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海の王者・平氏を打倒せ ~決戦!壇ノ浦 義経の苦闘~

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NHK 歴史秘話ヒストリア
海の王者・平氏を打倒せ ~決戦!壇ノ浦 義経の苦闘~

本州の西の端、山口県下関市、福岡県とを隔てる関門海峡…その最も狭まった場所が壇ノ浦です。…当時、平氏が拠点としたのが壇ノ浦の南西にある彦島、戦いは源氏がここを制圧しようとした事により始まります。

しかし、その1ヶ月前、壇ノ浦の戦いに大きな影響を与える源平の一戦が今の香川県高松市でありました。実は平氏の拠点の一つだった香川にも壇ノ浦と呼ばれる地域があり、ここで壇ノ浦の戦いの一回戦が行われたのです。

難攻不落の巨大要塞に挑んだ義経の不屈の戦いを解説します。


episode 1
もう一つの”壇の浦”
義経ヤシマ作戦

壇の浦の戦い、その火種は26年前に遡ります…京都では貴族政治の行き詰りの中で武力に秀でた平清盛率いる平氏源義朝率いる源氏が急速に台頭…。

平治元(1159)年12月、朝廷で激しい権力争いが起こり、源氏と平氏は、それぞれ別の実力者についた事で争う事になります。…世にいう平治の乱です。

戦いは平氏の勝利となり、その結果、源氏の頭領だった義朝は殺されます。…戦いの後、義朝の妻も清盛の元にめし出される事となりました。

妻の名は、常盤御前…常盤はこの時、生まれて間もない子を抱えていました。後に平氏を滅ぼす事になる源義経です。我が子の為、死をも覚悟する常盤に思わぬ事が起きます。清盛が常盤のたぐい稀な美しさに心を動かされたのです。

清盛の命令は、屈辱的なものでした。子の命を助けてやる代わりに自分の愛人になれというものです。…この後、幼い義経は母と引き離され、都の北にある鞍馬寺に預けられる事になりました。…清盛によって父も母も奪われた義経、後に事実を知った義経平氏に対する憎しみを募らせて行きます。

治承4(1180)年8月、平治の乱の21年後、亡き源義朝の子・頼朝が東国で平氏打倒を掲げ蜂起します。…頼朝は義経にとって母親が異なる兄でした。

東北に身を寄せていた義経は、頼朝の元に駆けつけます。兄弟は対面を果たします…共に平氏と戦う事になった頼朝と義経、その後、平清盛が病死した事で戦いの流れは大きく変わります。

源氏は平氏が牛耳っていた都を制圧、平家一門を都から追い落とす事に成功しました。…この後、天下の情勢は、東北と畿内を押さえた源氏と西国に逃れた平氏に二分される事になります。清盛の後継者、平宗盛が新たな拠点としたのが屋島でした。

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屋島は、今の香川県高松市にある瀬戸内海に突き出た半島です…ここには奇しくも壇の浦と呼ばれた入江が残されています。後に山口県の壇の浦に逃れるまで、このが平氏の本拠地となりました。

平家がここを本拠地として選んだのは、天然の要害だったからです…屋島には源氏の追撃を恐れていた平氏には、大きな利点がありました。…当時の屋島は現在とは異なり、敵を阻むように海に取り囲まれていたということです。

更に高い山があって見晴らしが良いため敵船の接近をすぐに察知できました。周囲の湾も入り組んだ地形となっていて船を隠す事にも適していたのです。…屋島は、近づく事も攻める事も難しい天然の要塞だったのです。

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平氏の壊滅を狙っていた頼朝、しかし、攻めにくい屋島に攻撃を仕掛ければ多くの犠牲が生まれると予想されました。

そこで頼朝が打ちだしたのが屋島を直接攻撃するのではなく、平氏の勢力下にある中国地方と九州を虱潰しに制圧していくという作戦でした。…本拠地の屋島を孤立させ補給を断つ事ができれば、戦に持ち込まずに平氏を屈服させる事ができます。

