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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

日本最強の怨霊 平将門 ~なぜそんなに祟(たた)るのか~

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NHK BS歴史館
日本最強の怨霊 平将門 ~なぜそんなに祟(たた)るのか~

東京都千代田区大手町、ビジネス街の一画に、一人のつわものをを祀った首塚があります。…その主とは、最強の怨霊、平将門、…。

今から1100年前の、天慶2(939)年、…将門は新皇を名乗り、関東8カ国を占領、日本古来史上最大の反乱が平将門の乱です。

天皇に弓引く逆賊とされ非業の死を遂げました…都に晒された首は故郷を目指し宙を飛び、墜落したのがこの場所、大手町、…以来、将門は祟り神として恐れられてきました。

1.東京ががれきの山になった関東大震災首塚のあった場所に大蔵省を建てようとすると、時の大臣や関係者が次々死亡、…祟りを恐れた政府は首塚を復活。

2.第2次大戦後、GHQがこの場所に駐車場を作ろうとするとブルドーザーが横転、作業員が死亡、…マッカーサー司令部でさえアンタッチャブルな最強の怨霊・将門…。

しかしその一方では、お参るする人は…
平将門は庶民の味方、自分の正義を貫き通した人…」
「いつも見守って下さるような感じがします」
…怨霊として恐れられる一方、将門は守り神として愛される存在でもあるのです。

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史上最悪の謀反!?
平将門の乱

乱の舞台は、坂東と呼ばれた関東8カ国、下総の国が将門の本拠地でした。…『将門記』 は5年に及ぶ乱の顛末を同時代に描いた軍記物語です。

将門記』 を元に乱のクライマックスをたどります。…坂東においてひときわ武芸に秀でていた将門、各地の紛争の調停を任され、治安を守る存在でした。

天慶2(939)年11月、おたずね者ををかばい、常陸の国軍と合戦、国府を占領した事で事態は一変…

私こそが天皇
名乗るにふさわしい

坂東を制圧し、やがては
京の都を手に入れるのだ。

将門は新皇を名乗り、瞬く間に坂東8カ国を制圧してしまいます。

この時、瀬戸内海でも藤原純友が蜂起、承兵・天慶の乱と呼ばれる東西二つの反乱は、平安貴族社会を根底から揺さぶります。

天慶3(940)年1月、将門を討つため、平貞盛藤原秀郷、率いる大軍が坂東に向かいます…そして2月、死闘の最中、突如風向きが変わり、 ”一閃の矢が将門に命中” …

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新皇宣言から僅か2ヶ月、あまりに突然の最後、『将門記』 にはこうあります。

一体誰が
知る事ができただろう

小さな過ちを
正さなかったがために
このような大害に
及ぶ事になろうとは

小さな過ちを正さなかった為に国家の謀反人になり、首を切られたというのです。将門の小さな過ちとは何だったんでしょうか?…。

作家 高橋源一郎
「将門というとNHK大河ドラマ風と雲と虹と』、…映画『帝都物語』 がありましたが…なんであんなに祟るのかよくわかりません。将門は謀反を起こしてやることやったんだから、祟るのは筋違い」

作家 童門冬二
「将門は、藤原氏摂関政治に異議申し立てをしたかった。だから志し半ばであって夢は満たされていないんです」

広島大学大学院 下向井龍彦
「人々が同情するから、守り神になり、祟り神になるのです」

 

将門の小さな過ちとは?
坂東最強の兵、平将門

小さな過ち、不幸な偶然…発端は、将門の死から遡る事5年、一族の複雑な遺産相続問題から始まります。

桓武天皇の高貴な血を引くという平氏一族、中でも将門の父・良持は北方の守りの要・鎮守府将軍を任された一族の出世頭です。

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父・良持が死んだ後、叔父たちが結託して将門の財産を奪おうとしたのです。

承平5(935)年2月、叔父たち連合軍が合戦を仕掛けます…戦は将門の予想外の完勝、敵対した一族の命を奪います。

承平6(936)年、朝廷より将門に召喚状は届きます…常陸の国主・源護が、この度の戦いで将門に息子を殺されたと訴え出たのです。

訴えられた将門は呼び出しに応じ朝廷に出頭、…「戦の原因は叔父たちで、やむなく応戦した」、…将門の弁明は認められ、軽い処分で済みました。…それどころか、その武勇が都に広まったのです。

承平7(937)年、それでも執拗に続く将門への攻撃、今度は将門が訴えた事で朝廷は、良兼、貞盛ら敵対勢力に追捕・官符を下しました。(追捕官符とは国家的犯罪者に対する逮捕状)

天慶2(939)年、反将門グループの中心、叔父・良兼の死により、平氏一族の内紛は事実上終息します。…しかしライバル貞盛をあと一歩のところで取り逃がした事が将門を思わぬ方向へ追い込んで行くのです。

 

坂東の調停者
平将門

平氏一族の内紛を武力で解決し、政治的にも一目おかれる存在になっていた将門、他国の紛争に介入する事で新たな騒動に巻き込まれていきます。

承平8(938)年2月、現在の東京都府中市にあった武蔵国国府、 ”武蔵国の争い”…。

争いの原因を作ったのは国司
№2 権守・興世王
№3 介・源経基
…の二人、私腹を肥やそうとトップの国主の赴任前に国内の巡視を目論みます。

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それに反対したのが在地の役人、『郡司・武蔵武芝』、…怒った二人は武芝の屋敷を襲撃、略奪行為に及びます。

