旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

平安時代 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか 摂関家の危機

f:id:tabicafe:20200330093459j:plain

NHK さかのぼり日本史
平安時代 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか 摂関家の危機

平安貴族、藤原氏の祖先を祀る奈良、春日大社…ここで3月に行われる春日祭です。この祭りには毎年、天皇からの勅使が使わされます。

勅使派遣は、平安時代にまで遡ります…平安時代藤原氏天皇と血縁関係を結び絶対的な権力を誇りました。そして天皇を補佐する摂政、関白の地位を何代にも渡って独占したのです。

源氏物語枕草子を始めとする王朝文学、浄土の世界を現した平等院藤原氏はきらびやかな王朝文化のパトロンでもありました。

ところが平安末期、藤原氏に危機が訪れます…摂政、関白の座をめぐる兄弟の対立が武力衝突に発展、保元の乱が起こったのです。

「武者の世になりにけるなり」…武士が世の中を支配する時代が到来しました。…しかし藤原氏は、摂政、関白の地位をしたたかに守り抜きます。

天下統一を果たした豊臣秀吉、秀吉は朝廷の権威を得るため藤原氏の末裔である近衛家の養子となり、関白の座を手にしました。

摂政関白が廃止された明治以降も総理大臣を歴任した近衛文麿を排出するなど藤原氏の末裔は、影響力を持ち続けたのです。

f:id:tabicafe:20200330093507j:plain

なぜ藤原氏は、1000年の長きにわたって歴史に影響を及ぼし続ける事が出来たのかその原点を探ります。

同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
平安時代は日本の歴史上、一番雅な時代であった事は間違いないでしょう…しかしその陰で権力闘争は厳しかったのです。都が平安京に定められて天皇が中心となり政治を行う、その天皇を支えた貴族が全盛期を迎える時代、これが約400年の平安時代です」

「その貴族の頂点に立ったのが摂関家としての藤原氏です。…今回のテーマ、平安末期の保元の乱は、一言で申しますと天皇家摂関家の内紛が結びついて2つに分かれて争うのですが…大事な事は、武力によって解決されたということです」

保元の乱は、藤原氏にとっては危機的な状況に陥ります…何とか謀反の罪を逃れて地位だけは保ったのです」


摂関政治の危機

「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」…天皇に自らの娘を嫁がせ生まれた子を天皇にする事で強大な権力を築いた藤原道長が詠んだ歌です。しかし、この歌が詠まれた70年後、道長の子孫の権勢は大きく後退します。

応徳3(1086)年、道長一族とは血縁関係のない白河上皇が自ら政治を行う院政を始めたからです…この院政に大きく翻弄されたのが道長から数えて5代目に当たる藤原忠実です。

康和元(1098)年、忠実は摂関家の当主となったものの摂政・関白にはなれず、権大納言の地位にとどめられたのです。

f:id:tabicafe:20200330093515j:plain

天皇を補佐し、最終的な政務決定に臨む事ができる摂政、関白とは違い忠実の立場は弱いものでした…摂関家の当主となって2年後、康和3(1101)年忠実は地方で反乱を起こした武士に対する対応策を練るため、公卿たちを召集します。

この時、忠実の出した答えが日記に残っています…「院に申し上げてどうすべきか決めるべきだ」(『殿暦』より)…政務の最終決定権は、忠実ではなく上皇が握っていた事がわかります。

長治2(1105)年、摂関家の当主となって6年、忠実はようやく関白に任命されます…しかし、その後、忠実の運命を大きく変える出来事が起こります。

白河上皇の孫、鳥羽天皇から忠実の娘を妃にしたいという話を持ちかけられたのです…天皇外戚関係を持つチャンスととらえた忠実は、これを受け入れます。…しかし、この事が白河上皇の激しい怒りを買いました。

f:id:tabicafe:20200330093536j:plain

天皇家の将来にかかわる事を上皇の断りなく決めた事がその理由でした…保安元(1120)年、白河上皇は、忠実を罷免、謹慎を命じます。

「運が尽きた」(『中右記』より)…忠実は腹心の公卿にこう語ったといいます。

同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「関白を罷免するなど上皇の力を思い知らされますが藤原道長の時代、栄華を築いた藤原氏摂関家がなぜここまで力を落としたかと言うと道長に子・頼通の時代に外戚関係が切れてしまうのです」

外戚関係とは、自分の娘を天皇に嫁がせる、生まれた皇子が天皇になる、自分は祖父として天皇を後見する…これが摂政関白、いわゆる摂関政治です…これが頼通の代で終わってしまったのです」


