THEナンバー2 ~歴史を動かした陰の主役たち~ 源義経
鎌倉幕府誕生は、二人の兄弟によって成し遂げられた…兄・源頼朝、平家に敗れ父を殺され20年間の流刑生活を送ったが…仇である平家を討ち、征夷大将軍にまで上り詰めた。
弟・源義経は、兄・頼朝を助け、屋島、一ノ谷、壇ノ浦の合戦など数々の源平合戦を常に勝利し、戦の天才としてその名を今の世に残す。
手を取り合った兄弟だったが有る時を境にその関係を変えて行く…
作家 井沢元彦
『兄・頼朝は政治家、弟・義経は軍人として見なければいけません…二人の関係のキーパーソンとして後白河上皇がいるのですが…この人の事を ”日本一の大天狗” だと頼朝が言っています。
後白河上皇は凄腕の謀略家です…平家と源氏を噛み合わせたり、義経と頼朝を噛み合わせたり、特に義経は後白河さんに翻弄されます。』
頼朝・義経、運命の復活劇!?
平治元(1159)年、京都に平治の乱の首謀者・源義朝の首が晒される…もはや平家にあらがう敵がいない事を物語っていた。
平清盛は義朝の子どもたちを殺さなかった…
1.義経…絶世の美女と言われていた常盤御前が清盛の妾になる事を条件に2歳になる息子・義経を救った。
2.頼朝…清盛は、継母・池禅尼が頼朝が「頼朝は亡き息子に似ているから助けてほしい」とせっつかれ許してしまった。
頼朝は伊豆へ流刑、監視役は地元の有力豪族、北条時政…しかし時政の娘・政子が頼朝の運命を大きく変える。父・時政は政子を平家へ嫁がせようと考えていたが、なんと政子は頼朝の元へ駆け落ちしてしまった。
その結果、時政は大きな決断をする…平家を裏切ったのだ…頼朝と娘を結婚させるとその後、源氏を支持する立場へと変わったのだ。
頼朝は北条時政を味方に付けた…当時、伊豆を含む関東の土地は平家が管理していた…重い年貢と土地没収といった恐怖に人々は不満を募られていった。
北条と源氏の結びつきは、人々を巻き込み勢力を拡大させて行く…頼朝は源氏の頭領とういだけでなく、地方武士たちをまとめて武家による政治を考えるようになって行く。
一方、鞍馬寺へ預けられた義経も平家打倒を考えるようになった…15歳で寺を抜け出し、母親の血縁を頼って奥州・藤原氏の元へ身を寄せる。
治承4(1180)年、事件が起きた…平清盛が後白河上皇を幽閉しようとする。その結果、平家追討の領旨が頼朝を始めとする全国の武士たちに下される。
その年の8月、源頼朝挙兵…平家打倒の宣旨を持つ頼朝の元に20万もの勢力が集まった…そしてついに10月、平家とと源氏は富士川で激突、源平合戦の始まりだ…結果は源氏の圧勝、その合戦翌日、奥州から義経が駆けつけてきたのだ。
歴史の舞台に義経登場!
…影で暗躍する後白河上皇
養和元(1181)年、平清盛死去…清盛の死は新たな権力闘争の始まりを意味していた…後白河は平家追討に本格的に力を入れた。…京都に陣取り、平家軍をいち早く打ち破った源義仲(木曾義仲)に目を付けた。
平家軍は義仲に敗北し、九州に追われたが安徳天皇と三種の神器を奪っていった。。…三種の神器とは、宝剣、鏡、勾玉…神代から続く天皇の正当性を証明するものである。
後白河は木曾義仲に三種の神器奪還を命じた…しかし義仲は平家を相手に敗北を喫してしまう…それを機に後白河は義仲に見切りをつけ、頼朝に関東の土地の管理権を与えた。
その事に危機感をおぼえた義仲は後白河を幽閉、頼朝はもう一人の弟・源範頼を大将とし4万の軍勢を京へ出陣させた。…そこには初陣、義経の姿もあった。
元暦元(1184)年1月、宇治川を挟んで義仲軍と決戦、宇治川の合戦だ…極寒の激流に守られ安心していた義仲軍、この時、川を渡り急襲をかけたのが義経率いる精鋭たち…見事、義経は初陣で勝利し、後白河を救い出す事に成功する。
一方、平家軍はかつて平清盛が都を移した福原まで勢力を盛り返していた…そして1ヶ月後には、京都奪回を目指し、一の谷へ兵を集結していたのだ。
元暦元(1184)年2月、一ノ谷の合戦…一ノ谷は海と断崖絶壁に挟まれた狭い土地、5万の兵を持って攻める源範頼を大将とする源氏軍だったが戦いは膠着状態、…そこへ断崖絶壁の崖の上に現れたのが義経、誰もが出来ないと思っていた行動に出た。
伝説となった ”鵯越逆落とし” 義経は断崖絶壁を駆け下りた…この奇襲で源氏軍の大勝利となったのです。