国司の非道を聞きつけた将門は、自ら武蔵の国の調停をしようと乗り出します。

武蔵国に乗り込んだ将門は、酒の席を設け、興世王と武芝の間を取り持って一見落着のはず…。

ところがこの時、もう一人の国司源経基は恐れをなして隠れていた為、宴席にい合わせず、…その上、興世王と将門が結託して自分を討とうとしていると勘違いします。

その後、源経基は、都に逃げ、将門が謀反という偽りの告発をするのです。 

同じ頃、朝廷に戻ったライバル・貞盛も将門の悪行を訴え、結果、将門に事情を聞く為の召喚官符が出されました。

しかし自らの行動に自負がある将門は召喚官符を無視、藤原忠平に宛てた手紙に朝廷への憤りをにじませます。

私の資質は武芸です
将門に肩を並べられるものが
他にいるでしょうか

しかし朝廷は褒賞の御沙汰もなく
それどころか将門を糾弾する官符を
下されるありさ

恥辱であり
面目を失うものです。


自ら調停に代わって坂東の治安を守っているという将門の強烈なプライド…一方、その存在が厄介になって来た京都、この温度差は徐々に広がって行きます。

 

日本中が大混乱!
将門新皇宣言

天慶2(939)年11月、将門の運命を大きく揺るがす出来事が起こります…常陸の国のおたずね者、藤原玄明が助けを求めて将門の元に逃げて来たのです。

頼られると断れない将門は、玄明の罪を許してもらうため、常陸国に出向きます。…しかし国司軍とともに宿命のライバル・貞盛が待ち構えていました。

将門は話し合いに行ったのですが、国司、貞盛は有無を言わさず戦いを挑んできたのです。…売られた喧嘩は買う…将門圧勝、…。

国府に火をかけ、倉の鍵と国印を奪ってしまいます。…それは行政権の象徴、国家への反逆を意味します。

将門の参謀になっていた興世王は、こう囁きます… 「一国をとった罪は軽くない。いっそのこと坂東8カ国を手中に収めては」 …それに対し将門は、…

「…私は天皇の子孫である
国司を都へ追い出し

坂東8カ国を手に入れよう
やがては都を攻略するのだ。…」

天慶2(939)年12月、下野・上野を占領、…新しい天皇と名乗り、瞬く間に坂東8カ国を占領したのです。

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将門、常陸国府襲撃の報せに京の都は大混乱、…。更に12月26日、瀬戸内海の豪族・藤原純友も反朝廷の兵を挙げます。

東西で巻き起こった史上空前の反乱、ここで朝廷は驚くべき政治力を発揮するのです。…

①まず西の純友に関しては官位をチラつかせ味方に引き込みます
②天慶3(940)年正月、全国の寺社で将門討伐の祈祷
③破格の恩賞、将門を討ちとれば貴族とする

…貞盛を筆頭に藤原秀郷らが集まります。こうして将門追討の包囲網が出来上がったのです。

 

最後の戦い
将門 VS. 最強討伐軍

天慶3(940)年2月14日、北山(茨城県坂東市)が決戦の地となります…。

将門軍400 VS. 討伐軍3000 …圧倒的な兵力差、実は将門は、兵士たちをそれぞれの農地に帰してしまっていたのです。

現在の暦では3月に当たります…農繁期、農業の準備をしなければならない時期だったんです。老練な藤原秀郷はこの時を待っていたのです。

圧倒的な不利な状況で戦いの火ぶたが切られます…将門軍に死力を尽くした総攻撃に討伐軍は逃げ惑います。

将門軍優勢かと思われた時、一瞬将門の馬が足を止めます。…その時でした一閃の矢が将門に命中、新皇宣言から僅か2ヶ月、将門の乱はあっけなく終わったのです。

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逆賊将門の首は京に送られ、東の市で晒されました…伝説では故郷の身体を目指して飛び去った首は、力尽き現在首塚のある場所に落ちたとされました。

一方、乱の制圧後、討伐軍の功労者には約束通り恩賞が与えられました。

藤原秀郷従四位下
平貞盛従五位下

平貞盛の子孫に平清盛が現れます。

そして将門の謀反を訴えた源常基は鎌倉幕府を築いた、源頼朝へと続くのです。

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皮肉な事に将門を倒した者たちが恩賞の官位を足がかりに武士の世を築いていったのです。

茨城県坂東市延命院、ここに将門の胴塚があります…家臣が将門の遺体を埋葬し、その目印に寿命の長いカヤの木を植えたとされます。

1000年の歳月を超え、最強の怨霊として恐れられ、愛されて続けてきた将門、樹齢1000年の木の下でどんな夢を見ているのでしょう。

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(延命院 平将門の胴塚)

 

作家 高橋源一郎
「… 将門は普通の人に近いですよね。…都の出世争いに負けて地元に戻って、真面目である。

しかもやたらに運動神経がいい青年が皆の期待を背負って、どんどん祭り上げられていって、皆の期待に応えて振舞っているうちに気がついたら謀反をやっていた。

特別な何かを怨むというよりも、なんで自分はこうなってしまったのか…不条理であり、無情な…そういう事で祟ったなら分かりますね。…」

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司会 渡辺真理
作家 高橋源一郎
作家 童門冬二
広島大学大学院 下向井龍彦