NHK 歴史秘話ヒストリア
異色の革命児 平安を動かす~日本を変えたヒーロー平清盛~
2012年、大河ドラマの主人公となった平清盛、貴族政治が混迷を極めた平安末期、清盛が新たな武士の世を切り開いて行く物語です。…平安の革命児、平清盛の知られざる魅力をご紹介いたします。
上記画像の厳島神社、平清盛が850年前に現在の姿に改築した物が原形です。…海の上に社殿が建つ様子はまさに壮観、こうした海上の木造建築は世界でも類を見ないものと言われています。
建物は、潮の満ち引きを考慮して高さが決められていて満潮時には、海に浮かぶ社殿であるように見えるよう作られているのです。…海の上に神社を作るという当時、誰も思いつかない発想をしたアイデアマン、平清盛の様々な魅力に迫ります。
若一神社(平清盛の邸宅跡)
京都市南西部の一画(下京区)にある木が茂った場所、平安時代、平安時代、平清盛の邸宅があった場所です。…ここは清盛が50歳で貴族のトップである太政大臣に昇進した時、住んでいたという場所…清盛が出世を祝わって植えた楠が今も残り、現在は出世に大変ご利益がある神社として知られています。
若一神社 宮司 中村重義さん
「ここをお参りに来られる方は、御神木に手を当ててエネルギーを頂いておられるような風景は良く見ます。太政大臣まで上がられた開運出世の権化のように尊敬されておりますね」
この清盛の大出世、これを支えたのは実は、女性たちだったのです。…妻や娘たちのアシストでゴールを決めた清盛40代の大出世物語です。
episode 1
わたし、女性に助けられました
40代 華麗なる出世物語
元永元(1118)年、平清盛は、中級貴族・平家の長男として京都で生まれました…貴族と言ったら蹴鞠をしたり、歌を読んだり、そんな毎日を送っていたかと思いきや…。
平家は武芸を生業としてきた武士の元祖というべき家柄、貴族のボディーガードや盗賊の取締りなどが仕事でした。…青年時代の清盛を境遇を示す仇名が伝わっています…高平太です。
高=高下駄
平=平家
太=太郎(長男のこと)
いつも高下駄を履いている平家の長男だから高平太…これは清盛をバカにしたあだ名でした。
天皇のそばで政治に参加する上級貴族なら朝廷に出仕する為に上等な靴を履いています…その靴を履けない身分で上級貴族の使い走りばかりしている様子を揶揄されたのです。
清盛が生きた平安の世は、生まれた家の格で出世が決まってしまう厳しい身分社会でした。…中級貴族として生まれた清盛が上級貴族として出世する道は、閉ざされていたのです。
そんなある日、清盛に幸運をもたらす人物との出会いがありました。清盛が20代の終わりに結婚した妻・時子です。…時子は、同じ中級貴族出身の女性でしたが、この時子さんには、美人の妹がいたのです。
時子の妹の滋子は、絶世の美女として評判の女性でした…当時の記録には「世の中にこんな美しい人がいるとは思ってもみなかった」(平安時代の日記『たまきはる』より)と残るほどで、そのたぐいまれなる美貌が清盛に出世の糸口をもたらします。
ことの初めは、時の権力者、後白河天皇がこの妹の美貌を耳にしたこと…滋子は宮中に迎えられ後白河天皇との間に男の子を出産、やがて皇后の座につきます。
妻の妹を通じて、なんと後白河天皇と親戚関係になるという太いパイプがにわかに出来家の生の声を聞かせます。-3あがったのです。…ここで一働きすれば身分の壁を飛び越えて出世することも夢ではありません。
丁度その頃、大きな事件が起きます…朝廷内での後継者争いをキッカケに都で戦いが始まったのです。戦いとなれば平家の得意分野です。清盛は、後白河陣営の主力として奮戦、勝利に大きく貢献しましたのです。
この功績を認められて見事昇進、平家は上級貴族の仲間入りを果たします。…妻・時子との出会いで始まった清盛の幸運は、これだけにとどまりませんでした。…続いて清盛の成功を後押しする事になったのが、時子との間に生まれた6人の娘たちです。
清盛が上級貴族になったおかげで、この娘たちに天皇を補佐する高級官僚との縁談が次々とおこります。…ある娘は権中納言の下へ…ある娘は左大臣のもとへ…また別の娘は関白の下へ…こうして上級貴族の中に清盛の親類縁者が続々と誕生。
その支援をバックに清盛は、48歳で大納言、49歳で内大臣と異例の速さで出世、50歳の時には、ついに貴族のトップである太政大臣に上り詰めたのです。
更にこの頃には、新たに即位した天皇と娘との縁談も持ち上がりました…相手は、後白河天皇の3代後に即位した高倉天皇です。…もしも自分の娘と天皇の間に男子が生まれたら清盛は、未来の天皇の祖父になります。最高権力を握るチャンスと清盛は期待します。
