NHK さかのぼり日本史
藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか 第2回
生まれたばかりの赤ちゃん…その赤ちゃんは、男か女か…その事が権力構造を決めてしまう時代がありました。
およそ1000年前、絶大な権力を誇った藤原道長の時代です。…道長が日々の政務を記した日記『御堂関白記』この日記には、他の貴族には無い大きな特徴がありました。
「中宮産気づく」「午の刻、臍の緒を切る」…天皇に嫁いだ娘が皇子を産む記録を詳細に残しているのです。…道長にとっては、娘が男の子を産む事がお家の一大事でした。
道中の築いた威光は、息子・頼通にも受け継がれ、その権勢は天皇をも凌ぐほどだったといわれています。…道長はいかにして長期安定政権を築く事ができたのか…藤原氏に繁栄をもたらした道長の戦略に迫ります。
強運に恵まれた道長
運が味方した道長の出世
9世紀後半以来、藤原氏は天皇を後見、補佐する摂政・関白の地位を100年に渡って受け継いできました。
康保3(966)年、道長はその名門の家に生まれます…当時、道長には摂政、関白となる兄が2人もいたため、その地位は望むべくもありませんでした。
長徳元(995)年、道長の運命を変える出来事が起こります…都を疫病が襲い、関白となっていた兄の道高、もう一人の兄・道が相次いで亡くなったのです。
更に政権を担当する有力な公卿も次々と亡くなり、道長は、兄・道高の子の伊周(これちか)に次いで政権№2の座に付きます。
その翌年、道長には、またしても幸運が訪れました…出世争いの最大のライバルだった伊周が時の上皇に矢を射かけるという事件を起こしたのです。
子の結果、伊周は大宰府に流罪となり失脚、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格しました…労せずして政権のトップに立ったのです。
権力の源
天皇の外戚を目指す
左大臣になった道長は、政権を揺るぎないものにするため自ら動きます…娘の彰子を一条天皇に嫁がせたのです。
将来、自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば道長の血をひく天皇が生まれる事になります。…しかし、この時既に、一条天皇には中宮(正室)定子がいました。
定子への天皇の寵愛は深く、足繁く通っていました…一方、道長の娘・彰子の元に天皇は寄り付かず、嫁いでから5年が過ぎても彰子は一向に身ごもる気配がありませんでした。
そこで道長が出した切り札が女流作家として宮中で評判となっていた紫式部でした。
道長は、紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養う事で一条天皇の気を引こうとしたのです…ある日の事、一条天皇が彰子の元を訪ねてきます。
天皇は、式部が揃えた珍しい書物を前にこう言ったといいます。
「あまり面白がっていては、祭りごとも知らぬ愚かものになってしまう…しかし、どれもこれも素晴らしいものばかりだ」(『栄花物語』より)
以後、天皇は彰子の元へ通うようになって行きました…。
寛弘5(1008)年、彰子の入内から9年、ついに一条天皇との間に道長待望の皇子が生まれました…敦成親王、後の後一条天皇です。
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「道長は、幸運を通り越して強運です。…政権トップに付いたのもそうですが、まず娘を天皇に嫁がせ、皇子が生まれる。皇子が即位して天皇になると自分は外祖父として摂政関白になって天皇を後見する…これが最も強い形でこれを道長は狙ったのです」
「しかし娘・彰子の有力なライバル定子がすでにいたのです…更に定子には才女・清少納言が付いていた…一条天皇という人は教養が高かった…自然、好みの女性も教養の高い女性……この劣勢を挽回すべく白羽の矢が立ったのが紫式部がったのです…式部は期待通り、彰子を教育し、教養を高め一条天皇の寵愛を受ける事になったのです」
「当時の美女の基準は、顔の造作はあまり言っていません…平安美女の三要素は、1.漢詩が読める、2.和歌が上手、3.黒髪で長いこと…」
道長の絶大な権勢
長和5(1016)年、後一条天皇が即位します…ついに天皇の祖父となった道長は、絶大な権勢を振るうようになります。
当時の道長の威光を物語るエピソードが残されています。(『小右記』)
この年、道長の邸宅の一つ、土帝邸が火災で焼失します…すると貴族、国主たちが競って邸宅の再建を請け負ったのです。…費用も彼らの負担で賄われました。
2年後、邸宅が完成すると国主の一人、源頼光が家財道具一式を献上します…当時の貴族の日記からは、頼光の家から土帝邸まで1キロに渡って贈り物が列をなしたとされています。
寛仁元(1017)年、もはや並ぶもののない権勢を手に入れた道長は、摂政の座を長男・頼通に譲り、外戚政治の仕上げにかかります。
翌年道長は、三女・威子を自らの孫の、後一条天皇と結婚させたのです。…威子に皇子が生まれ、天皇となれば更に道長は、外戚として長期にわたって権力を維持する事が可能となります。
何代にも渡って自分の血をひく天皇を出す…それが道長のとった戦略でした。…三女・威子が後一条天皇の皇后となったその日、道長は祝いの宴で歌を歌います。
この世をば
我が世とじ思ふ望月の
欠けたることも
なしと思へば
(この世は、私のためにあるようなもの…満月が欠ける事なく完全なものであるように、私の思うようにならない事は一つもない)
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「当時としても尋常ではありませんね…三女を入れます…四女も次の天皇に入れてるんです。…つまりこれは叔母と甥の結婚を二段構えでやってるんです…道長自身もそんな事は普通じゃないとわかっていたけど、権力のためにやったんです」
権勢を極めた道長は、政権にかかわる上級貴族たちを意のままに操りました…道長との結びつきを強める為、上級貴族たちの多くが姻戚関係を結ぼうとしました。
道長の政権を支えた四納言といわれる4人の有能な公卿たち…その内の3人は、道長の息子と娘を結婚させ関係を強めようとしたのです。
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「道長の時代はプラスの良い時代だったと思います…それまでの藤原氏は、とにかく権力を握ろうと相手を追い詰め反感を買うわけです…しかし道長には余裕があったとおもいます」
「道長が成し得た事は、道長の系列に(子孫)摂関家が固定した…摂関家という家柄が定まった。…それと文化の問題、道長の存在なくして紫式部は源氏物語を書けなかった…道長により娘・彰子の教育係に上がった事で式部は摂関家とか天皇家の生活を知ったのです…それが源氏物語の内容そのものです」
「平等院など今日に残るもの無くなったもの沢山ありますが道長が安定政権を作ったからこそ今日まで引き継がれていると考えます」