しかし恩賞は、大将・範頼のみ…義経は対象外、兄・頼朝の評価は、義経の行動は単なるいち戦略にすぎないというものだったのです。
ところが義経の心の隙間に目を付けた人物がいた…後白河です。
後白河は義経に報奨をを与えた…「従五位下 検非違使・左衛門尉」という京都警備の官職です…義経は喜んで受け取った。
しかし、頼朝は義経の軽率な行動に激怒、…武家による統治を目指していた頼朝は、報奨を全て自分を通して与えられるよう決まりを作っていた…それを義経が破ったのです。
頼朝は罰として義経を平家追討の任から外した…しかし半年後、平家軍を追走していた範頼を大将とする源氏軍は攻めきれず…逆に救援を求めてきた…頼朝は再び義経に頼らざるを得なかった。
軍事の天才・義経
連戦連勝で最終決戦 壇ノ浦へ
屋島の合戦でも勝利した義経は、文治元(1185)年3月、ついに源平合戦の雌雄を決する壇ノ浦の戦いに臨んだのです。
平家軍総大将・平知盛率いる500艘、…対する義経800艘の船団が関門海峡、壇ノ浦で激突!…攻めよせる源氏を平家が迎え撃つ。
義経軍が数で勝っていたが潮の流れを熟知する平家水軍の一方的な攻撃で展開していった…負けていた義経は、またも禁手…”漕ぎ手を討て”…当時としては完全な反則行為…しかし義経はゼンゼン平気…源氏軍の盛り返しの時が来た。
潮の流れも源氏軍有利に変わり、源氏軍勝利が確実になると平家軍は、次々と海に身を投げる…そして平清盛の妻・時子は、まだ幼い安徳天皇と三種の神器、宝剣を道連れに海に身を投げた。
平家はここに滅亡したのです。
三種の神器の宝剣水没
頼朝、義経決裂へ
義経の戦いでついに平家を滅ぼしたのですが三種の神器である宝剣を喪失してしまったことに頼朝は激怒!…三種の神器は3つ揃って初めて後白河との交渉に有利に働くのです。
義経は、頼朝に弁明をする為、鎌倉に向かう…しかし頼朝の返答は 「鎌倉入りを禁ず」 でした…義経が鎌倉に入れず手前で書いた弁明の手紙には…。
しかし、この手紙によっても兄からの返事はありませんでした…会う事かなわず京にもどった義経、この状況を後白河は見逃さなかった。
近畿に勢力を持っていた源行家(頼朝の叔父)を義経と結び付けた…行家は朝廷と独自のつながりを持っていた人物、頼朝勢力をいまいましく感じていた。
噂はすぐに鎌倉の頼朝の耳に入った…それは義経が行家とともに謀反を起こすというものだった…そして頼朝は、義経の暗殺命令を出すのです。
作家 井沢元彦
『三種の神器を持っている人が天皇、平家の血を引く安徳天皇が持って行ってしまったのです…後白河は自分の権限で京都に後鳥羽天皇を即位させるのですが、三種の神器が無いことから認めない人が勢力が出ているのです。
そこで頼朝は、”しめた” と思うんです…三種の神器を取り返して、それをネタに幕府を認めろなど優位に立とうとしたのです。
それで義経に期待したんですが…宝剣喪失…頼朝激怒となったのです。』
頼朝は義経暗殺の為に追手を放った…が義経はこれを返り討ちにした…後白河はこれに対し、文治元(1185)年10月18日、義経の為に頼朝追討の宣旨をだす。
更に後白河は義経を助ける為に九州四国の土地を与えた…義経一行は九州に拠点を設ける為、数百人の部下とともに船出した。
ところが義経に不運が襲う…嵐で船が難破、莫大な軍資金も水没、味方はチリヂリ…一度体制を立て直すため義経は京へ向かう…しかし後白河は力を失った義経を見捨て、今度は頼朝方に立つ…11月10日、義経追討の院宣を下すのです。
一転して追われる事になった義経は、その後2年間も逃げ隠れた…そして奥州平泉・藤原氏の元へ身を寄せるのです。
しかし信頼をよせる藤原秀衡が亡くなったのだ…頼朝は義経が奥州にいるとわかると藤原氏に圧力をかけた…絶対的なカリスマ、藤原秀衡亡き後、頼朝に逆らえなかった藤原氏は義経を襲った…義経は切腹する。
文治5(1189)年4月30日 源義経 死去 享年31
頼朝は義経が死しても尚、藤原氏を許さなかった…義経をかくまった罪として奥州平泉に進軍、藤原100年の歴史は、ここに潰えた。
もはや鎌倉に対抗できる勢力は無くなったのです。
頼朝による武家政権が成立…22歳の義経が兄を慕い、馳せ参じた時から9年の月日が流れていた。