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奈良・飛鳥 都がつくる古代国家…第1回 聖武天皇 大仏開眼への道

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NHK さかのぼり日本史
奈良・飛鳥 都がつくる古代国家

疫病が蔓延し、飢饉が頻発した奈良時代の半ば、聖武天皇はこの危機を仏教によって乗り切ろうとします…平城京(奈良)に大仏を置き仏の力によって国を守る ”鎮護国家” を推し進めたのです。

国難に立ち向かい平城京を仏教の都に生まれ変わらせた聖武天皇…その道のりを追います。


第1回 聖武天皇 大仏開眼への道

神亀元(724)年、聖武天皇平城京で即位するものの藤原氏長屋王天皇の17歳年上の皇族)を中心とした皇族たちが実質的な政治の実権を握っていました。

天平元(729)年、長屋王の変が起こります…長屋王に国家転覆の疑いありと敵対していた藤原氏が屋敷を取り囲み、長屋王を糾弾し自害に追い込みます。…この後、聖武天皇藤原氏とともに政治の主導権を握ります。

天平9(737)年、しかし混乱は収まりません…都で天然痘が大流行し、天皇を支えた藤原氏の大臣や参議が相次いで病死しました。

天平12(740)年、更にその3年後、九州の大宰府で朝廷への反乱が起きます。(藤原広嗣の乱)…この事態を乗り切ろうと聖武天皇は思い切った決断をします…平城京を離れる事にしたのです。

天平12(740)年10月に都を起った天皇は各地を巡幸し、12月、恭仁で歩みを止めました…恭仁は平城京の11キロ北、木津川の畔の集落です…聖武天皇は、恭仁を新たな都とするのです。(飛鳥時代から奈良時代というのは都が移る遷都が十数回と頻繁の行われます)

更に平城京に残っていた貴族たちを強制的に恭仁へ移住させました。…聖武天皇は、新しい都で天皇中心の政治体制を作る事を目指します。

国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
「遷都によって貴族の既得権を奪う作戦です…平城京の周辺にあった私有地、私有民から引き離して新たな都で屋敷地を与えたり、位階・官職に応じて土地の私有を認めたのです」


鎮護国家
仏教で国を救う

恭仁で都づくりが進む中、聖武天皇に難題が立ちはだかります…再び天然痘が大流行し始めたのです。…聖武天皇は繰り返し、疫病の退散を祈願しました。

「山川の神に祈祷し、天地の神に捧げ物をしたが未だ効験を得ない」…疫病の猛威を前に聖武天皇が出した答えは仏教に救いを求める事でした。

天平13(741)年、聖武天皇は、国分寺建立の詔を発します…仏教に帰依する事で国土が守られるという教えに基ずき62の諸国全てに寺を建てるよう命じました。

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天平15(743)年、聖武天皇は大仏建立の詔を発します…恭仁の北東25キロ、紫香楽で始められました…最高の功徳をもたらすという大仏の力によって国家と社会の安定を願ったのです。

勅の中で聖武天皇は、民衆の参加を求めました。

「天下の富を持つ私が大仏を作る事はたやすいが、それでは願いは成就しない…一枝の草、一すくいの土でも、それを捧げて助けようと志す者は、これを許そう」

たとえ僅かでも自らの意志で大仏の造営に参加する事が大切だと訴えたのです…聖武天皇は大勢の民衆を参加させるため思い切った手段に出ました。

天平17(745)年1月、聖武天皇行基を大僧正に抜擢しました…行基はかつて国法を無視して布教を進めたため弾圧されました…しかし、聖武天皇は民衆を動員する手腕に期待を寄せ、行基に大仏造営の先導をする役割を担わせたのです。

しかし、この年、紫香楽で山火事と地震が頻繁に発生、大仏造立は頓挫を余儀なくされます…都にも被害が及び人々は平城京への帰還を求めました。

天平17(745)年5月、聖武天皇は、ついに恭仁を離れ、再び平城京への遷都を決断します。


東大寺大仏建立へ

平城京に戻った聖武天皇は、大がかりな都の改造に乗り出します…天皇が政務を執り行う大極殿を以前、有力貴族たちの拠点であった大安殿を取り壊し建設します…平城京に戻っても貴族たちに実権を渡さない姿勢を示します。

更に聖武天皇は、平城京を仏教の都へと変えて行きます…自らを「三宝の奴」すなわち仏に仕える者と称した聖武天皇は、天平感宝元(749)年に出家、皇位を皇太子に譲り、大上天皇となります。

