THEナンバー2
歴史を動かした陰の主役たち 平重盛
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
平安時代末期、平家一門が栄華を極めながらも源氏に敗れ、滅亡する様を描いた『平家物語』…この世の全ては移り変わりゆく運命にあり、栄えたものもいつかは必ず滅びるという無常観は、日本人の美意識の原点となり、時代を超えて愛されてきました。
平家物語の英雄と言えば、源義経、そして最大の悪役を務めるのが平清盛である。…非道な独裁政治を行い、神仏に背き、その酬いで一族を破滅に導いたものとされ、清盛は物語の中で徹底的に避難されている。
しかし、平家の人間、全てが悪人として描かれたわけではなかった…横暴な清盛を度々諌める平家の良心といえる人物も登場する。…清盛の長男にして№2、平重盛(1138-1179)。
重盛が頭領として一門を率いていれば平家は滅びなかったかもしれない…後世、万里小路藤房、楠正成、と並ぶ日本三忠臣の一人とされていた平重盛…誰よりも国家を思い平家一門を憂い、時代に裏切られた悲劇の人物を解説します。
作家 井沢元彦
『平安時代、貴族たちは、軍隊をつぶしてしまったのです「あんな切ったはったの事は嫌だ」という事で軍事を放棄してしまった。
軍事を放棄すれば平和になるかと言ったら実は、平安後期は治安を守る機関がないので全国が乱れたのです…そこを守っていたのが武士団だったのです。
現代で言うと軍隊、警察代わりに警備会社に国の治安、管理、警察業務を請け負わせたてた…これが平安末期の実態です。
平家繁栄の道を付けたのは、清盛の父・忠盛です…忠盛は貿易業者として、農業経営者として有り余る財力を背景として武力も持っていますから朝廷が平忠盛の率いる独立武装集団を無視できなくなるのです。
それならトップである清盛の父・忠盛を取り込もうと…公家にして政治の一翼を担わせようとしたのです…それが平安から鎌倉への時代の流れです。』
保元の乱、平時の乱を経て…
保元元(1156)年、朝廷内で後継者争いが起きる…崇徳上皇と後白河天皇は、どちらも自分の息子を次の天皇にしようと対立、ついには互いが招集した武士団を戦わせる事で決着をつける事となる。
保元の乱だ…清盛と同じ、後白河陣営には源氏の実力者、源義朝がいたが敵対する崇徳陣営にも源氏随一の戦上手、源為朝がいた。
後白河天皇陣営:平清盛、兄・源義朝
崇徳上皇陣営:清盛の伯父・平忠正、弟・源為朝
平氏と源氏が両軍に分かれ親戚同士で戦ったのである。…清盛はまだ二十歳に満たない長男・重盛を連れて戦いに望む、重盛は武勇に優れ、戦に欠かせない存在となっていた。
保元の乱は、源義朝の活躍により、後白河陣営の圧勝に終わるのです。…その結果、清盛は播磨守に任命され、重盛も従五位下に昇進、しかし最大の功労者、源義朝は納得のゆく見返りを得る事はできなかったのです。
2年後、後白河は息子の二条天皇に譲位する…後白河の狙いは上皇となって院政を敷く事だった…だがそこに大きな火種が燻っていたのです。
平治元(1159)年、清盛が重盛らと熊野参詣へ向かい京都を留守にした隙に後白河と二条天皇が拉致された…平時の乱の勃発である。
首謀者の一人は、あの源義朝だった…この戦いは、初めての平家、源氏の全面対決となった…清盛は兵を集めてから都に戻るもすぐに戦うわけにはいかなかった。
天皇たちの身柄が敵方にあるからには、こちらは賊軍、まずは官軍となる必要があった。…清盛は降伏したと見せかける作戦で二条天皇と後白河上皇を奪還、朝廷と味方になる事に成功すると敵方、源氏討伐の勅許を得る。