しかし、この時、清盛には一つの懸念がありました。…高倉天皇には、正妻の清盛の娘意外に何人もの愛人がいたのです。…もし娘意外の女性に男の子が生まれてしまえば清盛の目論見はついえてしまいます。
この清盛の窮地を救ったのは、妻の時子でした。…時子は別の女性が高倉天皇の子を産むとすぐに、その子を養子として引き取ります。子供を天皇から引き離し、平家一門で抱え込んだのです。
更に天皇が自分の娘意外に目がいかないよう愛人を宮中から追放、出家させてしまいます。…この結果、見事、清盛の娘と高倉天皇の間に男子が誕生…清盛は妻や娘たちの支えで絶大な権力を握る事となったのです。
立教大学講師 栗山圭子さん
「彼の周りにいる様々な女性の力ですね…こういった大きな力を受けた上で清盛の権力というものがあったのではないかと考えています…娘であっても、妻であっても、母であっても、それぞれが力を発揮そ得るような時代状況があったのです」
妻との出会いから僅か20年余りで一気に日本の頂点に駆け上がった清盛、しかし、その3カ月後、清盛は全てを捨ててまったく違う人生を歩む事となるのです。
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異色の革命児 平安を動かす~日本を変えたヒーロー平清盛~
太政大臣になり、権力の頂点に達した清盛、翌年に完成したといわれるのが上記画像、厳島神社です。…当時の最先端の建築技術を使って作られているのですが、その特徴の一つが美しい回廊です。
厳島神社の回廊は、幾重にも折れ曲がり、本殿に続いています。その為、角を曲がる度に思いがけない風景を発見できる、そんな楽しみがあります。
回廊を抜けると開かれた場所があり、平舞台が設置され、史上初の海上コンサートが開かれたと言われます…厳島神社に様々な趣向を凝らした清盛、そこには清盛の壮大なる野望があったのです。
昨年の11月、神戸市内で平安時代末期の遺跡の発掘が行われました…見つかったのは、清盛たち平家一門が住んでいたと考えられる三棟の屋敷跡、都から50キロ以上離れたこの地に平家が大きな拠点を築いていた事が裏付けられました。
ここから出土したのは、お椀や瓶などの日常品に加えて、宋の時代の珍しい白磁の水差しなど、中国製の高級陶磁器です。…当時この神戸の地で清盛が盛んに行っていた中国貿易でもたらされたものだと考えられています。
大出世を果たした清盛が50代から乗り出したのが海外貿易、それは300年近い鎖国ともいえる状態を打ち破る大事業で世界遺産、厳島神社誕生とも深く係わるものでした。…ビジネスマンに転じた清盛が仕掛けた日本列島改造計画です。
episode 2
日本列島改造計画
50代 国際ビジネスに賭ける
仁安2(1167)年、50歳になった清盛が権力を握り、栄華を極めていた頃、日本を取り巻くアジアの情勢は、変換気を迎えていました。
実はこの頃、日本と中国は300年もの間、正式な国交が失われていました…元々は平安時代の中頃、中国の唐が内乱状態になり、894年に遣唐使が廃止されたことがキッカケです。
しかし、清盛が権力を握った頃になると南宋によって中国情勢は安定した状態になっていました…この南宋は貿易を奨励したためアジアの国々との間で活発な貿易が行われるようになります。
アジアに起こっていた新たな動きを感じ取っていた清盛は、今こそ国を挙げて貿易を拡大するチャンスだと考えます…しかし大きな問題がありました、日本には大型の外国船を受入れられる大規模な港が博多しかなかったのです。
消費地である都まで運ぶには、小舟や馬に乗せ換えるしか無く、大量輸送に適していませんでした。…清盛は考えます。都の近くに新しい港を作り、大陸からの大型船が直接、行き来できれば貿易の量は飛躍的に拡大するのではないかと。
清盛は、この構想をすぐ実行に移します…政務を指揮する立場では貿易に専念できないと考え、太政大臣になって僅か3カ月後に位を朝廷に返上、息子に政治の実権を譲っています。
出家してそれまでの身分も捨て、並々ならぬ情熱をもって貿易に望んだのです…清盛がまず取り組んだのが海外貿易の拠点となる港を探す事でした。注目したのは、現在の神戸、福原にあった大輪田泊です。
当時の大輪田泊は、小さな港にすぎませんでしたが水深が大変深く、大型船を停泊させるのに適していました。更に大消費地の京から僅か1日の距離、輸出用の品を集めるのも便利な事から貿易量の増加が期待できます。