紫香楽で頓挫していた大仏造立も再開します…大仏の安置先は平城京の東に位置する東大寺です…大仏の鋳造では延べ200万人以上の民衆が参加しました。

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天平勝宝(752)年、東大寺大仏開眼供養が行われます…開眼供養には、聖武天皇を先頭に1万人の僧侶が参加、中国やベトナム、インドの僧も招待された国際色豊かな式典でした。

「仏教が東方にもたらされて以来、これほど盛大なものはなかった」(『続日本記』より)

聖武天皇の都作りは、ここに完成しました。

国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
聖武天皇は、政治や旧来の神教で国難、疫病を収拾する事が出来なかったので当時最先端の文化だった仏教に救いを求めたのです。…そして東大寺での大仏開眼供養で鎮護国家体制を完成させたのです」

聖武天皇は、仏教によって平城京を改造し生まれ変わらせ、進むべき社会の在り方を示したのです。

 

 

 

 

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NHK さかのぼり日本史
奈良・飛鳥 ”都” がつくる古代国家 第2回『天皇の都 誕生』

平成2(1990)年11月23日、皇居で大嘗祭が執り行われました。…大嘗祭天皇の即位に際して行われる儀式です。…天皇がその年収穫された食物を神々と共に食し、国家安寧や五穀豊穣を祈ります。

大嘗祭のルーツは飛鳥時代天皇にあります…天武天皇です。…皇室所縁の様々な神事の基礎を作り、天皇の神秘性を高めました。

天武天皇が即位する契機となった壬申の乱、甥の大友皇子皇位を争ったこの乱で天武天皇は自らの神秘性を強調、多くの豪族を味方につけて勝利を収めました。

天武天皇は、律令の制定や国史の編纂などを行って天皇の権威を絶対的なものにしようとします…中でも飛鳥の都作りは力を注いだ事業の一つでした…天皇の絶対的な権威を確立した天武天皇、都作りに込めた狙いを読み解きます。


壬申の乱へ至る経緯
天武天皇の勝利への作戦…

天智天皇の弟として生まれた天武天皇…即位前は大海人皇子として兄の政治を助け、皇位を継承する有力候補でした。

天智6(667)年、天智天皇は都を奈良県南部の飛鳥から滋賀県の近江・大津に移しました…住み慣れた飛鳥の地を離れる事に臣下の豪族たちは不満を募らせ大勢の民が反対しました。

それでも大海人皇子天智天皇を支え続けます…天智10(671)年、大海人皇子の運命を変える出来事が起きました。天智天皇の子・大友皇子が国政を司る太政大臣に任じられたのです。

大友皇子天智天皇の後継者と目されました…これを機に大海人皇子は都を離れ、吉野に隠居します…皇位を争う事のない事を示そうとしたのです。

しかし大友皇子はこの行動を危険視します…「虎に翼をつけて放つようなものだ」(『日本書記』より)

天智天皇が没すると翌年、天武元(672)年6月、大海人皇子は軍事行動を起こします…吉野を脱出し美濃へと向かいます。…壬申の乱の始まりです。

大海人皇子の吉野脱出を助けたのは地元豪族たちでした…天文や占いに通じていた大海人皇子は、こうした神秘的な力を見せ伊勢、美濃の豪族を味方にして行きます。

天武元(672)年6月27日、大海人皇子は不破、現在の関ヶ原大友皇子との決戦に備えます…その夜、大海人皇子は神々に…「我を助けるならば、雷と雨を止めよ」と祈りました。…するとただちに雷雨はやんだといいます。

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大海人皇子の不思議な力を目の当たりにし、味方は士気を高めます…大海人皇子の軍勢は、大友皇子の軍を圧倒します…そして1カ月で大津を攻め落としました。

戦いに勝利した大海人皇子は、即位し天武天皇となったのです。


国立民族博物館 仁藤敦史 教授
壬申の乱というのは皇位継承の争いです…どちらが正当性を持つかが重要なのです。ですから天武天皇は神様を味方につけようとしたのです。

壬申の乱の記述の中には、天武天皇伊勢神宮天照大神に遥拝し勝利を祈ったとあります…つまり神の前で人々に自分の正当性をアピールしたのです。』


天武天皇による
飛鳥浄御原宮遷都

天武元(672)年、天武天皇は飛鳥に再び都を移し、新しい宮殿を造営します…飛鳥浄御原宮です。…発掘調査の結果、天武天皇の母・斉明天皇の宮殿に上に飛鳥浄御原宮が建てられたのが確認できました。