こうして勢いを得た重盛は、義朝の息子・源義平と激戦をなど大活躍、清盛の戦略と重盛の戦闘力、親子の才能が上手くかみ合い劇的な勝利を生んだ。
これにより、平家勢力は源氏を圧倒し後白河と平家による同盟による政治が始まった…一方、源氏の頭領・義朝は戦犯となり一族郎党斬首に処された。
当然、義朝の息子たちも全員処刑されるはずだったが13歳の少年を処刑する事にまったをかけた者がいた…清盛の継母・池禅尼だった。
「あの子は私の死んだ息子に似ているから殺さないで欲しい」…と頼まれた清盛はついに折れた…少年の処分は島流しに変更され、腹違いの2歳の弟は鞍馬寺に預けられる事になる。
この兄弟を救った事が平家にとって最大の失敗だった…この二人こそ、後に平家を滅ぼすことになる源頼朝、源義経だったのです。
作家 井沢元彦
『政治の世界で勝つには外交、謀略ですが戦争に勝たなきゃ話にならないのです…清盛って人は、イマイチ戦争が苦手だったみたいなんです…あまり戦闘にたっていないのです…その分、重盛がカバーしてます。
だから外交・謀略は清盛が担当、軍事行動は優秀な指揮官である重盛が担当していたのです。
頼朝、義経を殺さなかったのは、…継母に頼まれれば頼朝を助け、義経に関しては絶世の美女・母親の常盤御前に泣きつかれてあっさり許す…つまり、清盛は女性に弱かったって事ですね…しかしこれが平家最大の失敗だったのです。』
ライバル源氏がいなくなり
いよいよ平家の栄華がやってくる
清盛、重盛ら平氏は、凄まじい速さで出世階段を駆け上って行った…仁安2(1167)年、清盛、太政大臣に就任、日本史上初めて武士が政界№1についた瞬間だった。
清盛は、京の平家一門の統率を重盛に任せると出家して福原(兵庫県)に移る…清盛は更なる野望へ目を向けていた。
福原には重要湾港、大輪田泊があった…清盛の父・忠盛の代から平家は日宋貿易で富を得てきたが清盛は貿易を拡大する事で平家をより強くし、同時に平家の独自性を打ち出していこうと考えていた。
その為にも都の近くに居を構える事と後白河という王朝勢力と距離を置く必要があったのだ…後白河も出家し、法皇となって院政を続けていたが危機感をおぼえていた…政権維持の為には武力をもつ平家の力は確かに必要、だがもはや強くなりすぎている。
「このままでは自分が無力化されてしまうのではないか」と不安がよぎるのは当然である。
平家一門の勢いは止まらず30人足らずの公卿の内、16人が平家という異常な独占状態となって行く…理解関係のみでつながっていた清盛と後白河には、いつ表面化してもおかしくない対立が生まれて行く。
それでも衝突せずに済んだのは、両方から信頼されていた人物、重盛が二人の仲を取り持っていたからであった。
作家 井沢元彦
『この時代をわかるために院政を解説します…平安時代の中頃から天皇家は藤原氏に権力を奪われていたのです…藤原氏が関白、摂政になり天皇をないがしろにしていたのです。
藤原氏から天皇家に権力を奪い返すために、天皇をお飾りにしちゃえ…お父さんである人が上皇になって政府組織の外から国を動かそうとするのが院政です。
この時代は、上皇もいて天皇もいて二重権力ですが上皇の方が強いのです。
清盛は、かつての藤原氏のようになろうと清盛は考えていました…清盛の娘・平徳子こと建礼門院を高倉天皇に嫁がせて生まれた子どもを安徳天皇にしています。
天皇が成長すれば関白になる…太政大臣まではいってますが関白にならないと藤原氏のやり方を受け継いだわけにはなりませんから。
しかし、後白河は、「せっかく藤原氏を抑えて自分が院政を敷いているのに今度は平氏かよ」という感じだったのです。…平氏を第二の藤原氏にしては絶対にいかんと後白河は思っていたのです。』
