ここで尾張の2万の兵が合流してきます。4日間、170キロの行軍の過程で30人の一行は、3万人の大軍団に膨れ上がって行ったのです。

 

大海人皇子
170キロの行軍とは?

司会 渡辺真理
「4日間で170キロ、ここまで厳しい行軍をしなければいけない理由はなんですか?」

国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
「… 白村江の戦いで西国は壊滅的に疲弊しています…しかし東国は無傷です。鈴鹿不破の関を塞ぐと東国と畿内は遮断されてしまう。

東国に無傷の兵がいるので鈴鹿不破の関を塞ぐのは戦略上、最も重要なことです。

机上は簡単ですが実際にやるのはすごく難しい、行く先々の豪族を見方に付ける…つまり、『あなたの所には何時頃いきますよ、だから兵を集めておいてね』 と事前に言い送っていたのです。

我々は地図を広げて偉そうに説明しますが、当時地図などありません…何度も何度も舎人(家臣)たちが往復してシュミレーションし練習したのです。高市皇子も練習しています。

吉野脱出じゃない…周到に計画された大進軍なんです。

大友皇子が先に手を出して大海人皇子が吉野を脱出した” …これは 『日本書紀』 の作文です。…つまり、 ”やられたからやむを得ず” という正当防衛を日本書紀で主張してるんです。…」


古代史上最大の内乱
壬申の乱

壬申の乱は、6万人の兵士が敵味方に分かれて戦った、古代史上最大の内乱でした。…しかし大海人皇子の一方的勝利に終わります。

戦いの経緯をたどってみましょう…
1.飛鳥攻防戦
近江朝廷軍は、大海人皇子が陣を張る不破に向けて進軍、そのさ中、最初の戦闘は意外にも朝廷の第2の拠点飛鳥から始まりました。

近江朝廷に不満を持つ有力氏族が反旗を翻し、飛鳥はあっけなく大海人皇子軍の勢力に入ってしまいました。

2.更に大海人皇子軍は3方面に展開する事で近江朝廷軍を混乱させ徐々に包囲して行ったのです。

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大海人皇子自らは不破にとどまり、前線の指揮を高市皇子に任せます。

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(画・里中満知子)
高市皇子大友皇子の妃・十市皇女とは、かつて恋人同士でした。
大海人皇子の軍勢は各地で勝利し、大津宮へ迫ってゆきます。

7月22日、最後の決戦の地は、滋賀県瀬田橋…近江朝廷軍は残る兵力を結集、大友皇子も最前線に現れ、大海人皇子軍と雌雄を決する事になりました。

大友皇子と群臣たちは、瀬田橋の向こうに大きな陣営を構えていた。旗や幟は野を覆い、土埃は天に連なっていた。次々と放たれた矢は雨のように降り注いだ。」(『日本書紀』より)

しかし、勝敗はあっけないものでした…

「近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止められなかった。」(『日本書紀』より)…大友皇子や大臣たちもかろうじて脱出し、逃亡します。

7月23日、翌日、西へ西へと逃走した大友皇子にもはや逃げ場はありませんでした。

大友皇子は、自ら首をくくって死んだ。」(『日本書紀』より)…そして首は、不破の大海人皇子の元に届けられました。

こうして壬申の乱は終わったのです。

 

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司会 渡辺真理
「結局、壬申の乱は、1カ月足らずで大海人皇子の圧勝に終わりますけど、中央である朝廷がここまであっけなく負けた理由は何でしょうか?」

国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
「… 理由は、大海人皇子は戦を起こそうとして起こしたわけですが、大友皇子は戦が起こると思っていなかった。どの時点で戦争になるか分からないわけです。

吉野を脱出したからといって、すぐ戦争につながるわけではない分けですから、もの凄く準備が遅かったのです。…」

漫画家 幸中満知子
「… 大海人皇子が用意周到に準備していることに、大友皇子はまったく気づかなかったことが敗因です。なぜ気づかなかったかというと、知らせてくれる見方がいなかったんです。

天智天皇の後は、大海人皇子だと多くの人が思っていたというのがポイントです。…ですから戦争というよりも、大友皇子の一方的な防戦だったのです。…」

673年、壬申の乱の翌年、大海人皇子は大津から飛鳥へと都を戻し、天武天皇として即位しました…大規模な国家改造を進めるため、天武天皇壬申の乱の勝利を背景に独裁的とも言える人事体制を敷きます。

