NHK BS歴史館
日本の転換点 京都炎上! 応仁の乱
~その時 ”日本人” が生まれた~
ただ騒ぐだけの戦争ですが
それが日本人の歴史を一変させた
一種の革命作用をなした
(作家 司馬遼太郎)
司会 渡辺真理
「日本史上、応仁の乱という戦の名前を知らないという人はいないほど有名ないくさなんですが、…
・誰と誰が何のために戦って
・どっちが勝って
・どうなったのか
…実は、私、わかっていないんです。」
明治大学准教授 清水克行
「… 応仁の乱をモデルにしてドラマとか小説もいくつかあるんですが、ヒット、成功していません。一般にあまりうけないのは、…
1.複雑である
2、感情移入しにくい
…これが日本人にうけない理由だと思います。…」
作家 童門冬二
「カウス状でとらえどころがない、へそがない時代。…僕は歴史物たくさん書いてきたけど応仁の乱は書いた事ない…逃げちゃうね。」
作家 小林恭二
「旗立てる奴もいないし、イデオロギーを言う奴もいない。応仁の乱は、純文学なんですよ、出てくる奴はみんな自分の事だけ考えている…で、やってるやつも、何でこんな事してるんだろうって、可愛い悩みをし始めるんです。」
応仁の乱は
なぜ起きた?
「いくら頭をひねっても応仁の乱が起きた理由がわからない」(『大乗院寺社雑日記』当時の僧侶の日記より)
(足利義政)
史上最悪の将軍とも言われる室町幕府8代将軍・足利義政、実は乱の発端は、彼の早すぎる隠居願望、なぜ将軍を止めたくなったのか?
・幕府は、将軍と有力な守護大名の合議制
・しかし、3代義満の時代をピークに将軍の権力がどんどん失墜
・6代将軍・義教は権威を取り戻そうと家臣を粛清、しかし彼は暗殺されます
…以後、守護大名の発言権は強くなり、義政の政治は大名たちに牛耳られていました。
寛正5(1464)年、29歳の義政は将軍の座を退く事を決意、そして準備を始めます。
・仏門に入っていた弟・義視を還俗させ将軍後継者に据えます…そして管領・細川勝元を義視の後見人にして自分は隠居しようと考えたのです。
・ところが、ほどなく義政の正室・富子が男子、義尚を出産。
義尚が本来なら将軍になるはず…ここから後継者争いが始まるのです。
せっかく授かった我が子を将軍に出来ないか、富子は有力守護・山名宗全に書状を送ります。
「若君のことは山名殿に託しました。たとえ夫・義政がどのようにな約束をしたにせよ、将軍家に生まれた我が子を仏門に入れるのは、母親として嘆かわしく辛い事です。」(『応仁記』)
(左・山名宗全 右・富子)
山名は幕府で細川に次ぐ有力者、富子は彼を後ろ盾にして息子を将軍にしようとしたのです。
そんな中、守護大名・畠山氏の家督争いから応仁の乱が始まります。…従兄同士が衝突したのです。…そして細川、山名にそれぞれ援軍を頼みます。
これに各地の守護大名が加勢して、東軍と西軍に分かれて戦を始めたのです。
東軍
細川勝元
畠山政長
本陣:室町・将軍邸
将軍家を全員、見方に引き入れます。
しかし、東軍内部では、
『義尚・富子』 VS. 『義視・細川勝元』
たまりかねた義視は姿をくらませます…これによって次期将軍は、富子の義尚、戦いは東軍の勝利で決着するはずでした。
ところが室町の将軍邸を逃げ出した義視を、西軍の山名宗全がかくまった事でますます事態は混迷、…山名は、義視を将軍に西幕府という新たな政権を打ち立てます。
これによって都には、二つの幕府が成立してしまったのです。
東京大学 桜井英治教授
「応仁の乱は、将軍家とまったく関係のないところから始まったんですよ。義視は西軍に転がり込んでから初めて、応仁の乱の東軍西軍と将軍家の家督争いが連動を開始するんです。」
それぞれの幕府は、見方を増やすために、実力のある人間を次々、守護に任命、戦局は益々混乱、京都には東西合わせて27万もの兵士が集まって来たのです。
しかし、当の将軍・義政は、戦を治める事もせず、庭作りや宴に興じていました。…義政の隠居宣言から11年も続く大乱が始まるとは誰も想像してはいませんでした。
乱の発端は、ダメ将軍・義政の隠居願望?!
異常事態!幕府が2つ!?
