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武者の世になりける~保元・平治の乱 源義朝の戦い~

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NHK その時歴史が動いた

武者の世になりける
~保元・平治の乱 源義朝の戦い~
平安時代の京、雅な宮廷文化が花開いた貴族の都でした…今から850年前、その貴族の世を覆す事件が起きました。…保元・平治の乱、貴族の権力争いに武士の軍事力が持ち込まれた事で国の政治が決まった大きな戦乱です。

この戦いの中心、台風の目となったのが源氏の棟梁・源義朝です…義朝は少年時代を都から離れた関東で過ごします…そこで学んだのが東国武士の実力が全てという生き方でした。

ところがやがて都に出た義朝は、“武士は貴族の僕”…使用人でしかないという現実を思い知らされます…武士は貴族に使われる立場から抜け出せないのか…義朝は持ち前の武力を発揮して貴族社会でのし上がろうとします。

しかしそうした義朝を貴族は都合よく利用します…そして戦いの果てに義朝はついに使い捨てられる時を迎えるのです。

自分の周りは全て敵、勝ち目のない戦いに義朝は討って出ます…迎え撃つは最大の武士集団を持つ平清盛、戦乱の果て実力が全てという義朝の誇りは時代を大きく変えてゆきます。

その時歴史が動いた…今回は武士を表舞台にのし上げる魁となった源義朝、その戦いの生涯を解説します。


幼き日の源義朝

保安4(1123)年、平安時代末の京都、源義朝は源氏の棟梁・源為義の長男として生まれます…子どもの日のある日、義朝は父・為義に呼び出されます。

義朝に為義は伝えます…「東国へ行け」都育ちの義朝は親元を離れ、都の遥か東、関東行きを命じられたのです。…幼い我が子に出した非情な命令、そこには源氏の将来がかかっていました。

平安時代、源氏をはじめとする武士たちは天皇や貴族を守る家来に過ぎませんでした…屋敷の中に座る貴族に対して外に控える武士の姿、…「仕える=さぶらう」が変化した言葉が“さむらい”です。

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貴族にとって侍、すなわち武士は自由に使うことの出来る使用人のような存在でした…しかもこの頃の現時は同じ武士のライバル平氏に比べ、貴族から遥かに低く見られていました。

貴族や平氏の力が及びにくいところで源氏の勢力を伸ばし都での地位を高めたい…そうした父・為義の思惑で義朝は東国へ送り出されることになりました。


源義朝
東国に生きる

関東にやって来た義朝はその光景に目を見張ります…雅な都とは異なる世界、土地の支配を巡る武士同士の諍いが日常茶飯事でした。

戦いに明け暮れる東国武士を現した言葉です…「戦では親が討たれようが子が討たれようがその屍を乗り越えて戦い続ける」(『平家物語』より)

土地を守るためなら徹底的に武力で競い合う…義朝が見た東国武士は、貴族に仕える都の武士とは全く違う生き方をしていました。…父に託された思いを胸に秘めた義朝はこうした生き方を学びながら時が来るのを待ち続けます。

天養(1144)元年9月、10年程が過ぎ現在の神奈川県藤沢にあった土地の税収を巡ってその土地の武士と役人の間で言い争いが起こります。…義朝にとって絶好の機会、この言い争いに介入し、武力で解決すれば自分の勢力を高めることが出来るのではないか…。

義朝は役人と対立している地元の武士たちに自らの軍勢を攻め込ませます…この軍勢は源氏の名にあやかろうと義朝の元に集まって来た武士たちです。

突然の奇襲をかけた義朝の軍勢は、地元の武士が蓄えていた作物を奪いとり、住民を襲い、殺し、狼藉を働きます。…そして地元の武士の勢力をその土地から追い出したのです。

一旦敵と見なしたからには相手を屈服させるまで徹底的にやる…それが義朝が東国で学んだことでした。

義朝の行為は非合法であるとして義朝がその土地を支配する事は認められませんでした。しかし義朝の豪腕ぶりは鳴り響き敵方の武将達まで家来として従うことになります。

この戦をきっかけに義朝は次々と武士同士の争いに介入しては彼らを配下にする事に成功、…義朝は関東で1、2を争う武将に成長を遂げたのです。


源義朝
都への帰還

東国に源義朝あり、その評判は都にまで伝わり義朝は天皇の一族から配下に加わるように命じられました。

幼い頃から東国の荒波にもまれ力をつけた義朝は、20代半ばで晴れて都に戻ってきました…それは源義朝平清盛が激突する15年前のことでした。

久安3(1147)年、都の武士として働き始めた義朝の人生は、まさに前途洋洋、官位も授かり嫡男も生まれます…それが頼朝です。


源義朝
保元の乱

保元元(1156)年7月、ところが都に暗雲が垂れ込めます…後白河天皇とその兄・崇徳上皇が権力争いを始め朝廷を二分する騒動に発展します。

この問題を解決するために貴族たちが利用しようとしたのが武士の力です…それぞれが従える武士を動員し、対立する勢力を倒そうと考えたのです。…この動きは源氏に分裂の危機を招きます。

