NHK タイムスープハンター 「のろしの番人」
タイムスクープ社:タイムワープ技術を駆使しあらゆる時代にジャーナリストを派遣し人々の営みを映像で記録しアーカイブ計画を推し進めている機関である。
今回の調査は、西暦871年(貞観13年) にタイムスクープハンター沢嶋雄一が送り込まれました。・・平安時代が始まって80年・・主な権力者は、太政大臣 藤原良房、政治的には当時の中国にならって律令制(律・令という法律に基づく中央集権的な制度)
租庸調という厳しい租税制度は民衆にとって大きな負担となっています・・注目すべきは外交です。唐・新羅・渤海といった周辺諸国との交易が行われ交流が盛んでした。
九州の沖合にある対馬、今回の取材対象者は 「のろしの番人」 煙や火でのろしを上げて緊急情報を伝えていた。
平安時代のろしは、烽火(ほうか/とぶひ)と呼ばれていて情報を伝える手段として抜群のスピードを誇っていたのです。・・この時代周辺諸国との交易が盛んになると対馬海域一帯では、それを狙った海賊船が頻繁に出没していた行き交う船を監視し、海賊船を見つけたらただちにのろしを上げる、それが彼らに与えられた任務であった。
上げられたのろしは、九州を管轄する特別行政機関、大宰府までリレーで伝達するシステムになっていた。・・この海に常駐し海を見張る彼らを 「烽子」(ほうし)と呼び任務は3年、国から課せられた労役であった為、報酬などは無い。
船を見つけると海賊船かそうでないか彼らにとってもっとも緊張がしいられる時だ・・・。
のろしの本数
使節船・交易船 : 1本
海賊船の場合 : 2本
船は、交易船と判断されすぐに1本ののろしが上げられた・・対馬北西部の海辺から上げられたのろしは、井口嶽・御嶽・黒蝶山・天神嶽・大山嶽・白嶽・荒野隈・竜良山と対馬の島内の中継ポイントを経て海を渡り、壱岐・肥前国・筑前国で最後に大宰府に到着したのです。
当時、大宰府は外国使節の接待や海辺の防備、外国商船の貿易管理など対外的な業務を司っていた・・こののろしの知らせを受けた事により、唐からの民間交易船を出迎える為、たたちに準備体制に入る事ができたのです。
彼らの生活には厳しい現実があった律令体制の下で庶民たちには租庸調という厳しい税が課せられていた。お金ではなく物を献上したり、土木工事や兵役など労役が課せられていたのです。烽子達は、労役が免ぜられる特典があったが過酷な仕事には変わりは無い。
彼ら庶民の主食は、粟や稗などの雑穀中心の貧しいものでした・・。のろしの勤務体制、烽子は二人一組で一日二交代制・・更に烽長(ほうちょう)と呼ばれるリーダーが配属されていた。
彼らの仕事は全て軍防令(ぐんぼうりょう)といわれる軍務に関する法令によって細かく規定されている・・のろしは極めて重要な通信手段である・・外敵からの襲来に備える為の軍事的監視システムだったからだ。
タイムスクープハンター沢嶋雄一が取材する11日目、夜に事件が起こる・・船が発見され海賊船と判断、直ちに2本ののろしが上げられるがそれは間違いだったのです・・翌朝、間違いを犯した二人の烽子は、役人に連行される。
のろしの合図一つで軍と多くの人員が動くのだ・・厳しい咎めが彼らを待っている。
罰則規定:
・船の見落としや誤認など 労役刑2年
・重大な損害が生じた場合 絞首刑
しかし・・実は、二人の判断は間違いでは無かったのです・・。
その後、なんと海賊が襲ってきたのです・・海賊と烽子達の弓矢による銃撃戦が始まります・・海賊がのろし台乗っ取ろうとしますが烽子達は弓矢で応戦・・傷を負いながらも2本ののろしを上げます。・・信号阻止に失敗し、のろしによって軍船が駆けつけてくると判断した海賊たちは、逃げて行きました。
彼らの活躍により海上での大規模な戦闘は避けられたのです・・連行された二人の烽子も無事解放されました。
どんな困難にもめげず与えられた任務を命がけで守った烽子達、歴史の中で名もなき彼らに光が当たる事はない・・だがその姿が私の心に焼き付いたのは、事実である。
「その後の調査によると彼らは3年間の任務を全うした・・元の仕事に戻った後、再び厳しい租税が待っていた・・それでもなお仕事に精を出し懸命に時代を生き抜いたという」
■なんか・・いい話ですね・・非常に文章にしづらかったんですけど・・楽しんでいただけましたでしょうか。・・(笑)