作家 小林恭二
「… 義政は、バカもののように言われてますが、かなり無茶を言われているわけですよ。将軍は非常に権力基盤は小さいですし、しかも年々悪くなっている。
その中で精いっぱい頑張って大名統制をした父親の6代将軍・義教が 『嘉吉の乱』(1441年)で暗殺されてしまう。…そんな中で義政が頑張る事は難しいですよ。
頑張り過ぎれば殺される、殺されてるんですから父親の義教は、…将軍なんてそんなもんなんです。…」
明治大学准教授 清水克行
「… 本来守護というのは特定の家の人間にしか任せられないはずなんです。でも少しでも見方を増やすために、守護の家来を一足飛びに守護に任命してしまったんです。
敵を倒すためには、なりふり構わず、民間人でも登用してしまうという節操のない発想で行ったわけです。
これより後の時代だったら、人気のある人、実力のある人がトップに立つ事は何の問題も無かったのですが、これより以前に時代にはあり得ない事です。
それを幕府自体がやってしまったのです… ”つまり下剋上を公認してしまった” …これは、絶対に幕府がやってはいけない自己否定だった…結果的に戦国時代の扉を開いてしまったのです。…」
作家 小林恭二
「しかし、斯波氏の家来から守護に指名されて、朝倉孝景のような奇跡的な名君も出てきます。自分の国に対して明確な法律を作り、発布して最も優れた領国統治をした。…つまり節操のなさが下から伸びてくる強い新芽が伸びてくることができたという面もあったのです。」
応仁の乱
ショック! 京都炎上
応仁の乱が始まるとすぐさま都は炎上、1月で3万件が消失します。…いったいどうして都は焼き尽くされてしまったのか。
その理由を当時の公家は、…「この度、初めて出来たれる足軽は超過したる悪党なり、洛中洛外の滅亡は彼らの所行なり」(『樵談治要』より)
京都を滅亡させた ”足軽” とはいったい何者?
打ち続く消耗戦によって兵力不足に悩んだ大名は傭兵を雇い始めます…それが足軽です。彼らは市街戦において火を放つという戦法をとります。
応仁の乱によって京都の神社仏閣は、ほぼ全て消失、足軽は戦に乗じてお寺や富裕層の民家に火を放ち、強奪を繰り返しました。
明治大学准教授 清水克行
「足軽、彼らはそこで掠奪をして一儲けできる成功報酬が目当てで食いっぱぐれてやってくる…お寺を焼くなど、通常考えられない事を平気でやるようなメンタリティーを持った人たちが現れてきた。」
作家 小林恭二
「… 当時、都では貨幣経済が浸透して金融業の酒屋が300件以上ありました。豪華な暮らしをする大金持ちも誕生、しかし応仁の乱直前の寛正の大飢饉で8万もの死体が加茂川に浮かんでもいたのです。…史上空前の格差社会が生まれていました。
それに反発した借金棒引きの徳政一揆が頻発、一揆のために近郊の村から集まった武装集団が足軽です。
彼ら足軽は、応仁の乱の主人公ですよ。歴史の神様が急に作り上げたようなもんで寺院を焼いてしまうなんて、その前の時代、後の時代にも見当たらない。
この異様なパワー、火を付けて回る、存在しているものは全部掠奪して回る…良い悪いの問題ではなく、ただこのおかげで ”巨大な既得権力が根こそぎやられた” という事はあります。
この破壊は、何百年に一回あるかどうかの破壊だったが、非常に価値のある破壊だったという事ですよ。…」
明治大学准教授 清水克行
「… 細川と山名は途中で戦争がやになっちゃうんです…お互いに相談して手打ちにしようと何度か話し合うんですが回りからやめさせられちゃうんです。
とうとう思いつめて山名宗全は切腹未遂を起こします。細川勝元は髷を切って出家しようとしてしまったりします…二人とも自暴自棄になって自分で始めた戦争なのに自分で制御できなくなってしまったんです。…」
応仁の乱
公家の大ピンチ!
