旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

伊能忠敬 日本を知らしめた男

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NHK BS歴史館
伊能忠敬 日本を知らしめた男

地図によって日本の姿を初めて世に知らしめた男、伊能忠敬…忠敬が測量の旅に出たのは、隠居中の56歳の時、それから17年、全国を歩き測量を終えた時はすでに72歳でした。

自らの情熱と才覚で第2の人生を切り開いたスーパー隠居です。


伊能忠敬の測量方法
(導線法)
地図作りで一番大切なのは、正確な距離と方位を図る事。
1.まず海岸線に沿った二つの地点に棒を立て距離を測量
2.次にコンパスを使って2地点の方位を測る(線の角度が真北から何度ずれているかを正確に読み取る)

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3.後はこれを繰り返えし、線を順々につないで行けば海岸線の地形が描けるのです


世界を驚かせた日本地図
伊能忠敬のコツコツ人生

初めて正確な日本地図を作った伊能忠敬、その偉業達成の原動力は、忠敬の前半生ありました。

江戸時代の中頃、伊能忠敬は、現在の千葉県佐原で70人の使用人を抱える大きな造り酒屋を営んでいました。

しかし婿養子として入った身の上、家業を廃れさせまいとがむしゃらに仕事に打ち込む毎日、…唯一の息抜きは、子供の頃から好きだった暦や日食・月食など天文学に関する本を読む事。

忠敬は持ち前の根気でコツコツと資金を増やし、家業を順調に拡大、ついには現在の60億円にも上る資産を築き上げたのです。…しかし、ふと気が付けば齢50になっていました。


日本地図 伊能忠敬
50歳からの再スタート

この時、忠敬は一大決心をします。好きな天文学を極めるため、江戸に出る事にしたのです。…当時、江戸・浅草には、天体観測を司る、幕府天文方が置かれていました。

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天文方に課せられた最大のミッションは、より正確な暦、つまりカレンダーを作る事、…その為、日夜緻密な天体観測が行われました。

忠敬はこの天文方にいた当代随一の天文学者高橋至時(31歳)に弟子入りします。なんとこの師匠は19歳も年下でした。

江戸・深川に移り住んだ忠敬、まず天体観測の基礎、道具の扱い方から習熟しなければなりませんでした。商売で蓄えた資金を惜しみなく使い、自宅に天文台まで設けます。

師の教え通り、毎晩天体観測を続けます。最初は年寄り道楽と軽く見ていた至時も次第にその熱意に打たれて行きます。…当時、幕府・天文方には大きな課題がありました。

それは、より正確な暦を作るために地球の正確な大きさを知る事でした。…しかし地球は丸いという認識はあっても、その大きさについては曖昧のまま。

地球の一周はどれくらいなのか…忠敬は日本にも伝わっていた緯度を使った計算法を実践します。

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地上で緯度がずれた2つの地点の距離を正確に測り、それを360倍すれば地球の大きさになる。(緯度1度の距離×360=地球の大きさ)

忠敬が持っていた深川の自前の天文台と幕府の浅草の天文台の2ヶ所の緯度の差を知っていました。…その差0.025度…それでこの間の距離を求めるべく、深川から浅草までの距離を歩いて測ったのです。

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忠敬は、この0.025度の距離を2キロ半と結論付けました。これを元に忠敬が導き出した地球の外周は、35,200キロ…喜び勇んですぐに師匠に報告しました。

師匠・高橋至時
「幕府の許可なく地形を測ってはなりません。短い距離だと誤差が大きくなる、地球の大きさを測るにはせめて、江戸から蝦夷地までの距離は必要だ」

しかし、当時、幕府は人々の自由な移動を禁じていました。…そこで至時はある方法を思いつきます。…「忠敬に蝦夷地の地図を作らせればいい。」

この企てを時代も後押ししました。この頃、蝦夷地近海には大国ロシアの船が頻繁に出没、通商を求め幕府に圧力をかけていました。…危機感をいだいた幕府は、国防のため蝦夷地の正確な地図が必要と判断、ついに忠敬の蝦夷地行きを許可する事になったのです。


伊能忠敬
決死の蝦夷地測量

幕府から支給された資金は、必要経費の2割に満たず、測量はほぼ忠敬の自費でした。

寛政12(1800)年閏4月19日 忠敬56歳、江戸・深川を出発…遥か蝦夷地まで一定の歩幅で歩いては距離を計測、1日平均40キロのペースで進みました。

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伊能忠敬『測量日記』国法)
測量日記に蝦夷地測量の過酷さが事こまかに書かれています。

「次々と難所に差し掛かった」
「草鞋が切れてしまい素足となる」
「大変困窮」
「暗がりに一つの提灯、これこそ地獄に仏なり」

蝦夷地測量は、往復3200キロ、180日間に及ぶ過酷な旅でした。江戸にもどった忠敬は、長い時間をかけ念願だった地球の大きさの計算に取り組みます。

測量結果を元に割り出した緯度1度の差は、28里2分(111キロ)でした…これを360度に換算すると地球の外周は、39,960キロ…ほぼ4万キロと弾き出されました。

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更に高橋至時がオランダから手に入れた最新の天文学書と比較、なんと忠敬が計算した数値はこの本のデータと一致したのです。…忠敬の数値は現在判明している地球の外周の長さと比べても1000分の1の誤差しかない正確なものでした。

