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大化の改新 全方位外交への転換 飛鳥 アジアの中の古代日本

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NHK さかのぼり日本史
飛鳥 アジアの中の古代日本
第1回 大化の改新 全方位外交への転換

飛鳥時代は、朝鮮半島や中国の動向が倭国といわれた日本の政治に、大きな影響を及ぼした時代です。…時には外国と戦争を行った倭国の外交を政治の中心を担った蘇我氏を中心に解説します。

今回のターニングポイントは、645年、蘇我入鹿暗殺に始まる大化の改新です。


超大国の出現
蘇我氏の外交

589年、隋が200年以上続いた混乱に終止符を打ち中国を統一、その後を受けて巨大帝国・唐が誕生します。

630年、北方の突厥支配下に置いた唐は、その矛先を朝鮮半島に向けます。高句麗百済新羅の3国は、服従か対立か唐への外交方針をめぐって政変に発展します。

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新羅では、唐と同盟して勢力拡大を狙う一派が政権を握りました。高句麗百済では唐への強硬派が政権を握ります。両国は同盟して唐と対抗する事になりました。

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こうした政変の影響は、倭国にも及びます。
642年、百済倭国と友好関係を築くため王子を派遣します。倭国はこれを受け入れ王子を丁重に扱いました。

こうした百済よりの外交を主導してきたのが、海外情勢に詳しい蘇我氏です。特に蘇我入鹿は朝鮮から来た学問僧に学び、入鹿ほどの者はいないと言われた秀才でした。

蘇我氏の主な情報源は、百済からの渡来人でした。蘇我氏の氏寺・飛鳥寺百済の職人によって建てられています。蘇我氏にとって百済は切っても切れないものでした。

644年、唐は、高句麗攻撃の準備を開始、朝鮮半島の緊張は一層高まります。…この時、朝廷では百済よりの外交に危機感を募らせ、密かに蘇我氏に反旗をひるがえす人物が現れます。

中大兄皇子中臣鎌足です。…この企てに入鹿と同族ながら主導権争いをしていた蘇我倉山田石川麻呂、更に次期天皇を狙う、皇族の軽皇子(かるのみこ)も加わりました。

彼らに外交の危機を訴えたのは、唐で学んだ留学生たちです。その一人、医恵日(くすしのえにち)は、こう訴えました。…「唐は法律が整備された先進的な国です。常に唐と交流すべきです」。

政治の主導権を蘇我氏から天皇に奪還し、百済のみならず新羅、唐とも友好を保つ外交への転換、それがクーデターの狙いでした。

中央大学講師 加藤謙吉
『…唐の誕生によって東アジアの情勢は大きく変動します。どの国も唐に従属するか対抗するか、二者択一を迫られます。この緊張の中で政変が起こったということは、朝鮮諸国も倭国もまったく同じです。…』

645年6月12日、蘇我入鹿皇極天皇の飛鳥板蓋宮に参上します。猜疑心が強く普段は剣を手放さない入鹿ですが天皇の前では剣を外さなければなりません。

中大兄皇子たちは物陰に隠れました。仲間の蘇我倉山田石川麻呂が天皇に文を読み上げる間に、部下が入鹿に切りかかる算段でした。…ところが文を読み進めても部下は斬りかかりません。

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石川麻呂は汗を出して声が震えました。入鹿がなぜ震えるのかと問うと石川麻呂は、「天皇のお近くが恐れ多く汗が出るのです」 と答えました。…その直後、中大兄皇子自らが躍り出て入鹿に斬りつけました。

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中大兄皇子は時を移さず、入鹿の父・蝦夷の攻撃に向います。蝦夷は屋敷に火を放ち自害しました。…乙巳の変(いっしのへん)です。クーデターの後、皇極天皇に代わって軽皇子が即位し、孝徳天皇となります。

翌年1月、改新の詔が出され、大化の改新が始まります。孝徳天皇中大兄皇子は、外交を刷新、飛鳥から難波宮への遷都を行いました。難波は中国や朝鮮の船がやってくる海外の窓口でした。

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海外と交流しやすい難波の地で、それまでの百済中心の外交から唐・新羅とも友好関係を保つ外交へと転換を図ったのです。

646年、孝徳天皇は、元遣隋使で海外事情に明るい人物(使節高向玄理)を新羅に送ります。この使節は両国の関係修復に画期的な成果をもたらしました。

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倭国はまず、百済新羅が争っていた伽耶(かや)の領有権は、新羅にあると認めました。その代わりに友好の証しとして倭国へ人質を出す事を認めさせたのです。…こうして倭国は、新羅・唐との緊張関係を、ひとま和らげることに成功します。

中央大学講師 加藤謙吉
『…日本書紀によると入鹿は 「”韓政” により誅でられた」 とあります。韓政とは、対朝鮮政策を意味する言葉ですから、入鹿の暗殺は国際的な外交スタンスの問題だったのです。 …』


迷走する
倭国の外交

大化の改新で志した、唐・新羅との友好外交は間もなく挫折します。

651年、倭国を訪れた新羅の使者を見て朝廷は衝撃を受けます。新羅の使者は、新羅の服ではなく唐の服を着ていたからです。

”唐に従えば、いずれは倭国も属国にされてしまう”…危機感をおぼえた中大兄皇子たちは、新羅・唐への警戒を強めます。…そうした中、唐の支援を受けた新羅百済へ侵攻し、百済は滅亡、百済の残党が倭国へ渡来し、百済復興の支援を要請します。

