NHK BS歴史館
東北不屈の英雄アテルイ 古代東北の底力
794ウグイス平安京…西暦794年、1200年前、日本の都が現在の京都の町に定まった記念すべき年でした。
この一大国家プロジェクトを成し遂げたのが時の権力者・桓武天皇です。…しかし、その桓武天皇でも打ち負かす事が出来なかった強力なリーダーが東北の地にいました。
その名は、阿弖流為(アテルイ)…BS時代劇『火怨・北の英雄 アテルイ伝』の中で大沢たかお演じる東北不屈の英雄です。
アテルイが率いるのは、太古から東北地方で生きてきた蝦夷(エミシ)といわれる民、独自の暮らしと文化を大切にする人々でした。
桓武天皇は東北地方の平定のため、20年に3度にも渡って東北に大軍を送り込みます。しかし、アレルイたちの強烈な抵抗にあって一度も勝利を上げる事が出来なかったのです。
このアテルイという人物の存在は、古い書物の中に僅か数行登場するだけ、その実像は全くの謎とされています。
謎の英雄、アテルイ…1200年前の壮絶な蝦夷の戦い…最近の発掘によってアテルイの強さの秘密が明らかに…強大な朝廷軍に敢然と立ち向かった古代東北の英雄・アテルイ、その知られざる実像に迫ります。
作家 高橋克彦
「… 僕の子供の頃(50年前)は、アテルイという人物は国に反逆をしたという事でアテルイを語る事はタブーでした。
学校でも先生たちはアレルイの話は一切しない。知らないのではなく知っていて教えてくれない…むしろ岩手県、東北の恥ずべき人間だとね。
僕も長くそう思い込んでいました…しかし郷土の歴史を調べて行くと、何か変だと気付きました。歴史は勝者の物だから、裏に隠された真実があると考えたのです。
蝦夷(エミシ)にしてみれば、全く罪はなく、朝廷の方が一方的に攻め込んでくる戦、…それに対して20年頑張ったんです。…」
不屈の英雄・アテルイ
なぜ朝廷と古代東北は戦った?
中央政権の東北侵攻に対して敢然と戦った蝦夷のリーダー・アテルイ、朝廷軍との戦いは、20年で3回にも及びました。…しかしアレルイたちは侵略を許さなかった。
そもそも東北の蝦夷(エミシ)たちは、中央の朝廷と戦わねばならなかったのでしょうか…。
7世紀半ば蝦夷たちは朝廷の支配を受け入れてなかったのです。そこで朝廷軍は一方的に領土拡大の名目で各地に ”城柵” と呼ばれる周囲を柵で囲った拠点を作ります。
そして城柵の回りに全国から移民を集め、徐々に勢力を拡大知るという作戦をとりました。…城柵建設と共に中央政権の力は北上を続け、8世紀の終わりには現在の宮城県北部まで到達します。
朝廷支配下の出羽国、陸奥国も成立、…しかしアテルイたち多くの蝦夷(エミシ)たちは未だ中央政権の支配下には組み込まれていませんでした。
朝廷側は、仙台・多賀城、ここを拠点として抵抗する蝦夷の支配を目指します。政府の役人、軍隊が常駐、西の大宰府と並んで 『遠の朝廷』 とも言われた辺境支配の最重要拠点でした。
780年、伊治公呰麻呂の乱が勃発、多賀城は蝦夷たちに焼き払われます…業を煮やした桓武天皇は5万の軍勢を東北へ派兵、…それを迎え討った男こそアテルイでした。
古代東北 不屈の英雄
アレルイ VS. 朝廷 第1ラウンド
789年 巣伏の戦いがアテルイのデビュー戦、…
朝廷軍4000人 × アテルイ軍1000人
…数で劣るアテルイ軍は地の利、地形を巧みに利用してゲリラ戦で朝廷軍を圧倒、追い返すのです。
秋田大学 名誉教授 新野直吉 先生
「官軍、政府が派遣する軍隊は、徴兵された農民兵です。何万人いても専門家じゃない…一人一人が武闘する事になったら能力はほとんどない。
ところがアレルイ軍は、縄文時代以来持っていた採集経済なんです…いつも獣、イノシシ、熊あたりが一番強い…そういうものと毎日戦っているのだから、弓を射る、槍で突くなど力が朝廷軍の農民兵とは全く違うのです。」