史上空前の破壊、応仁の乱、当時最も被害を受けたのが当時の高級官僚、公家たちでした。…屋敷は丸焼け、政務・年中行事は中断、大失業時代の到来でした。
窮状に耐えかね、子供を養子に出してしまう名家も…「我が家の存続に執着はない、もはや断絶したようなものだ」(日野町広光)
しかし、この転落がその後の日本を変えて行く事になるのです。
職を失った公家の多くは全国に離散、各地方でカルチャー教室を開く事で生計を立て始めます。
・近江では、飛鳥井家が蹴鞠のコーチを
・周防山口ここでも飛鳥井家が源氏物語54帖の写本を残しています
…公家が地方に疎開した事で貴重な文化遺産が後世に伝わったのです。
冷泉家時雨亭文庫調査主任 藤本孝一さん
「飛鳥井家が藤原定家本を書写して地方で大事に保存されている」
そんな中、かつて関白も努めていた一条家は必死に公家の新たな道を切り開いてゆきます。…当時最高の知識人と言われた一条兼良、…彼の屋敷は戦乱のために全焼、3万5千刷あまりの書籍も灰になりました。
そして兼良は決心します。…「応仁の乱でことごとく文庫が失われた事は無念で仕方ない…しかし今こそ覚えている事を記すべき時なのだ」(『古今集序文』より)
彼は自らの記憶を掘り起こし、源氏物語や古今集などの入門書を執筆、知の財産を広く後世に伝えようと決意します。
それまで都人だけが読んでいた文学や歌の世界を誰もが楽しめるものとしたのです。…そして一条家は都を離れ、地方に根を下ろしてゆきます。
高知県四万十川の河口近くにある中村地区、応仁の乱勃発の翌年、兼良の息子はこの地に移住します。…中村の町を空から見てみると碁盤の目に道が通っています。
川の河口近くにある中村地区
京町通り、東山、鴨川など京都とそっくりな地名が今も残っています。一條神社は、かつて一条家の屋敷が建っていた場所、都の公家が来た事で人々の話言葉にも京言葉が残っています。
一條神社宮司 川村公彦さん
「京都は荒れ果てたが、ここは一条家が来て栄えたんです。逆にお陰さまみたいなところがありますね」
旧暦7月16日、四万十川の畔で代々繰り広げられてきた行事があります。それが大文字の送り火、都を追われた一条家を慰めるため、500年前から行われてきています。
戦禍によって職を失い路頭に迷った公家、しかし彼らがその知識や伝統を各地で伝えた事で都の文化は日本全国へ広がって行ったのです。
応仁の乱
驚きのエンディング
都で延々と続く終わりの見えない戦い、将軍・義政はなすすべもなく酒ばかり飲み現実から逃避して行きます。
文明5(1473)年、応仁の乱勃発から6年、…
3月、西軍:山名宗全 病死
5月、東軍:細川勝元 病死
…そして義政は将軍職を息子に譲り、隠居生活に入ってしまいます。
しかし都では小競り合いがとめどもなく繰り返されていました。応仁の乱はいったいいつ終わるのか…そこで立ちあがったのが義政の妻・富子でした。
幼い将軍に変わり、実質の政務を担った富子は、財テクで幕府の収入を増やします。…「富子は米商売のために米蔵を建てるよう仰せつけられた」(『大乗院寺社雑事記』抜粋)
乱による混乱で米が不足する中、富子は手元にある米を備蓄、それを市中の米取引に出したり、守護大名や公家に転売する事で現金を蓄えたのです。
文明9(1477)年、応仁の乱勃発から11年目、富子は和平工作に動きます。当時都に残る大名たちは、軍資金はおろか兵を撤退させる資金さえ無くしていました。
富子は敵方の畠山軍に接触し、国元に帰るよう説得、その帰国費用1000貫文を負担したのです。…2ヶ月後、畠山の軍は京を去ります。
それに続いて他の兵士もみな領国へ、…11年に及ぶ大乱が収束したのです。
後年、金の亡者や悪女と言われ、忌み嫌われてきた日野富子、泥沼の乱を終わらせた彼女の才覚を高く評価する学者も近代出てきています。
その頃、義政は、乱の終息の翌年、義政は東山に移り住みます。
(慈照寺・銀閣 東山文化)
そしてそれまでと全く違う美の世界を築きました…義政の書斎は、僅か四畳半、豪奢な宴を楽しむのではなく、小さな空間で茶の湯、連歌を楽しんだといいます。
この書院造という様式が日本住宅の基本になっているのです。
義政の生け花や日本庭園の世界を共に作りだしたのは、アミと呼ばれる身分の低い名匠たち、ここから、侘び寂びなど日本の美意識の原型が生まれたのです。
室町時代というのは、日本文化の基礎を築いた時代なのです。
延徳2(1490)年 足利義政 死去(享年55) …その6日後、富子は出家、晩年こう語っていました。
「義政がいてこその私です」(日野富子)
経済で戦を終わらせた富子と新たな日本文化を生み出した義政、実は史上最高のカップルかもしれません。
司会 渡辺真理
明治大学准教授 清水克行
作家 童門冬二
作家 小林恭二