旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

空海からの贈り物~天空の聖地・高野山

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NHK歴史秘話ヒストリアより…
空海からの贈り物~天空の聖地・高野山

紀伊半島の中央部、和歌山県高野山、標高800mを超える山の上に百余りの寺院が立ち並び、中心には巨大な伽藍が立ち並びます。

およそ1200年前、弘法大師空海が開いた真言密教の聖地です。

樹齢400年にも及ぶ杉並木の参道、この回りには古から空海を慕う人々の供養塔が20万を超えます。…2004年、世界遺産に登録された事をキッカケに海外にもその魅力が知られる事になりました。

 

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episode1
天空の聖地
高野山へようこそ

高野山の麓、和歌山県九度山町…ここに古来、高野山にお参りする人々が訪れてきた寺があります。空海ゆかりの寺・慈尊院です。境内は女性たちが奉納した、子宝や安産を願う絵馬でいっぱいです。

言い伝えによるとある日、年老いた空海の母が故郷の四国・讃岐から高野山にやってきます。しかし高野山は女人禁制、しかも厳しい修行の場です。そこで空海は麓のこの寺で母に暮らしてもらう事にしました。

年老いた母を案ずる空海は、月に9回 ”九度” も高野山か下りてきたといいます。…そこからこの土地は九度山と名付けられ、寺は、『女人高野』と呼ばれるようになりました。

足に自信のある方は歩いて上る事も可能です…標高差は700m、山道を20キロ、8時間ほどで登れます。

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20キロを上り切ったところで皆さんを迎えてくれるのは大門、かつてはここから女人禁制、真言密教の聖地への入口です。

密教が中国から日本にもたらされたのは平安時代の初め、唐に渡った空海が…「生けるもの全てがその身のまま仏となる」 という新しい考え方を学び、広げようとしました。その修行道場として空海は後半生をかけて築いたのが高野山です。

そてから1200年、山頂には100余りの寺、人口2500人、役場、小中学校、大学まであるまさに天空の町となっています。

ここで 『曼荼羅』 を解説します。
曼荼羅密教では大変重要な意味を持っています。

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曼荼羅は2枚1組の絵で仏の教えや悟りの境地を象徴的に現したものです。写真右は、胎蔵界曼荼羅、中心には万物の母とされる大日如来が描かれ、私たちが生きている世界の成り立ちが表現されています。

写真左は、金剛界曼荼羅、九つの升目は悟りに至る道筋を現しています。大小1400もの仏が描かれ、真言密教の様々な境地を示しています。

空海は、曼荼羅を通して正しい修行を行えば、人は誰でも生きている間に悟りを開けるという即身成仏の考え方を伝えました。

高野山には、参拝者が宿泊できる寺、宿坊が52ヶ所もあります。様々な修行の体験や精進料理を楽しむ事が出来ます。

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東西5キロ、南北3キロに広がる高野山、その中で最も神秘的といわれる場所が奥之院です。…奥之院に向う2キロの参道の両側には、平安時代から現代にいたる供養塔やお墓が沢山並んでいます。

供養塔の数は20万を超えます。織田信長明智光秀上杉謙信武田信玄などそうそうたる戦国大名の6割以上の墓所があります。

そしてここからが奥之院、樹齢数百年の杉木立に囲まれ、神秘的な雰囲気を醸し出しています。…この建物は空海を拝む場所、燈籠堂です。

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奥之院では1日2回、大きな箱が運び込まれます。早朝6時と、午前10時半に大きな箱が運びこまれます。実はこれは空海のお食事なんです。(この時間に行けば箱を運びこむ僧侶の姿が見られるわけなんですね)


episode2
空海ゆかりの国法

62年の人生を全うした空海は、その晩年に高野山を築き上げました。…しかしもう一つの大きな仕事も成し遂げています。

それは仏像や仏具、経典を整え、密教を日本に広める為の土台を築いた事です。

空海密教の手ほどきをした人々の名前を記した灌頂暦名、…災いを焼き尽くし、幸福を呼び寄せる密教の祈祷、その際に使われる法具の数々、言葉では表現しきれない密教の教えを視覚的に伝える曼荼羅、更に数多くの仏像を曼荼羅の形に配置して作られた立体曼陀羅、…これらの多くが国法に指定されています。

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その数は30点以上、日本の文化史上空前の足跡を残した空海、その偉大さは国宝となった様々な品を残した事だけではありません。

実は書と仏像の世界で全く新しい考え方をもたらしてもいたのです。

 

episode3
高野山に秘められた
師弟の物語

空海は理知的な人でした。…そして常に前向きに人生に立ち向かう言葉を語りました。ところが空海はこんな言葉も残しています。

悲しいかな、悲しいかな、復悲しいかな
悲しいかな、悲しいかな、重ねて悲しいかな

空海には珍しく、悲嘆に満ちた表現です。

数多い弟子の中でも空海が最も愛情をそそいだのが、智泉、…二人の出会いは空海の青春時代、その苦悩のさ中にありました。

平安時代の初め、20代の空海は仏教を志し、一人山林修行に明け暮れていました。
この頃、空海のように修行する者は 「私度僧」 と呼ばれ、正式な僧侶として認められていませんでした。

それでも空海は己の道を求め、明日をも知れぬ日々を送っていたのです。そんな時、空海の弟子になったのが智泉でした。…智泉は空海の姉の子供、この時僅か14歳だったと言われます。