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京都の守備は義経に任せ、鎌倉から主力部隊を送り込みます…部隊は中国の平氏勢力を制圧しながら九州方面に進みます。しかし、今の山口県付近に来た時、源氏軍は思わぬ事態に遭遇します。

「食料も無く、船も無い」「逃げ帰りたい」(『吾妻鏡』より)源氏軍は極端な物資不足に直面したのです。…西国は平氏の強い影響下にあったため、見込んでいた現地調達が上手くいかなかったのです。…頼朝の作戦は完全に破たんします。


壇の浦決戦への道
義経の奇策

この源氏の苦境に立ちあがったのが京都の守りを任されていた義経でした…義経平氏の本拠地、屋島を直接攻撃する事にしたのです。

文治元(1185)年2月17日、作戦決行日、船を出そうとする矢先、不運にも天候が悪化し、大嵐となります。転覆の恐れがあるため部下たちは出航を断念しようとします。

しかし、義経の反応は意外なものでした…「嵐を顧みるな」(『吾妻鏡』より)周囲の反対を押し切り、あくまで出航を命じたのです。この無謀ともいえる決断が功を奏します。

船は嵐の中でも奇跡的に転覆する事も無く四国に到着、しかも敵方が嵐の日に出航するとは考えなかった為、気づかれる事無く上陸出来たのです。

到着した義経軍は、そこから夜を徹して山中を駆け抜け、密かに屋島に移動、潮が引いて浅瀬になったタイミングを見計らい屋島に奇襲を仕掛けたのです。…海上からの攻撃に備えていた平氏、予想していなかった背後の陸側から源氏が現れた為、迎え討つひまもなく総崩れとなったのです。

戦いは義経の圧勝に終わります…義経の奇策によって平氏は、本拠地、屋島を失い、最後の拠点、山口の壇の浦に逃れる事になるのです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
海の王者・平氏を打倒せ ~決戦!壇ノ浦 義経の苦闘~

神話の世界に登場するスサノオノミコト…美しい娘たちを食べてしまうヤマタノオロチを退治した英雄です。…オロチを倒したスサノオノミコトは戦いの後、オロチの尻尾からあるお宝を見つけます。

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、…草薙剣とも言われる剣でした。そんな伝承を持つ草薙剣は古くから天皇の権威の象徴とされ、鏡、曲玉、とともに三種の神器と言われています。

この草薙剣が壇の浦の戦いにのぞんだ義経の前に大きく立ちはだかる事になるのです。


episode 2
攻防 壇の浦決戦
三種の神器を奪還せよ!

屋島の戦いから1月、源頼朝は壇の浦に逃れた平氏の追討を検討します…しかし大きな問題がありました。

平氏のリーダー、平宗盛は自らの正当性を訴えるため幼い安徳天皇を連れ去り、天皇の権威の象徴ともされる三種の神器を持ち去っていたのです。

頼朝を特に悩ませたのが三種の神器平氏の手にあるという事でした…これが無ければ次の天皇を決める時の正当性が難しくなると考えられたのです。

頼朝は全軍に命じます…「賢所ならびに宝物を無事朝廷に返し奉らねばならない」(『吾妻鏡』より)…安徳天皇三種の神器を是が非でも奪還せよというものでした。

東京大学史料編纂所 本郷和人 准教授
三種の神器は、この人は間違いなく次の天皇なんですよという儀式に必要なものなのです…だから安徳天皇をお救いして京都に戻さなければいけないと同じか、それ以上に意味があるのが三重の神器の奪還だったのです」