しかし、国際的な貿易港にするには、大きな問題もありました。大輪田泊は大変風の強い場所で特に朝夕は波が非常に高くなります。…波に煽られて船が転覆してしまう事故が多発していたのです。
港を安全なものにするには、どうしたらいいのか清盛が考えたのは、石を積み上げて島を築き波風を防ぐという、今でいう人工島計画でした。
平家物語によれば、島の大きさは650m四方、3年がかりの工事の末、強風でも大型船が着岸できる巨大な港が誕生しました。
神戸大学名誉教授 高橋昌明さん
「古い船、廃船に石を乗せて、そのまま沈めるという格好で基礎を作ったようです…清盛のスケールの大きさ、現状を変えていくという意欲の強さを示していると思います」
清盛は、港の建設とともに貿易船が行き来するルートとなる瀬戸内海各地の整備も進めています。…中国船が最初に泊る博多では、古くなった港を埋め立て、より大型船が接岸しやすいように岩壁の整備をしたと伝わっています。
主要な航路の一つだった広島の呉では、当時、大変狭く浅かった海峡部分の岩礁を撤去し、大型船が通れるようにしています。…清盛によって瀬戸内海は、大型船が安全に早く航行できるハイウェーへと生まれ変わったのです。
そして清盛が1168年に完成させた厳島神社、世界遺産です…厳島神社の特徴的な社殿は、清盛が国際貿易の成功を願って生み出したものだと考えられています。…行き交う中国船に見せる意図もあったのです。
広島大学大学院教授 三浦正幸さん
「日宋貿易というのは、当然船でくるのですが、海上に浮かぶ社殿を見ますと中国からの貿易船が日本のお宮というのは、中国に無い素晴らしいものだと感動して日本を崇め奉るということも狙ったのです」
清盛が瀬戸内海を整備した事で日本と大陸との貿易は急拡大します。中国から高級陶磁器などが輸入される一方、日本に豊富にあって中国で不足していた金、木材、硫黄の大規模な輸出が始まります。…莫大な富が海外から入ってくるようになりました。
300年ぶりに大規模な海外貿易を復活させ日本に新たな道を開いた清盛、しかしこの貿易事業が清盛の人生に災いを招く事になるのです。
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異色の革命児 平安を動かす ~日本を変えたヒーロー 平清盛~
新しい事を始めると反発も多いのも世の常、清盛に対する周囲の人々の反感は、大きなうねりとなっていきます。
平清盛の名を広く世に知らしめたのが「祇園精舎の鐘の声」で始まる軍記もの平家物語です…清盛の死後、琵琶法師と呼ばれる人々が琵琶に合わせて清盛とその一族の栄光と没落の歴史を全国で語り歩き、大ヒットしたものです。
平家物語を弾き語り芸人AMEMIYA流に歌わせると…「天皇や貴族の政治をまるっきり無視して好き放題…日々快楽に走り、回りの忠告にもまるで知らん顔、…天下が乱れてもそれは俺のせいじゃない…奢っていたから滅びました」(『平家物語』より)
傍若無人で快楽にふけり、社会の混乱を無視する極悪人…こんなふうに謳われてしまうなんて清盛はどんな悪い事をしたのでしょう…平家物語が歌う悪人伝説に迫ります。
episode 3
おごっていたから滅びた?
60代 悪に運伝説の真相
50代をビジネスマンとして過ごし、日本に新しい時代をもたらした清盛、しかし60代に差し掛かろうとした時、順風満帆だった人生が狂い始めます。
安元2(1176)年、後白河上皇の妻であり、清盛と上皇の間を取り持ってくれていた時子(清盛の妻)の妹・滋子が亡くなったのです。…滋子が死んだ事で後白河上皇と清盛の関係は、次第に悪化していきます。
後白河上皇は、清盛が自分をもしのぐ富と権力を持ち始めるにつれ、不満を募られるようになっていたのです。…やがて上皇の周囲には、清盛たち平家の台頭によって出世を阻まれていた貴族たちが結集、清盛を殺害し、平家を追放する計画が持ち上がります。
更に上皇は、清盛の力をそぐため平家が持っていた領地を一方的に没収し始めました…勢力を増す上皇派の行動に耐えかねた清盛、ついに数千の軍勢を率いて強硬手段に出ます。
上皇を幽閉し、抵抗勢力の弱体化を図りました…しかしこれが更に事態を悪化させます。…幽閉された後白河上皇の息子が清盛打倒を唱えて挙兵、その呼びかけに応え、全国で一斉に反清盛ののろしが上がったのです。
東国では、源頼朝をはじめとする源氏が…西国でも平家が権力を独占するのを不満とする武士たちが蜂起、更に都周辺でも寺社勢力が清盛に牙をむきました。