藤原氏の天敵
白河上皇の死後の政界

大治4(1129)年、白河上皇崩御するとその3年後に忠実は政界に復帰します…罷免から実に12年ぶりの事でした。

忠実は娘を鳥羽上皇に嫁がせます…自らの罷免の原因となった縁談を再び進める事で政界への影響力を回復しようとしました。

更に忠実は地方の豪族と連携し、荘園の新規開発、拡大にも乗り出します…荘園の拡大は、しばしば紛争を引き起こすため忠実は武士を召抱え管理を任せました。

道長の晩年に開発された荘園が忠実の時代には1400丁、4キロ四方にまで拡大したのです…しかし、一度は引退した忠実が政界で再び存在感を増していくことが新たな波紋を呼びます。

忠実には、長男・忠通と次男・頼長という20歳以上も歳の離れた2人の息子がいました…忠実が謹慎の頃に生まれた次男・頼長は幼いころから利発で勉強熱心な子でした…頼長を寵愛していた忠実は、兄・忠通に代わって摂関家を継がせようと考えます。

f:id:tabicafe:20200330093523j:plain

久安6(1150)年、忠実は藤原氏の長である事を示す『氏の長者』の権限を忠通から取り上げ、頼長に与えます。…更に関白の座を弟に譲る事を拒否した忠通と親子の縁を切ったのです。

摂関家の正式な後継者となった頼長は、摂関政治の全盛を築いた藤原道長の政治を理想とし、綱紀粛正に取り組みました。…その厳格さは、行事に遅刻してきた貴族の屋敷を燃やしてしまうほどでした。

人々は、頼長を「悪左府」、厳しすぎる左大臣と呼び恐れるようになります。


摂関家の対立
が招いた保元の乱

保元元(1156)年、鳥羽上皇崩御、忠実と頼長は大きな後ろだてを失いました…この機を逃さず反対勢力は動きます。

武士を集めて頼長の屋敷に乗り込み、後白河天皇への謀反の証拠を見つけたとして頼長に流罪を言い渡します。…進退極まった頼長は挙兵を決断、そして朝敵の汚名を逃れるため、当時皇位継承問題で後白河天皇と対立していた天皇の兄・崇徳上皇と手を結びます。

f:id:tabicafe:20200330093529j:plain

一方、長男・忠通と後白河天皇のそばには、平清盛源義朝ら名だたる武将が加わります。…年老いていた忠実は戦いには加わらず成り行きを見守る事にしました。

天皇家摂関家、有力武家を二分する保元の乱の火ぶたが切られたのです…しかし戦いは、後白河天皇側の一方的な勝利に終わります。

夜襲をかけられた上皇軍はあっけなく崩壊、頼長も矢傷を負い都を追われます…2日後、頼長の使者が忠実の元を訪れ面会を求めました。

ところが忠実のとった行動は、意外なものでした…あれだけ可愛がった頼長との再会を拒否したのです。…鎌倉時代に成立したとされる『保元物語』では、忠実が使者に語った言葉をこう伝えています。

藤原氏の長者ともあろう者が矢に当たるような目にあうはずがない…面会はまかりならん」(『保元物語』より)

忠実の元で再起を図ろうとした頼長の希望は打ち砕かれました。…頼長は悔しさのあまり、舌を噛み切って死んだとされています。

朝廷の追及を恐れた忠実は、密かに動いていました…乱の4日後、絶縁した長男の忠通に対し書状を送っていたのです。…その書状には、
・忠実自身は、謀反に関わっていない事
・弟の頼長が持っていた「氏の長者」の権限を忠通に返す
と訴えたのです。

その結果、忠実は罪に問われる事を免れ、摂関家の領地の大半は没収されることなく忠通に相続される事になりました。

京都市の北部に位置する船岡山保元の乱の後、忠実はこの地にあった寺院で余生をを過ごします…この時、忠実は朝廷における様々な儀式、貴族の日常生活における作法や心構えなど、いわゆる有職故実を後世に残しました。

御堂入道殿(道長)が
節会の内弁(儀式の進行役)を
される時は
干し柿を浸した酒を召された
これは舎人(雑事の係り)を
呼ぶ時に声がよく通るように
するためである。(『富家語』より)

笏を持つ時の高さは
鼻の高さを基準に
するが決まりだが
実は上唇の高さを
基準にするのが正しいのだ。(『富家語』より)

忠実が手本として伝えようとしたのが道長など摂関家が全盛期を迎えていた頃の先人の教えです。

忠実は摂関家の危機を乗り切るとともに貴族社会のリーダーとしての儀式を受け継ぐ事で藤原氏が存在価値を失わないようにしたのです。

同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「忠実は、保元の乱の責めをなんとか逃げて位だけは保った…忠実というには道長以来がんばってきた摂関家が地に落ちてしまった…しかし、これを絶対絶やしてはいけないと今度は、摂政、関白といった知的財産を残します」

鎌倉時代以降は、有職故実、文化をよりどころに藤原氏摂関家を存続させた…冷泉家の歌会、蹴鞠、などの家がでてきます。…そして、それぞれ貴族たちは1000年、明治までなんとか生きながらえます…その頂点に摂関家はあったのです…そういう意味では忠実という人は先を見る目があったと考えます」