戦いを前に義経が行ったのが、今だ豊富な水軍力を持つ平氏に対抗する為、軍を補強する事でした…目を付けたのが壇の浦から遠く離れた熊野の地でした。

移動に船を使うことの多いこの地では、開戦に長けた豪族がいました…それまで平氏と協力関係にあった勢力でしたが源氏が領地を保証する事で味方に引き入れたのです。

更に平氏軍の切り崩しにもかかります…注目したのは屋島の戦いの後、逃げ遅れていた阿波の水軍でした。…戦いの後、平氏の主力部隊は壇の浦へと逃れましたが、その一部が四国に残ったままだったのです。

義経は、この軍に使者を送り、「戦いは全て終わり、平氏は敗れ去った」と告げたのです…嘘の情報で降伏させ捕虜したのです。…義経は戦いの直前には840艘の調達に成功、…平氏の擁する500艘を凌駕することになったのです。

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文治元(1185)年3月24日、源氏軍は平氏軍に戦いを仕掛け、壇の浦の戦いが始まります。…戦力は十分、義経が目指すのは天皇三種の神器の奪還です。

天皇と神器は平氏の船に載せられ、側近たちによって守られていました。平家の人々は最後の決戦と考え、もし敗れれば、天皇も女官も共に滅ぶという覚悟を決めていました。

平氏の武将の言葉です…「戦は今日が最後、者ども少しも退くな、いつの為に命を惜しむというのだ」(『平家物語』より)

平氏は残された兵力を惜しみなく投入する総力戦で臨んできます…最前線に弓矢に長けた精鋭部隊を並べ、一斉に矢を放ち近づく源氏軍を圧倒していきます。

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前線で指揮をとっていた義経は、その猛烈な攻撃を受け、一時退却を余儀なくされます…しかし、ほどなく戦況は大きく変わります。…平氏の主力部隊であった阿波水軍が突如として源氏に寝返ったのです。

義経が阿波水軍の残党を捕虜にしているという情報が伝わったと考えられています…事前の工作が効果を発揮したのです。

 

壇の浦の戦い
義経まさかのミス

平氏は主力部隊を失った事で総崩れとなります…勝利を決定づけた義経、頼朝から命じられた天皇三種の神器を取り戻すべく平氏の船団へと接近していきます。

この時、義経を大きくうろたえさせる事態が起こります…敗北を悟った平氏の人々が次々と海に身を投げ始めたのです。

碇を背負うもの、敵を道ずれにする者、かつて都の栄華を極めた平氏の人々は捕虜となる事より、死を選んだのです。

死を選んだ人の中には、安徳天皇三種の神器を守っていた清盛の妻の姿もありました。…安徳天皇は亡くなり、三種の神器の一部も海中に没しました。

三種の神器のうち鏡と曲玉は回収できましたが…「草薙剣は海に没した」と『吾妻鏡』には記されています。

巧みな作戦で大勝利を掴みながら草薙剣を取り戻せなかった義経、この事が義経の運命を大きく変えてゆく事になるのです。

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
海の王者・平氏を打倒せ ~決戦!壇ノ浦 義経の苦闘~

壇の浦の戦いの前後、義経は最愛の女性とめぐりあいます…女性の名は、静御前…静は歌や舞などに通じた白拍子で大変美しい女性だったといわれています。

壇の浦の戦いの結果、思わぬ窮地に陥った義経は、愛する静とともに困難な運命に耐えていく事になるのです。


episode 3
”壇の浦”さえなかったら
義経と静の逃避行

壇の浦の戦いの後、鎌倉は混乱に陥ります…三種の神器の一つ、草薙剣義経が取り戻せなかったという報せがあったためです。

頼朝は海に沈んだとされる剣の捜索を命じますが見つける事は出来ませんでした…戦いを終え、報告のため鎌倉に向かっていた義経は、その到着間近、頼朝の使者から思わぬ事を告げられます。…「義経は鎌倉に入ってはいけない」(『吾妻鏡』より)剣を取り戻せなかった事が理由の一つといえます。