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(画・里中満知子)
天智天皇の時代には有力豪族が占めていた大臣というポスト、天武天皇はそれを排除し、天皇・皇后を頂点に皇族、皇親が政務を司るシステムを構築、また敗れた近江朝廷側の人材も積極的に登用しました。

一方、東アジアでは、壬申の乱と前後して新羅が唐の支配に抵抗、戦争状態に突入していました。

672年、唐が朝鮮半島の支配を諦めた事から大陸の脅威は薄れました。これを背景に天武天皇は国内の改革を推し進めます。

681年、国の法律や行政制度を定めた律令の編纂を開始、国の成り立ちを記録した国史編纂事業に着手、後の日本書紀につながります。

天武天皇は強大な権力と共に、自らの権威を高めることにも普請しました。それまでの大王(おおきみ)という呼び方を改め、天皇という称号を使い始めたのは、天武天皇からなのです。

天武天皇は、自らを天皇と名乗り、絶対的な権威をも手にしたのです。天武天皇が治めた飛鳥の都を賛美する歌が万葉集に残されています。

おおきみは
神にしませば赤駒の
腹這ふ田井を都と成しつ
(『万葉集』より)

天皇は神でいらっしゃるので、馬が腹まで浸かってしまうような田んぼの土地さえも、立派な都にしてしまわれた。

国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
「… 王というのは各地にいます。大王はその中の中心の一人、…
・大王:キングオブキングス
天皇:全然違うもの
天皇(すめらみこ)というのは清浄な清い貴人という意味です。…」

絶対的な権力と権威を手にした天武天皇、最後の問題が後継者選びでした…今後皇位をどう継承して行くか、そこには皇后である鵜野皇女(うののひめみこ)の思いもありました。

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(鵜野皇女 画・里中満知子)
成人していた天武天皇の皇子は4人、そこから身分の低い母親を持つ二人は除外(内一人は、壬申の乱で前線指揮者の高市皇子)、…天智天皇の娘を母とする二人の男子に絞られました。

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草壁皇子(母・皇后・鵜野皇女 )
大津皇子(母・天智天皇の長女・大田皇女)

懐風藻は、大津皇子の優秀さをこう謳いあげています。
幼い頃から学問を好み
成人すると巧みに剣をあつかった
謙虚な態度をとり、多くの人々の信望を集めた
(『懐風藻』より)

大津皇子支持の声は少なくありませんでした…。

679年、天武天皇は決着をつけるため、後継者を指名しました…草壁皇子です。他の皇子たちには、後継者をめぐり争わない事を誓わせます。

686年、天武天皇 崩御、その僅か1ヶ月後、皇子たちの誓いは破られます。…大津皇子の謀反が発覚、大津皇子は死に追いやられます。

ところがその3年後には、草壁皇子も病死します。二人の皇子がこの世を去り、即位したのは、壬申の乱天武天皇と行軍を共にした皇后・鵜野讃良皇女、持統天皇でした。

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(画・里中満知子)
天皇は夫が成し遂げられなかった計画を引き継いで行きます。持統天皇が後継者に選んだのは、意外な人物でした。亡き、草壁皇子の唯一の男子・軽皇子です。

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679年、軽皇子は16歳の若さで文武天皇として即位します。権力を持たない若き天皇の誕生です。…この事がその後の日本の国のあり方を決める事となったのです。

国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
「… 中国では王朝がごろごろ変わるわけですよね。日本の場合は政治が良いからこの人が統治できるのではなくて…”天照大神の子孫だから統治できる” としたのです。…」

実は、持統天皇の決断を強く支持したのは、壬申の乱に敗れた、大友皇子の子・葛野王でした…あまりにも若い天皇の即位に対する強い反発、それに対し、彼はこう言います。

わが国では今日まで
子孫が皇位を継承することになっている
兄弟の順で相続するならば国は乱れる

葛野王は、持統天皇の直径の孫である文武天皇の即位を支持したのです。持統天皇は喜びました。

「国を定むる」(『懐風藻』より)

現在に至るまで連綿と続くこの国のあり方、それは壬申の乱から始まったのです。


司会 渡辺真理
ジャーナリスト 田原総一朗
国際日本文化研究センター教授 倉本一宏
漫画家 幸中満知子