(レーニン)
ロシア革命
6600万人もの犠牲をともなった
美名の下に行われた粛清の嵐
「国際婦人デー」に当たる1917年3月8日、首都ペトログラードの婦人労働者は、パン不足に抗議するデモを決行・・工場労働者のストライキがこれに呼応し瞬く間に全国的なゼネストへ発展しました。
更に3月12日には兵士達が反乱を起こし「三月革命」が勃発する・・革命運動はモスクワをはじめ各地に波及、ニコライ2世は国会の要求によってやむなく退位・・ロマノフ王朝は終焉を迎えたのです。
ところが革命後の政権は国会臨時委員会が主導した臨時政府に委ねられ、その実権は戦争継続を主張するブルジョワジーよって握られてしまう…一方、ロマノフ王朝打倒の原動力になった革命勢力は、労働者と兵士の代表者からなる革命指導組織「ソビエト」を再編ソビエトという二重権力体制が誕生しました。
この動きを亡命先のスイスから見つめていたレーニンは、3月28日に列車でチューリッヒを出発、敵国ドイツを通過してペトログラードに到着・・なぜ敵国であるドイツがレーニンの帰国を許したかは、革命家レーニンをロシアに送り込み国内を混乱させる狙いがあったのです。
そしてレーニンは、4月17日、「全権力はソビエトへ」というスローガンのもと「4月テーゼ」を発表・・第一次世界大戦からの撤退、地主の土地没収、臨時政府の打倒を訴えた。
更に7月3日にはペトログラードのボリシェビキを率いたレーニンが無政府主義者と共同して武装デモを扇動したが臨時政府の要請を受けた軍隊によって制圧されボリシェビキの活動は法的に禁じられてしまう・・やむなくレーニンは弾圧を避けるために再度フィンランドに逃亡
1900年のスイス亡命以来、17年ぶりに祖国の地を踏んだレーニンは、わずか3カ月でロシアを後にしたのでした。しかし政体が変わっても一向に生活が向上しないロシア市民は臨時政府に対するいら立ちを感じていました。
こうした中、帝政復活を目指すロシア軍事最高司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍が8月27日に臨時政府への反乱を起こしペトログラードに向けて進軍、この時コルニーロフの行く手を遮ったのが革命を守ろうとするボリシェビキとソビエトの有志たちだった。
これ以降、首都防衛を果たしたボリシェビキは急速に支持を集めコルニーロフに裏切られた臨時政府は完全に支持を失います・・こうしてレーニン率いるボリシェビキによる政権奪取への下地が整えられたのです。
フィンランドから密かに帰国したレーニンはボリシェビキの中央委員会で武装蜂起を提起・・10月23日に委員会は武装蜂起を正式方針と定め、11月クーデター決行、臨時政府に代わってレーニンを議長とする新政府「人民委員会議」が成立、すでに臨時政府側の軍隊に戦意は無くあっけなく達成された。
後にレーニンは「ロシアで世界革命を開始したのは、羽を拾うのと同じくらい簡単なことだった」と振り返っている。
共産党による恐るべき大粛清…武装蜂起により奪取した人民委員会議は、第一次世界大戦の対戦国ドイツに即時無併合・無賠償講和を旨とする「平和に関する布告」を定義・・これに対するドイツの回答は、占拠したポーランドなどを併合し莫大な賠償金をロシアに請求するというものでした。
ロシアにとって不利な条件でしたがレーニンは、その条件を呑む形で講和に踏み切りました・・そして1918年3月、領土と人口の4分の1を失うという犠牲を払いながらもドイツとの単独講和を実現させたのです。
一方、前臨時政府が公約していた憲法制定議会選挙が行われた結果、反ボリシェビキ勢力が4分の3以上の議席を獲得・・ボリシェビキが主張する革命政策が否決される事が確実になる。