しかし、一方で戦いで功績を上げ、都での名声を高めた義経に対し、頼朝が危機感を募らせたためだったからとも言われています。

東京大学史料編纂所 本郷和人 准教授
「頼朝は、義経が功績を立てすぎた訳ですから何かあれば、失脚させようというのはあったでしょうね…そうすると三種の神器を取り戻せなかったのも失脚させる口実に成り得る…難癖としてはつけられるのです」

その後まもなく、平氏との戦いによって手に入れた義経の領地が全て頼朝によって没収されます。…義経の手紙といわれる手紙(腰越状)には、兄の仕打ちに戸惑う心境が綴られています。

「計り知れない功績が無視される事になり、兄上のお怒りをこうむってしまいました・・・むなしく泪にくれています」(腰越状

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義経は失意のうちに京都へ戻ります…この時、義経を優しく支えたのが静御前でした…義経は静のもとで長い戦いの疲れを癒しました。

しかし、穏やかな日々は長く続きません…壇の浦の戦いの終結からおよそ半年後、10月17日、頼朝は義経に謀反の疑いをかけ兵を差し向けます…義経は寝込みを襲われますが、この時、いち早く敵を察したのが静だったといいます。

激しい戦いの末、敵を撃退し、一命を取りとめた義経、頼朝に対する怒りを高めます。…「頼朝に恨みのある者はこの義経に従え」(『吾妻鏡』より)…打倒頼朝を掲げ、都で同志を募りますが圧倒的な武力を持つ頼朝を恐れ、義経に呼応する者は、ほとんど現れなかったのです。

義経は、弁慶など僅かな供を連れ、静とともに都を脱出します…奈良県吉野町、山深いこの地に義経と静は身を隠しますが、じきに頼朝に察知され、僅か5日間で義経たちは立ち去ります。

逃げ場を失った義経、残されたのは修験者しか登らない険しい山に逃れる事だけでした…しかし、そこは女人禁制の地、静が入る事は許されません。

義経は別れを決意します。命を落としかねない危険な雪山に静を連れていく事は出来ないと考えたのでしょうか…これが義経と静のとわの別れとなりました。

義経を捕えようとする頼朝の捜索は執拗なものでした…吉野では多くの僧侶を動員した大掛かりな捜索をさせています…ついに里にいた静が見つかり捕えられます。

静は義経の居所を知っているはずと厳しい取り調べを受けました…しかし、静は義経の逃亡先について口を閉ざし語る事はありませんでした。

業を煮やした頼朝が気晴らしに命じたのは、日本一と評される舞を見せてみよという事でした…何度も拒んだ末、やむなく舞った静は、…

吉野山 みねの白雪ふみ分けて いりにし人のあとぞこうしき」(『吾妻鏡』より)…吉野の山に消えていった義経様、今はその足跡さえ恋しく思えてきます。

恋人への哀惜の念を込めた舞は、周囲の心を打ちます…同席していた頼朝の妻・北条政子は静に強く共感し、夫を説得、静は釈放される事になりました。

こうして義経は、頼朝の追手をかわして東北の平泉へ無事、逃げのびる事が出来たのです。

壇の浦の戦いで平氏を滅ぼし、その功労者、義経を追い落とした後、源頼朝征夷大将軍の座につきます。…鎌倉に幕府を開きますが源氏の栄華は長くは続きませんでした。

頼朝の死後、幕府の実権は北条氏に奪われます…北条氏は清盛と同じ先祖を持つ平氏の一族でした…見方によっては平氏への揺り戻しです。

その後も源氏と平氏の名は、様々な形で歴史に現れてきます。
平氏の末裔、北条氏を倒したのが源氏の末裔、足利尊氏…その足利尊氏が興した室町幕府を倒したのは織田信長平氏の末裔を名乗っていました。

その後も明智光秀(源氏)、豊臣秀吉平氏)、徳川家康(源氏)と源氏と平氏の名は交互に現れているのです。

当時、どこまで意識して名乗られていたかは不明ですが源氏と平氏の対立は、歴史に奇妙な因縁を残しているのです。