後白河天皇方:源義朝
崇徳上皇方:父・為義、他の兄弟
とそれぞれ違う側についたのです…義朝は親兄弟の殆どを敵に回すことになったのです。

両軍の緊張が高まった7月10日の夜、義朝がついた後白河天皇側で軍議が開かれます…武士の中心は義朝と平清盛です。

清盛は若くして朝廷の役職を歴任し、官位も義朝より遥かに上でした…この時も天皇方で一番多い軍勢を率いていました…二人は貴族たちから作戦を求められます。

義朝は平清盛に先んじて伸べます…「たやすく敵を屈服させるには夜討ちにまさるものはありません」(『保元物語』より)

しかし貴族たちは義朝の作戦を認めようとしません「夜討ちは姑息な戦法である、国の行く末を決める皇族同士の戦いには相応しくないもの」…と考えたからでした。

このような建前を重んじようとする貴族から別の有効な作戦が出るわけもなく、ただ時間だけが過ぎてゆきます。

たまりかねた義朝が叫びます…「いつまでぐずぐずしているのいですか、戦の道とはこんなものではない」(『愚管抄』より)

貴族たちは他に打つ手も見当たらず、ようやく義朝の意見を取り上げます…義朝の気持ちは高ぶります…東国で培った力を発揮し、都で更なる高みを目指す好機が訪れたのです。

天皇の命で敵を討ち果たすことは我が源氏の面目である」(源義朝

やがて後白河天皇方の第1陣600騎が出陣、…保元の乱の幕が切って落とされました。…軍勢は夜の闇の中、3手に分かれて崇徳上皇の陣営を目指します。

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義朝は中央の道を進みます…もし敵が夜討ちに気付けば最も危険な進路でした…しかし義朝の狙いは的中、上皇方の軍隊と出くわすことなく本陣に迫ります。

不意を衝かれた上皇方は慌てふためきます…この夜討ちに続き義朝はたたみ掛けるように次の命令を出します。

火攻めです…火攻めは東国の戦では当たり前の戦法です。しかし皇族が籠もる館に火を放つ事など都の常識ではありえないことでした。…義朝はこちらが有利なうちに徹底的に相手を叩き一気に戦の勝敗を決しようと考えたのです。

火は西からの強風に煽られ、あっという間に燃え広がります…これが決め手になりました。崇徳上皇や主だった武士たちは敗走、後白河天皇側の勝利です。

都の政治の行方を武士の力が動かした…この前代未聞の事件はこう語られました…「武者の世になりにけるなり」(『愚管抄』より)

 

源義朝
武士の屈辱

勝利した天皇方でその日のうちに論功行賞が行われました…戦いを決した最大の功労者、義朝に与えられた官位は左馬頭、朝廷の馬を管理する役所の長官です。…同じ武士でも清盛には豊かな播磨の国が与えられました。

さて政治の実権を握る重要な役職に就いたのは、戦場にも出ずただ成り行きを眺めていた貴族たち、義朝はいくら手柄を立てたところで貴族に並び立つことは出来ない自分の立場を思い知ります。

更に義朝に残酷な命令が下ります…「敵方に着いた父・源為義と兄弟たちは皆、義朝たちの手で処刑せよ」でした…この時、同じ敵方でも貴族は一人も処刑の対象になっていません。

父や兄弟の助命を訴えた義朝でしたが認められません…義朝は源氏再興の期待を自分に託した父を始め、一族の多くの命を奪うことになりました。

命がけの戦いの結果、義朝が得たものは“親殺し”の汚名と武士のおかれた立場の屈辱感だけでした。…それは源義朝平清盛が激突する3年前のことでした。


源義朝ついに起つ!!