二つの宮殿はほぼ同じ形で建てられていました…天武天皇は先代の宮殿を踏襲する事で皇位を受け継ぐ正当性を強調したのです。

更に天武天皇は、天皇の権威を高める都作りに力を注ぎます…宮殿は中国の都に習い南北の方位に合わせてあります。…同時代の貴族の屋敷も殆どの建物が同様に南北に合わせて作られています。

飛鳥は天皇の宮殿のある都であると示そうとしたのです。


国立民族博物館 仁藤敦史 教授
『宮殿で天武天皇が新たに造営したのがエビノコ郭です…宮殿の40m南に独立した建物です。国の重要事項などの命令を下す場として作られました。

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天皇がお出ましした際、臣下は地面に平伏す…上下関係を明瞭化した作りなのです。…これを見せる事によって天皇の絶対性を示したのです。

ビジュアル的な視覚効果を狙ったのです。…天武天皇は新しい都を作る事は出来ませんでしたが宮殿にエビノコ郭を付け加える事によって天皇の絶対性を確立したのです。』


天武10(681)年、自らのカリスマ性を高める都作りを推し進めた天武天皇は中国に習った法典、律令の制定を命じます。…天皇が法律によって全ての民を統治する中央集権体制を作ろうとしたのです。

更に天武天皇は新しい土地、新城への遷都を視野に入れ、準備を進めていた矢先の朱鳥元(686)年、天武天皇は亡くなり遷都は中止されます。

新城が記録に残されるだけの幻の都となったのです。…その後、新城は天武天皇の妻・持統天皇が造営した藤原京となります。

東西南北に碁盤の目のように張り巡らされた区画、道、天武天皇が目指した都が藤原京として完成したのです。


国立民族博物館 仁藤敦史 教授
『以前の都は、周辺に豪族たちが分散的に住んでいます…それを平安京以後は、天皇の宮の周辺に集住させたのです…碁盤の目のような区画は中国の都を習ったものです。

都造りの他に天武天皇が行った重要事項は、古事記日本書紀につながる歴史書の編纂です…これは神話と系譜を体系化する事によって中心に皇室・天皇家というものを位置づけ、他の氏族とは違う特殊な存在である事を確立せしめたのです。』

壬申の乱で勝利した天武天皇は、天皇の権威を高めるという今日の天皇制の根本を確立した人物だったのです。

 

 

 

 

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NHK さかのぼり日本史
奈良・飛鳥 ”都” がつくる古代国家 第3回『白村江の戦い

国の行政を担う官僚、日本では今も天下りや組織の硬直化など様々な問題点が指摘されています…しかし飛鳥時代、官僚は国の基盤を形作るために不可欠な存在でした。

その礎を作ったのが中大兄皇子天智天皇)です…豪族を官僚化し古代日本を中央集権国家へと導きました。…官僚を軸に古代日本の政治改革を進めた天智天皇…その政策の実像に迫ります。


白村江の戦い
危機が生んだ大改革

7世紀半ば朝鮮半島では、高句麗新羅百済の3国が覇権を争っていました…642年、高句麗百済が同盟し新羅を攻撃、苦しんだ新羅は中国の唐と同盟を組んで対抗します。

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唐は新羅と敵対する高句麗を度々攻撃、更に新羅に援軍を送って百済への侵攻を開始します。

660年7月、唐と新羅の連合軍は圧倒的な武力で新羅を滅ぼしました…百済は当時、倭国と呼ばれた日本と交流の深い国でした…百済の滅亡は倭国にも影響を及ぼします。

9月、百済の元王族が倭国を訪れ、領地を奪還し、百済を再興したいと協力を求めました…斉明天皇の下、皇太子として政治を担っていた中大兄皇子は各地から兵を集めて朝鮮半島へ派遣します。

天智2(663)年8月、韓国西南を流れる川、クムガン(白村江)…この河口で倭国軍と唐・新羅連合軍が戦いました…白村江の戦いです。

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倭国軍は400槽の小型船団を率いて唐の水軍に攻撃を仕掛けました…

「我等先を争はば彼自ずからに退くべし」…豪族ごとに編成された倭国の水軍は、各々が先陣を争って突撃すれば勝てると踏んでいました。

一方、唐の軍勢は巨大な軍艦を繰り出し、指揮官の号令一過、左右から倭国軍を挟み撃ちにします…統制のとれた唐の圧倒的な軍事力の前に無秩序な攻撃を繰り返す倭国軍は大敗、…白村江は倭国の兵の屍で赤く染まったと伝えられています。