レーニンは1918年1月に開かれた憲法制定会議の初日、武力で議会を強制閉鎖させるという強硬手段を発動して反ボリシェビキ勢力を追放する。同年7月の第5回ロシア。ソビエト大会では、ともに十月革命を闘った社会革命党左派のメンバーをソビエトから排除しボリシェビキによる一党独裁体制を確立。
1918年にボリシェビキを「ロシア共産党」と改称し、重要産業、銀行の国有化、臨時政府による外債の破棄などを行うがこうした動きに反発する社会革命党系勢力によるテロ行為が頻発し、旧ロシア軍の将軍たちは反革命軍(白軍)を組織して内戦が勃発したのです。
これらの内憂に加え、社会主義政権の拡大を恐れたイギリス、アメリカ、フランス、日本などの連合軍が第一次世界大戦中に捕虜となったチェコ軍兵士の救済を名目に新政権打倒を目指してロシアに侵入するという外患が発生…
これに対してレーニンは、赤軍を創設して反革命勢力に対抗するとともに、「戦時共産主義」とよばれる非常措置をとった。すべての土地、工場を国有化し商業活動を停止して労働義務性を制定・・新たに設立された秘密警察「チェーカー」による反革命分子の摘発と粛清が大々的に断行されたのです。
また農民に対し銃による農作物の強制徴発が行われ、穀物を渡す事を拒否する者はその場で銃殺するという厳しいものでした・・その権限を与えられた調達隊が各地に出向き、都市住民の食料を確保したのです。
こうしてソビエト社会主義共和国連邦が誕生したが、その代償はあまりにも大きかった。政府は1925年まで有効な政治政策を確立していなかったとされ、経済政策はたちまち躓きを見せます。
その結果、餓死者が急増し粛清された者を加えると、この期間の自然死以外の死者数は、少なくとも1400万人に上ると言われています。
政権掌握後のレーニンは、さらに苛烈な政策を断行する・・反対派を粛正する為、密偵、窃盗犯、ならず者、反革命運動家などを即座に射殺するという信じがたい布告を発令…
…自らの権力について「何ものにも制限されない、どのような法律によっても、どのような規則によっても、まったく束縛される事の無い直接的暴力に依拠する権力」であると、公然と発言していた。
またレーニンの独裁による恐怖政治を批判した革命家アイザック・シュタインベルクに対しては、「きみは最も残虐な革命的テロなくして我々が勝利できると本当に信じているのかね」と述べ苛烈極める粛清劇を正当化していたという。
こうした政策は、1924年のレーニンの死後、独裁体制を引き継いだスターリンの下、更に激化した・・『読売新聞』は1997年、「十月革命が起きた1917年から1987年までに6200万人が死亡…
そのうち4000万人は強制収容所で死亡した・・レーニンは社会主義国家建設のために400万人の命を奪い、スターリンは4260万人の命を奪った」・・と記事を掲載している。
労働者と農民による連帯によって封建的な王朝を打倒し、史上初の社会主義国家を樹立した社会主義革命と信じられてきたロシア革命は、「ロシアの正常な発展を妨げた歴史的惨事」 との見方が支配的となっています。
ロシアのドキュメンタリー映画『我々が失ったロシア』(スタニスラフ・ゴウォルーヒン監督)は、次のようなナレーションで幕を開ける 「20世紀初頭のフランス経済学者は、ロシアは20世紀半ばに人口3億4300万人に達し、政治的にも経済的にもヨーロッパに君臨するだろう」 と予想していた。
しかし実際には、1950年の時点でソ連の人口は1億7000万人にすぎず人口が予想を下回った原因の一部は、第二次世界大戦であるが、それ以上にボリシェビキが1917年に自国民に対して仕掛けた戦争・・つまり内戦、粛清、飢餓、集団化が6600万人もの犠牲者を出したからだったです。
つまり、ロシアは、内戦、粛清、飢餓、集団化が6600万人もの犠牲者を出したのです。