663年、倭国は、要請に応えて2万7000もの大軍を朝鮮に出兵します。白村江の戦いです。…倭国の船は朝鮮半島の白村江で唐と新羅の軍船と激突、…小さな船でバラバラに攻めかかる倭国の船は、巨大な軍船を自在に動かす、唐・新羅軍の前に次々と倒れて行きます。

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大敗を喫して引き上げた中大兄皇子は、恐怖に陥りました。唐・新羅が攻めてくる事を考えて九州から難波までの要所に山城や砦を築いて防御を固めていったのです。


この間、朝鮮半島の情勢も大きく動きます。唐の支援で半島を統一した新羅は、今度は独立を求めて唐と戦争を開始、新羅倭国との関係回復に動きます。

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673年、新羅の使者が朝廷を訪れました。当時、中大兄皇子はすでに亡く、天武天皇が朝廷を指導していました。天武天皇は使者を受け入れ、新羅と国交を回復します。

702年には、唐との交流も回復し、倭国は大陸の知識を積極的に導入する時代に入って行くのです。

 

 

 

 

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NHK さかのぼり日本史
飛鳥 アジアの中の古代日本
第2回 仏教伝来 飛鳥寺建立 古代の文明開化

蘇我氏の台頭と
渡来人
蘇我氏が頭角を現す以前の6世紀、天皇近畿地方の中の拠点を度々動かします。…天皇に従う豪族たちも共に移動し、勢力を広げて行きました。

豪族の中でも大友氏と物部氏は 『大連』(おおむらじ)という最高職を与えられ、戦闘を繰り返して朝廷に貢献しました。

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その頃、倭国は大きな外交問題に直面していました。朝鮮半島伽耶国です。伽耶には倭国の豪族が駐在し、貿易などを行う拠点でした。…ところがここに新羅が攻めてきたのです。

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527年、朝廷は伽耶に援軍を送ります。その責任者は戦闘を司る、大友氏と物部氏でした。…しかしその途中、北九州の豪族・筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)が反乱(磐井の乱)を起こして遠征は失敗、大友氏は失脚し、物部氏の勢力も衰えます。

そして一豪族に過ぎなかった蘇我氏物部氏と入れ替わるように台頭してゆくのです。

572年、蘇我馬子は、大臣に任じられ、物部氏と肩を並べます。馬子は朝廷の外交と財政を任されました。馬子が外交で力を発揮できたのは、朝鮮や中国からの渡来人です。


仏教伝来
倭国の親百済路線はどうして生まれたか

6世紀になると物部氏は、外交の主導権をめぐって蘇我氏と対立します。…この頃、朝鮮半島百済新羅は互いの領土をめぐって激しく争っていました。

532年、新羅伽耶を勢力下に置き、百済と戦闘に及びます。…日本書紀によると苦境に陥った百済聖明王倭国に援軍を求めました。

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548年、百済の求めに応じて蘇我氏の主導で倭国から百済へ武器や援軍が送られます。その時、蘇我氏が見返りに求めたのが、文明の最先端である仏教でした。…百済から僧が招かれ、蘇我氏の一族に仏教が広まります。

552年、欽明天皇の元に百済から仏像などが送られてきます。感激した天皇は、仏教を導入すべきかどうか臣下に尋ねます。

蘇我氏:西の国々は、みな仏を礼しております
物部氏:わが国には180もの神がおわし、怒りをかいます
(『日本書紀』より)

蘇我氏の仏教導入に反対する物部氏は、ついに実力行使にでます。…キッカケは疫病の大流行でした。

585年、物部守屋は仏教が日本の神々の怒りを買ったとして寺を焼き僧侶を迫害します。蘇我馬子物部守屋の対立は決定的となりました。

587年、馬子は朝廷の家臣を引き連れ、守屋の屋敷を攻撃します。数百人の犠牲者を出す激闘の末、馬子は守屋を滅ぼしました。…その翌年、百済から僧侶や大工たちが派遣されます。

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588年、蘇我氏の主導の下で日本初の本格寺院・飛鳥寺の建立が始まります。飛鳥寺蘇我氏が外交を駆使し、百済の最新の技術を導入して建てたものでした。

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その後の日本
仏教と国造り

蘇我氏は、飛鳥寺建立後も娘を天皇家に嫁がせるなど勢力を拡大します。

592年、馬子の姪に当たる、推古天皇が即位、同族の厩戸皇子聖徳太子)が摂政となり、百済と積極的な外交を展開します。

599年には、百済の使者がラクダやヤギなどの珍しい動物を献上、その後も多くの僧侶や職人が招かれました。

604年には、憲法十七条が制定されます。第二条には厚く三宝を敬えと仏教を国造りの中心に据える事を明記しました。(三宝=仏、仏説、僧侶)

更に飛鳥寺を中心に寺や街道が整備され、海外の使者を迎える建物も作られます。飛鳥は倭国で初の都となりました。

607年、国作りが着々と進む中、倭国は中国・隋の皇帝に国書を送ります。…「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す」…国書は、倭国と中国との関係を対等にあつかったものでした。

608年、翌年、使節が隋から飛鳥に到着し、国交が結ばれます。…こうして倭国蘇我氏の主導の下、仏教による国造りを確立させていったのです。