決断の日本史 1443年10月 一休、後小松上皇と会う
実父と死別し、「風狂の禅僧」誕生
歴史上有名な天皇御落胤(ごらくいん)といえば、一休禅師(1394年~1481年)である。彼が後小松天皇の皇子だったのは間違いなく、晩年を過ごした酬恩庵(京都府京田辺市)には「宗純王墓」があり、宮内庁が管理している。
彼が皇位から遠ざけられた理由の一つは、母が南朝方の公家の娘だったからである。最高権力者の足利義満は南北朝の合一をなしとげたばかりで、南朝の血を引く一休に圧力をかけた。
伝記『一休和尚年譜』によると、彼が産声を上げたのは民家で、6歳のときに出家させられた。複雑な出自を彼自身、どこまで自覚していたか。しかし彼には、たぐいまれな才能があった。詩歌や書などである。
一休は22歳のとき、近江国堅田(大津市)の祥瑞寺にいた華叟宗曇(かそうそうどん)に入門した。華叟は純粋でまっすぐな一休をかわいがり、厳しく教えた。2人の関係は周囲もうらやむほどだった。『年譜』には、夜は琵琶湖畔の漁師小屋で座禅し、昼は京都で手づくりの雛人形を売って日々の糧を得たとある。
正長元(1428)年、師が亡くなり、父の跡を継いでいた弟の称光天皇も崩御した。5年後の永享5(1433)年10月、今度は後小松上皇が亡くなる直前、一休を院御所に招いた。
上皇は57歳、一休40歳。一休は上皇に禅の奥義を語った。上皇は大いに喜び、父・後円融天皇遺愛の硯と墨を贈った。一本の針すら私有しなかった一休だったが、この硯墨だけは生涯、そばに置いて大切にしたという。
以後の一休の生き方は、「風狂」と呼ばれるにふさわしいものだった。多くの僧の堕落を徹底して批判しただけでなく、森侍者と呼ぶ女性をそばに置いて愛した。およそ禅僧らしからぬ言動だが、残された詩歌とともに、不思議な魅力を放って私たちの心を打つのである。(渡部裕明)
YAhoo!知恵袋 ベストアンサーによると…
一休宗純、いわゆる一休さんは後の後小松天皇(1377年~1433年)、当時の幹仁親王の子どもです。昔はご落胤説という形で真偽は定かではないとされていましたが、近年の研究では当時公家の日記の記述に基づき、親子であったことがほぼ定説となっています。
ちなみに後小松天皇は第100代の天皇で、南北両朝に分かれていた皇室が北朝系に統一されたときの天皇であり、南北朝・室町時代のキーパーソンの一人ですね。