寺社勢力は、清盛が自らの力で改築した厳島神社を重視する一方、伝統ある都周辺の寺社を冷遇しててきた事への怒りを募らせていたのです。…清盛の元に奈良の有力寺院が源氏の軍勢と協力して都へ攻め込もうとしていると知らせが入ります。
状況は、まさしく四面楚歌、事態の鎮静化を図ろうと清盛は、有力寺院と和平を結ぼうと考えました…和平交渉の使者を奈良に派遣、敵意のない事を示すために鎧兜を身に着けないでいくよう指示しました。
しかし有力寺院は、清盛の和平交渉を一切応じようとしませんでした…丸腰だった清盛側の60人以上の使者を殺害してしまいます。…この知らせに激怒した清盛、すぐに数千の兵を奈良に鎮圧にさし向けました。
しかし、この時、想定外の事が起こります…兵たちが東大寺の付近で休息をしていた時のこと…夜、灯りをとるために着けた火が風で燃え広がります…なんと東大寺の大仏に飛び火してしまったのです。
大仏は無残に焼け落ちてしまいました。そもそも東大寺は…「もし、この寺が栄えるときは、天下が栄え、この寺が衰えるときは天下も衰える」(『平家物語』より)とまでいわれた日本の象徴ともいえる寺でした。
当時の人々が受けた衝撃は、想像を絶するものでした…「この国からは、もう仏法も政治も消え失せてしまったのか…この悲しみは、とても言葉では言いあらわせない」(上級貴族の日記より)…清盛たちは仏の敵として日本中から憎まれる存在になってしまったのです。
治承5(1181)年閏2月4日 この2カ月後、清盛は原因不明の熱病に襲われ、64年の生涯を閉じます。…水をかけると一瞬で蒸発するほどの高熱に苦しんだという清盛、その最後は後に描かれた平家物語では、大仏を焼いた報いだと記されました。
革命児、清盛は、こうして失意の内に世を去り、天下の大悪人として語り継がれていく事になったのです。
清盛の死から4年後、平家は源氏によって滅ぼされます。清盛が築いた栄光は、僅か17年に過ぎませんでした。…しかし、その死後、長きにわたって清盛の存在感が薄れる事は、ありませんでした。
清盛が自ら植えたといわれる若一神社の楠、清盛の死後、いつの頃からかこの木を切ると祟りがあるという噂が立つようになります…上記写真は、現在の若一神社の社殿を上空からみた写真です。道路が蛇行してます。
昭和の初めに市電を通す時、祟りを恐れてこの木を切らないように避けて線路を作った名残なのです…亡くなってから800年以上たった今も清盛は、京都の町に強烈な存在感を残しているのです。
後世、平家物語などの影響で悪人として伝えられてきた清盛、しかし現在では研究が進み、貴族の政治が行き詰っていた平安時代の日本を革新した人物として評価が高まっています。
神戸大学名誉教授 高橋昌明さん
「平清盛は、日本に武家社会をもたらした一番中心人物だったということです…それまでは貴族の中で下働きをしていた武士が政治の主人公になるという意味で大変画期的で革命的だったわけです」
最後に・・・
清盛の死の4年後、平家は滅亡、政権は源氏に移る…源頼朝は鎌倉の地に幕府を開きます。頼朝は、ライバルだった清盛の構想をまねて中国との貿易の振興を図りました。相模湾には石で造った人口の跡が残っています。
かつて清盛が神戸に築いた京ヶ島にならって作ったものです…頼朝の息子、実朝は中国式の巨大船の建造に乗り出します。…しかし十分な技術が無かったため巨大船は海に浮かぶ事無く失敗に終わりました。
その後、日本と中国の貿易は、蒙古襲来などで下火になり、清盛が行っていたような大規模な国際貿易が実現するのはその200年後、室町時代に入ってからの事でした。
そして清盛の死から700年後、清盛の残したものが再び真価を発揮するときがきます…嘉永6(1853)年、黒船来航による開国です。
250年の鎖国が解け、貿易に日本の未来が託された時、数少ない国際貿易港の一つとして注目されたのが神戸でした。…大型船の接岸に適した神戸は、西洋との貿易の拠点となり、明治の中ごろには横浜を抜いて日本一の輸出量を誇る港に成長します。
神戸には、沢山の外国い人が暮らすようになります…国際色豊かな現在の原点が生まれました…清盛が礎を築いた神戸、その港の近くには、清盛を供養する為に鎌倉時代に築かれた塚が残っています。(清盛塚 神戸市兵庫区)
その傍らには今、清盛の像が立てられています…昭和43年、開港100年を記念して神戸の基礎を作った恩人を讃えるため、地元の人々が建てたものです。
混迷を極めた平安時代の末期、新たな道を指し示した平清盛、時代を変えた革命児の精神は、その夢と志が詰まった地、神戸に今も息づいています。