保元の乱から3年、政権を握っていたのは戦に勝利した後白河天皇方の貴族たちでした…その中心は天皇の側近・藤原信西…政治は一部の貴族で取り仕切るというのは戦いの前と何も変わっていませんでした。

こうした中、義朝は一計を案じます…「貴族が権力を独占する仕組みに楔を打ち込むには、まず藤原信西を倒さねばならない」…義朝が目を付けたのが貴族の間に入り始めた亀裂でした。

一族で権力を独占する藤原信西に対して他の貴族から不満の声が上がっていたのです…義朝は動き始めます。信西に不満を持つ貴族たちに近づいて信西打倒の計画を持ちかけます。

貴族たちにとってこの計画は自らの手を汚すことなく政敵・藤原信西を葬り去る絶好の機会でした。…義朝と手を組むことで話しがまとまります。

ただ一つ懸念された事、それはライバル・平清盛の存在です。…清盛は信西と親戚であり、その強大な軍事力は敵に回すと面倒な事になります。…清盛が都にいる間に事を起すのは危険、…義朝は計画実行の機会をじっと待ち続けます。

平治元(1159)年12月4日、清盛は熊野詣に出掛けるため都を留守にします…『今しかない!』…義朝は挙兵を決意します。

平治元(1159)年12月9日深夜、義朝の軍勢は信西一族の屋敷に奇襲をかけます…平治の乱の始まりです…義朝の命により屋敷に火を放ち攻め込む兵たち、その戦いぶりは残虐を極めました。

「所々より火をかけたれば猛火虚空に満ち、暴風煙を上ぐ、公卿、殿上人、局の女房たち、いずれも信西が一族にてぞあるらんとて射伏、斬り殺しせり」(『平家物語』より)

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義朝はやがて信西を討ち果たし、その目的を達しました…ところが信西を討った後も義朝は止まりません…上皇天皇を内裏に軟禁し、自分の監視下に置きました。…義朝はまるで都を武力で制圧したかのよう振舞ったのです。

義朝は武士が実力を発揮すれば貴族を押さえ込み都の実権を握ることさえ出来ると世に示したのです。

数日後、義朝に重大な報せがもたらされます…騒動を知った平清盛が熊野詣を取りやめて都に戻ってくるというのです。…義朝の家来は清盛を待ち伏せて都に戻る前に討ち取るよう進言します。

しかし義朝は清盛を討とうとしません…義朝は天皇上皇を取り込んだ事でもはや都では敵なしと安心しきっていました。…その裏で清盛の帰りを息を潜めて待つ人たちがいました…つい先日、信西を討とうと協力した貴族たちです。

政敵・信西を倒した今、粗暴な義朝はすでに貴族たちに利用価値はなく、むしろ邪魔になっていました。

平治元年(1159)12月25日夜、義朝が町に出た隙に貴族たちは天皇上皇が軟禁されている内裏を訪れます。…そして天皇たちを平清盛の屋敷のある六波羅へと移します。…天皇を取り戻した貴族たちは、ただちに都に戻ったばかりの平清盛に命じます…「逆賊・源義朝を討伐せよ」…。

やがて義朝が内裏を訪れた時には、もはや手遅れでした…義朝は全てを悟ります。…貴族を利用して力を得たつもりが実は貴族の巧みな謀に踊らされていたことを…。

天皇の敵になる事を恐れた殆どの武士や貴族は、義朝の元を離れ清盛側へ寝返ります。…戦の決意を固める義朝、その傍らには13歳になる我が子・頼朝の姿がありました。

これまで己の運命は己の力で切り開いて来たではないか…義朝は息子・頼朝と討って出ます。


そしてその時…

平治元(1159)年12月6日午前10時、内裏の東側で源義朝平清盛の軍勢が激突、平治の乱の第二幕、源平の直接対決が始まります。

大軍で攻め寄せる清盛勢に対し、数に劣る義朝勢、しかしその決死の奮闘振りは清盛勢の先鋒を押し返し退却させます。

義朝はこれを追撃…「一度も清盛を攻めずに死ぬことができようか」(義朝)、義朝は清盛が陣取る六波羅へ攻め寄せます。

群がる敵を打ち払い目指す清盛の本陣まであと一歩、…しかし兵の数で勝る清盛勢は次々と新手を繰り出します。…清盛勢の圧倒的な戦力の前に見方は次第に傷つき倒れてゆきます。

残った手勢は僅か10騎余り、義朝は東国で再起を図るよう家臣たちに説得され戦いを断念、無念の思いで都を脱出します。…数日後、東国へと向かう義朝を悲劇が襲います。

褒美に目がくらんだ家臣が入浴中の義朝に斬りかかりました…義朝はまともな抵抗もできずに命を落とします。

平治2(1160)年1月3日 源義朝 落命(享年38)

丸腰で襲われた義朝は、こう嘆いたといわれます…「木太刀の一振りもあればこう易々とは討たれないものを」…。

都では平治の乱に勝利した平清盛が武力を背景に急速に勢力を伸ばし、やがて貴族に成り代わり政権を握ります…ついに平家の時代がやってきた…武士の時代の幕開けです。

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一方、義朝の子・頼朝は逃亡中に捕らえられ都から遠く離れた地に流されました…その場所は、“東国” かつて義朝が源氏再興の夢を追いかけた地でした…源頼朝が東国武士の力をまとめ、平氏打倒の兵を挙げるのは、20年余り後のことです。