そして忠敬は幕府が求めた蝦夷地の地図を書き上げました。南側の海岸線の曲線部分は現在の地図とほぼ一致しています。また数多くの地名が正確な位置に詳細に記されました。

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当時の蝦夷地の地図とはまったく異なるものでした。これを見た幕閣たちは出来栄えに感心し、忠敬に他の地域の測量も命じるのです。

 

伊能忠敬
世界を驚かせた日本地図

蝦夷地の地図の正確さに驚いた幕府は、続いて東日本の地図作りを命じました。忠敬は再び各地を測量しながら歩き続けました。…3年の歳月を経た、文化元年、詳細な東日本の地図が完成します。

文化元(1804)年 その地図が、第11代将軍・徳川家斉に披露されました。そこには幕府のおひざ元である江戸湾の周辺、外国船が度々姿を見せていた伊豆半島、遥か佐渡島まで正確に書かれていました。

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将軍・家斉はこれを高く評価、忠敬は幕臣に取り立てられます。これ以後、幕府の直轄事業として残る西日本の測量が進められるのです。…その規模がいかに大きかったか各地に記録が残っています。

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(瀬戸内の測量の様子を描いた史料)
幕府公認の測量を支援するため、多くの地元の船がかりだされています。…忠敬たちは地元の有力者の豪華な家に宿泊する事が多かったといいます。

四国に渡り、宇和島でも811人、94艘もの船が測量に参加していました。…山口県徳山藩の記録には、藩が測量隊の食事の好みにも気を配った記録が記されています。

「7月15日、夏バテ気味、鰻のかば焼きを振舞う」

九州・長崎県対馬市…ここでは延べ5万人が動員され、53日間かけて測量が行われていました。

測量隊を迎えた沿道の宿場町や村々の提供した労力は膨大で経費は巨額に上ったと言われます。…これすべて公用のため、地元藩が負担、幕府からお金が支払われる事はありませんでした。

西日本の測量は、延べ12年間、3万キロにも及び150の藩が協力しました。忠敬が個人で始めた事業がいつのまにか江戸後期、最大の国家プロジェクトへと発展していったのです。

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「もう西日本を測量する頃になると伊能さんはかなりの有名人で、しかも彼が持っている技術は垂涎の的なんです。地元の庄屋クラスになると 『自分は伊能さんにあった。こんな会話をした』 など全国至る所で古文書に記されています。

こんなに伊能さんは記録されているのかと思うくらいです。天草の庄屋さんの家で見たんですが、なんと伊能忠敬が来たら手ぐすねで待っていまして三角関数を教わろうとしていたんです。

ですからリスペクトというか伊能さんに対する尊敬心が藩や村々にあったと考えます。」

司会 渡辺真理
「きたー! …って感じなんでしょうね」

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伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺一郎
徳山藩には1000人の測量チームが乗り込んでいます。徳山藩みたいな小さな藩は大変ですよ。…しかし各藩、幕府の命令ですから ”出兵しろ” と同じなんです。測量のサポートしろというのは、何百人兵を揃えよ…と同じ事なんです」

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「1000人で乗り込むなんて当時の大名行列ぐらいですよ…1000人なんて相当大きな大藩クラスですよ」

コラムニスト 天野祐吉
「地図が意識を作るのです。国民は国家とは何かを地図によって意識させられたと思いますよ…国旗もそうです。日の丸で民族意識が生まれるんです」


70歳、それでも歩く!
伊能忠敬 4万キロの集大成

56歳で測量を始め、日本全国をひたすら歩き続けた伊能忠敬、…測量がすべて終了した時、忠敬は、72歳になっていました。

全測量の工程日数:3727日
踏破した距離:4万キロ
かつて忠敬が弾き出した地球と同じ距離に達していました。

文化13(1816)年、江戸に帰った忠敬は、各地の地図をつなぎ合わせ、日本地図を完成させる作業に取り掛かります。…しかし、その途中、突然の病に倒れ世を去ります。

伊能忠敬 死去 享年74

その後、弟子たちは忠敬の死を公表しないまま地図の完成作業を続けました。…「この地図は、伊能忠敬先生が作ったもの」 世間にそう伝えたかったからだと言われています。

文政4(1821)年7月10日、弟子たちによって日本初の実測による正確な地図、『大日本沿海輿地全図』 が完成、幕府に上納されました。

そのあまりの精密さゆえ、伊能図は幕府の国家機密として厳重に保管されました。それから僅か7年後、ドイツ人医師シーボルトが幕府の天文方を通して入手した伊能図の写しを国外に持ち出そうとした事件が起きました。

シーボルト事件です。…これによってシーボルトは国外追放、伊能図は当時の外国人の誰もが知り得ないほど精密に描かれた日本地図でした。

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幕末、日本に開国を迫ったペリーも目にした伊能図があまりにも正確である事に驚いたと言う事です。…世界を感嘆させた忠敬の地図、忠敬は晩年こう語っています。

「日本国中、測量したことは
 …私の天命でした」


司会 渡辺真理
静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
伊能忠敬研究会名誉代表 渡辺一郎
コラムニスト 天野祐吉