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白村江での敗戦を中大兄皇子は唐・新羅の軍勢が倭国へ来襲するのではないかと危機感に襲われます…国土の防衛を急いだ中大兄皇子は敵の進入路に当たる九州・瀬戸内海沿岸に山城を築きました。

天智6(667)年、60年以上続いた都、飛鳥を離れ近江の国・大津への遷都を決断します…飛鳥から遠く離れる事に多くの民が反対しました。

しかし中大兄皇子は豪族たちを引き連れて遷都を強行、翌年、新しい都で天智天皇として即位します。


国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
大津宮の特徴は、朝堂という場所がない事です…朝堂は本来、友好的な外交儀礼や宴会の場所です。…しかし当時は中国(唐)と新羅と戦争状態にあり、朝堂は必要なかったのです。…大津宮は、僅か5年間の戦時の緊急避難的な都だったと考えられます。

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唐・新羅が攻めてくるとしたら瀬戸内海の方から大阪湾に入ってくると考えられます…大津だったら攻め上ってくるのに途中山が迫っている場所が何か所もあって迎撃するのに適していたし大軍が展開しづらい場所だったのです。

対して飛鳥は奈良盆地です…唐・新羅の大軍が攻めよせてきた場合、守りづらいのです…つまり、反対を押し切って飛鳥から大津に遷都した理由は、緊急非難的な戦時体制だったのです。』


白村江の大敗北を受け
律令体制実現へ…

天智天皇は都の防備を固めながら豪族たちを使って政治改革に着手します…その実態をうかがわせる史料が大津宮から出土した『音義木簡』です。

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音義木簡とは当時の話し言葉に対応する漢字が記された辞書です…この木簡を使って天智天皇は豪族たちに漢字を習わせました。

天智天皇はこれまで口頭で行っていた命令や報告など行政の実務に文書を持ちこみました…読み書きの能力は豪族たちに不可欠とされたのです。

天智9(670)年2月、天智天皇は豪族たちに命じ、日本初の戸籍の作成に着手します…それまで豪族や皇族が治めてきた全国の民を天皇が戸籍を通じて直接支配する事でした。

天智天皇は豪族たちを国家に仕える官僚として統制し、中央集権体制を推し進めていったのです。


国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
天智天皇は白村江の大敗北を分析して戦略の問題ではなく、背景にある組織の問題だと考えたのです。

白村江の戦いで日本の軍勢は豪族単位でした…編成、装備、指揮系統がバラバラだった…その背景にある旧態依然だった豪族連合的な組織でした。

対して中国側は国力を最大限に発揮できる統制された組織でした。…その為に遷都する事によって今までの豪族連合を壊して天皇中心の中央集権的な国家をつくる…それには官僚が必要だと言う事だったと考えられます。

その為に文書行政が必要だった…文書によって速く、正確に命令が伝わり、記録として残す事が出来るようになった。』


大津遷都のその後…

天智10(671)年12月、天智天皇は病に倒れ亡くなりました…翌年、皇位継承をめぐって天皇の弟・大海人皇子天皇の息子・大友皇子が対立、…壬申の乱が勃発します。

壬申の乱に勝利した大海人皇子大津宮を廃止し、都を再び飛鳥に戻しました。

その頃、国際情勢は大きく変化していました…唐と新羅は連合して高句麗を滅ぼしましたが670年以降は、その唐と新羅が戦争を始めたのです。…唐はこれで倭国に軍を派遣する余力は無く、唐がすぐに攻めてくるという危機はひとまず去りました。

戦時体制の中で造営された大津宮は、国内外の情勢の変化によってその役割を終え、僅か5年でその姿を消しました。

国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
白村江の戦いは、古代日本では最大の海外戦争です…それが日本の社会には大きな衝撃を与えたわけです。

その危機感によって、それまでの日本のシステムでは立ち行かないとなり、天智天皇は敵ではあるが中国の進んだ国力を最大限に発揮できるような体制、律令体制の良いところを取り入れて日本の改革に役立てた…そういう意味では白村江の戦いは大変重要な意味があったと考えられます。』

 

 

 

 

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NHK さかのぼり日本史
奈良・飛鳥 ”都” がつくる古代国家 第4回 日出づる処の天子の都

2000年、奈良県橿原市飛鳥時代の女帝・推古天皇のものとされる古墳(植山古墳)が公開されました。推古天皇は亡くなってすぐここに埋葬され、後に他の陵墓に移されたといます。