かくしてアテルイのデビュー戦は、蝦夷側の大勝利で終わったのです。
古代東北 不屈の英雄
アテルイ VS. 朝廷 第2ラウンド
794年、桓武天皇は再び大軍を送り込みます…その数10万、前回の2倍の規模で東北に乗り込みます。
しかし万全の態勢で臨んだ、2回目の蝦夷平定も決定的な勝利を得る事無く、退散させられます…アテルイいまだ健在!…東北遠征は今回も失敗に終わったのです。
運命の最終決戦
坂上田村麻呂 VS. アテルイ
797年、桓武天皇は最後の戦いに打って出ます。東北制圧の切り札としてある人物の派遣を気まました。…坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命された武人です。
実は田村麻呂の計画は、それまでの戦いとは全く違い、5年にも渡る周到でしたたかなものでした。
田村麻呂は東北各地に数多くの寺を建立しています。仏教の教えによって蝦夷の同化政策を行おうとしていたのです。
更に田村麻呂は、最先端の農業技術を教えるなど蝦夷たちへの懐柔工作を推し進めました。やがて今までアテルイに協力してきた蝦夷の族長たちが徐々に戦線を離脱、アテルイは孤立していったのです。
そして田村麻呂は決定的な手を打ちます…巨大な胆沢城の建設です。アテルイの治めていた地域の目の前に築いた城は、…
・縦横700m
・役人兵士2000人
…国家権力と一部族、アレルイは圧倒的な力の差を見せつけられたのです。…これを契機に長らく続いた蝦夷の戦いは、意外な結末を見せます。
それまでのアテルイからは予想も出来ない驚きの行動でした…突然、アテルイと副将モレは500人の兵を連れ、田村麻呂の前に現れ降伏を宣言したのです。
アテルイ降伏の報せを聞いた桓武天皇は大いに喜び、蝦夷平定を祝う儀式を盛大に催します。…そしてアテルイと副将モレは都へと護送されました。
アテルイと直接退治した坂上田村麻呂は、アテルイたちの助命を願い出たといいます。…しかし都の貴族たちは、その意見を聞き入れようとしません。
「野獣の心を持つ者は、いつ背くかわからない、殺してしまえ」(『日本紀略』より)
アテルイの処刑は、都を離れた河内の国、現在の大阪府枚方市でひっそりと行われました…その場所には現在、首塚が作られています。
アテルイ・モレの塚保存会会長 中野一雄さん
「小さい頃は、”ここに入ってはいけない” と言われていました。工事の時に重機が故障したり、事故があったり、…あんまりここの樹木は触りたくないと聞いたこともあります」
802年、アテルイとモレ処刑…20年続いた蝦夷の戦いは、二人の命と引き換えに幕を閉じたのです。
運命の最終決戦
なぜアテルイは降伏した?
司会 渡辺真理
「僅かな軍で朝廷の大軍を退けてきたアレルイ、…熊谷先生、突然降伏してきたという事はわかっているのですか」
東北学院大学 教授 熊谷公男
「… 実はこの前後の一番基本となる歴史書 『日本後紀』 が無くなってしまってるのです。具体的な戦闘状況とかほとんどわかりません…非常に残念です。
田村麻呂とアレルイが正面から激突したと思われるんですが、そこがまったくわからないのです。
ただ戦いの前年、前々年に非常に頻繁に、この律令国家は東北地方に対して、いろんなアクションを起こしています。
具体的には、懐柔策で物を与える、ある蝦夷の族長には都まで招待するなどしています。切り崩し工作があった事は分かっています。
それと坂上田村麻呂が助命嘆願したという史料も残っています。アテルイに更に北の蝦夷たちを説得させようとしたのですが朝廷の貴族が納得しなかったのです。…」
1200年前に強大な朝廷軍に
敢然と立ち向かった
アテルイたち蝦夷の人々
その記憶は古代東北の底力として
今も私たちに強く訴えかけています。
司会 渡辺真理
作家 高橋克彦
俳優 苅谷俊介
東北学院大学 教授 熊谷公男