№2 重盛の悲劇
後白河上皇、父・清盛に挟まれて…
時代は、理想も利害すらも一致しない清盛と後白河の間を確実に引き裂いていった…そんな中、二人の調整役をする重盛だけが後白河の信頼を保っているかのように見えた。
承安4(1174)年、重盛は右近衛大将に任命される、軍隊の最高司令官である…しかしこれは後白河の作戦、…後白河は裏で平家打倒の陰謀を進めていたのです。
後白河は鹿ヶ谷の山荘で平家打倒の謀議を重ねていた…しかし密告者が出て清盛にばれてしまった…激怒した清盛は、関係者を検挙、後白河法皇までも幽閉しようとする。
重盛は命をかけて後白河の幽閉に反対し、何とか幽閉を踏みとどまらせる…だが重盛はこの事件をきっかけに父・清盛の信用を失ってしまう。
これによって重盛の政治的地位と平家頭領としての力が急落すると重盛個人の力でまとめられていた軍隊が乱れ、平家よりの武士と後白河よりの武士の内部抗争が勃発、清盛と後白河の仲は緊迫し、一触即発…だが肝心の重盛は既に機能しなくなっていた。
重盛倒れる
その時、後白河は…
治承(1179)3年3月、重盛は熊野に参詣し、平家一門の安泰をを祈る…帰京からほどなくして病に倒れた…そして、平重盛 死去 享年42
後世に日本三忠臣と称されながらも権謀術策の二人の争いに振り回された悲運の人生であった。
重盛の死後すぐに後白河は、重盛の所領・越前を没収し自分のものとしてしまう…「生前、重盛は裏切られてまで後白河をかばったというのに」…清盛の怒りは頂点に達した。
そしてこうなった清盛を止める事が出来るものはこの世にいなかった…清盛は、後白河法皇を幽閉、ついに完全独裁体制となる。
ここから清盛の暴走が始まった…強引な福原遷都や東大寺の焼き打ちなど、平家はみるみるうちに全国の嫌われ者になって行く…一門崩壊の序曲だった。
作家 井沢元彦
『もし平家がそのまま世代交代して重盛が№1になっていたら…少なくとも源氏が平家を一辺に滅ぼしてしまったという事はなかったでしょう。
源氏の強みは下級の武士の支持を得ている、だから最終的には源氏が勝った可能性が高いんですが…あっけなく平家が滅んだのは重盛が亡くなってから三男・宗盛が跡を継ぐんですが宗盛は軍事的指揮能力はゼロの人だったんです。
ですから連戦連敗、義経にやられちゃったんですが、そこまではいかなかったと思います…重盛が生きていたら東国、東側は源氏、西国、西日本は平氏の分裂時代になったかもしれない。
清盛にとっては、かけがえのない後継者を失ったって事ですね。』
重盛死後の平家
清盛の完全独裁体制で奢り高ぶる平氏に対し反乱の火の手が上がります…その中心はあの兄弟でした。
治承4(1180)年9月1日、清盛の耳にある報せが入る…反平家派の武士を束ねて挙兵したものがいるというのだ。…その男の名前を聞いて清盛が耳を疑った。
頼朝!!…頼朝といえば平時の乱で殺された当然だったところを特別に助けてやった少年、その頼朝があれから20年かけて着々と力をつけ、恩人清盛に刃を向けたのだ。
怒りに燃えた清盛だったが、治承(1181)5年2月、熱病に倒れる…自らの死期が近いと悟った清盛は、妻に遺言を託した。
「自分が死んだ後は、仏塔や堂を建てて仏事供養をしてはならない…ただちに討手を差し向け頼朝の首を刎ねて仏前に供えよ」
平清盛 死去 享年64
重盛の死から2年後の事だった…絶対的な№1を失った状態で平家は、源氏との全面戦争を迎える。…重盛がつくはずだった総大将の座には、三男・平宗盛が着いた。
彼は大将の器ではなかった…清盛が処刑し損ねた兄弟の弟・義経の前に平家軍は連戦連敗、ついに壇ノ浦でで滅亡の日を迎えるのです。