智泉は私の教えを受け継ぐ最初の弟子となった
親に仕える心を持って私に仕えて24年

家にいる時も山中で修行するときも
光に影が寄り添うように離れる事がなかった
空海


なぜ智泉が空海のもとに身を寄せたのか…それは空海が子どもの頃から飛び抜けて優秀で、一族の中でも一目置かれる存在だったからです。

作家 夢枕獏さん
「智泉にとっては、スーパーマンと言うと極端かも知れませんが尊敬もできるし、この人のためならどういう苦労も厭わないというような感覚があったと思います」

ところが間もなく二人は離ればなれになります。

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延暦23(804)年 空海31歳 空海は仏教を学ぶ留学生として遣唐使船に乗り込み唐の国に渡ったのです。…空海は唐の都で当時の最新仏教・密教を学びます。そして一年もたたないうちに密教の奥義すべてを極めました。

空海は日本に密教を広める事を誓い、帰国します。…ところが京の都に入る事を許されませんでした。空海は国から20年間の留学命令を受けていました。それを守らず僅か2年で帰国した事が原因だと言われています。

この窮地に空海のもとに駆けつけたのが智泉でした。二人は再開を喜びあいます。

作家 夢枕獏さん
空海には、基本的に味方がいなかったと思います。そういう時に智泉という弟子は身内でもあるので大変に心強い味方になったんではないかと思いますね」

空海は智泉に密教を授けます。以後二人は密教を広める為に手を携えて歩み始めるのです。…3年間の忍戎の後、二人の運命は突然開かれます。

大同4(809)年 空海36歳 中国の書や密教に強い関心を持っていた嵯峨天皇が即位したのです。思いがけず許され、空海は都に入りました。

この年、空海嵯峨天皇への接近を図ります。…空海と智泉にとって密教を広める為の正念場、その為には天皇の信頼を得る事が何よりも重要でした。

この頃、智泉も懸命に活動したという手がかりが京都に残されています。

岩船寺(京都)、この寺で智泉が祈祷を行ったと言います。

岩船寺住職 植村幸雄さん
嵯峨天皇にお子さんが無かった時に智泉大師に誕生祈願をお願いして、弘法大師の片腕として働いてらっしゃったので祈願していただこうとなったのではないかと思います」

天皇の夫人の一人に橘嘉智子という女性がいました…天皇の寵愛を一身に受けていましたが子どもが授かりません。

天皇の命を受け、智泉は昼夜をわかたず祈祷を行いました。そして翌年、弘仁元(810)年、見事に男の子が生まれ、後に皇太子となります。…智泉の働きは空海天皇の信頼を得る大きな助けとなったのです。

弘仁7(816)年 空海43歳 数年後、空海は長年の夢を実現するため動き出します。…それは高野山に修行道場を作る事でした。…空海天皇に願い出ます。


紀伊の国に幽玄で静かな平地があります
その名を高野といいます

荒れ地の草木を刈り 平らげて
修行の出来る一院を建立したいのです
空海の願文より)


弘仁8(817)年 空海44歳 願いはかなえられ、いよいよ寺院建設が始められます。空海はこの仕事を弟子たちに任せます。

作家 夢枕獏さん
空海は、おそらく教王護国寺(東寺)の方で立体曼陀羅をつくろうとしていたし、いろんな意味で大変忙しい時期を過ごしていました。その時に智泉が空海の手足となって空海がやらねばならない事をかなりの率で引き受けたと思います」

しかし高野山は標高800mを超える険しい山、そのうえ冬の気温は氷点下となります。厳しい自然と戦いながらの工事は難航を極めます。

着工から8年間、智泉に関しては詳細な記録が残っていません。唯一、高野山東南院という庵を作り、伽藍の建立に携わった事だけが知られています。

天長2(825)年2月 空海52歳 空海のもとに悲報が届きます…高野山で智泉が倒れたのです。空海は駆けつけました。

長年の無理がたたったのでしょうか…智泉は亡くなります…智泉死去(享年37)

そして空海からは絞り出すようにあの言葉が…


悲しい哉、悲しい哉
哀れが中の哀れなり

悲しい哉、悲しい哉
悲しみが中の悲しみなり

悲しい哉、悲しい哉、復悲しい哉
悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉
(『亡弟子智泉が為の達嚫の文』より)


作家 夢枕獏さん
「今でいえば追悼文なんですが過剰ですよね空海の感情が…感情がまだ足らない、まだ足らないと思って『悲しい哉、悲しい哉、悲しい哉、悲しい哉』と書いて『重ねて悲しい哉』って言っちゃったんだと思うんですよね」


悟りを開けば この世の悲しみ驚きは
すべて迷いの生み出す
幻にすぎないことはわかっています

それでも貴方との別れには
涙を流さずにはいられません
(『亡弟子智泉が為の達嚫の文』より)


空海はこの時、52歳、深い悲しみをいだきながらその後も弟子たちと共に高野山の建設を続けて行きました。

大変な難工事だった高野山の伽藍の造営、その建設開始から15年後、智泉の氏から年後、ようやく空海高野山で最初の法要を行います。…天長9(832)年の事でした。

その流れをくむ萬燈会が今も行われています。命ある者すべての幸福を祈る法要です。

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心より言願い申し上げます
その光の偉大なる力によって
すべての者を苦しみからお救いください

宇宙が存在し
生きとし生けるものがある限り
そして救いがもたらされる限り
私は願い続けます
(『高野山萬燈会の願文』より)


この法要を機に空海はもっぱら高野山に籠るようになりました。…そして3年後世を去ります。