石室からは様々な副葬品が出土しました。その一つ馬具の飾りです、金の上に銀を薄く被せた高度な技術で作られています。こうしたきらびやかな馬具の飾りは極めて珍しく、女性の天皇ならではといわれています。

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日本最初の女帝・推古天皇聖徳太子蘇我馬子とともに飛鳥時代の扉を開き36年に渡って国を治めた天皇です。推古天皇が造営した小墾田宮(おはりだのみや)、外国の使者を迎える施設を始めて備えた宮殿でした。この宮を中心に推古天皇は古代日本を国際社会に通用する国家に生まれ変わらせようとします。

押し寄せる外圧の中で国政改革を推し進めた推古天皇、古代日本の原点となった時代を読み解きます。


日出づる処の天子の都

6世紀、古代日本の政治の中心だったのは奈良盆地南部の磐余(いわれ)でした…水が豊富で農耕に適した磐余には、継体天皇から崇峻天皇まで多くの天皇が宮殿を築いていました。ところが6世紀の末、磐余から宮殿を移す天皇が現れます…推古天皇です。

592年、推古天皇は飛鳥地域の豊浦宮(とゆらのみや)で即位しました…磐余から4キロ離れた飛鳥に宮殿を造営したのは推古天皇の叔父にあたる豪族・蘇我馬子の影響です。

飛鳥に拠点を構えていた蘇我氏は、その頃、急速に勢力を伸ばした豪族でした。馬子は対立する通力豪族・物部氏を倒し、諸豪族の頂点に君臨しました。


小墾田宮造営の理由

581年、中国大陸で隋が誕生し、中国大陸を統一(589年)します。およそ150年に及ぶ南北朝分裂の時代を終わらせた大帝国でした。当時、倭国と呼ばれた日本にも大きな脅威となったのです。

600年、推古天皇は国情視察のため使者を派遣します…遣隋使です。中国に使者を派遣するのは120年ぶり、隋書には隋の皇帝に謁見した時の様子が記されています。

遣隋使が倭国の政治のやり方を説明したところ皇帝は「大無義理」(はなはだ義理無し)倭国の政治は道理に合わないとその是正を求めたのです。

それから3年後の603年、推古天皇小墾田宮を造営し、豊浦宮から移りました。小墾田宮とはどのような宮だったのか、日本書紀からうかがう事ができます。

外国の使節を迎える朝廷や宮殿の入口にあった宮門などが備わっっていました。

国立歴史民族博物館 仁藤敦史 教授
小墾田宮は、外国からの使者、中国や朝鮮半島からの使者に対応するための施設として作られました。道路などをネットワークとして整備して、いわゆる首都として都というものが出来上がる。そいう言意味で小墾田宮は始まりだったのです。

600年に遣隋使を派遣した時、中国の皇帝から「はなはだ義理無し」未開の国だと言われてしまったのです。その屈辱を拭うために日本でもこれくらいのものは出来るのだと頑張って作ったのが小墾田宮なのです』


倭国いよいよ国際舞台へ…

小墾田宮を中心に推古天皇は国政の改革に着手します…甥の厩戸皇子聖徳太子)と蘇我馬子天皇を補佐しました。

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603年12月、冠位十二階を制定します…豪族たちの位に従って色の違う冠や衣装を着せ、天皇を頂点とした序列を目に見える形にしました。

604年4月、国家の役人としての心得を記した憲法一七条を制定します。

天皇中心の国家体制を急速に整えた推古天皇、607年、再び遣隋使を派遣しました。遣隋使が皇帝に差し出した国書にはこう記されていました。
日出づる処の天子
書を日没する処の天子に致す
倭国天皇が皇帝と同じ天子と名乗る事で倭国は隋に劣らぬ先進国だと主張したのです。

608年8月、帰国した遣隋使に伴われ、隋の使節が飛鳥を訪れました…この時、隋の使節を迎えた宮殿こそ小墾田宮でした。使節はまず宮殿の朝廷に通されます…朝廷では中国風に五色の服と冠を着けた豪族たちが迎えました。

隋の使節は皇帝からの親物を朝廷に置き国書を読み上げます。
皇帝から天皇に挨拶申し上げる
あなたが海の彼方の国にあって
誠意を尽くし、はるばる朝貢した事を知り
その真心を嬉しく思う。(『日本書記』より)

推古天皇は、今後は隋の礼儀や政治を学びたいと答え、隋と正式な国交を結びます。こうして古代日本は東アジアの国際秩序に深くかかわるようになって行くのです。