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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

アリアンに載せる夢 激動の欧州宇宙開発

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NHK COSMIC FRONT コズミックフロント
アリアンに載せる夢 激動の欧州宇宙開発

 

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ギアナ宇宙センター アリアン5ロケット)
2013年6月5日、ヨーロッパが誇るアリアンロケットの打ち上げです。…打上げは通産213回目、1979年初号機から改良を重ねてこのアリアン5が最新式です。

アリアンの打上げは平均月1回、打上げ成功率は94.7%と信頼性は世界最高水準です。…アメリカのスペースシャトルなき後、国際宇宙ステーションへの補給物資を大量に運べる貴重な存在となっています。

今や商業衛星の打上げ市場で60%近くのシェアを誇るアリアン、このアリアンにはヨーロッパが宇宙を合言葉に意思統一をした夢が込められています。その知られざる歴史をひもときます。


Front1
衛星市場をリードせよ

フランスパリ郊外のブルジェ空港、2013年6月パリ航空宇宙ショーが開かれました。2年に1度開かれるこのショーは、100年以上の歴史を持ち、今年で50回目、50カ国から2000社を超えるメーカーが出展します。

航空機のエンジンからミサイルまで民生用と軍事用の製品が隣り合わせに展示されています。このショーでひときわ目立つのがアリアンロケットです。

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欧州宇宙機関ESA)が誇るアリアン5です。ESAはヨーロッパ19カ国が加盟する宇宙機関です。ESAは衛星の用途を新たに開発し性能高める事で、更なる打上げ市場の拡大を狙っています。

ヨーロッパの宇宙開発はロケットと共にありました…しかしこの信頼を確立するためには紆余曲折の歴史があったのです。


Front2
ミサイルからロケットへ

第2次世界大戦当時、ドイツ軍はV-2と呼ぶ最新鋭のミサイルを開発していました。1トンの弾薬を搭載できる新兵器です。

V-2はロンドンに1000発以上発射され、人々を恐怖に陥れました。終戦間近、連合国軍はV-2の最新技術を手に入れようと躍起になっていました。

そうした中でV-2の開発の中心となって進めたエンジニアがアメリカに自ら投降します。ヴェルナー・フォン・ブラウンです。

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学生時代からミサイル開発に携わり、ドイツ軍に引き抜かれV-2を開発しました。後に彼はアメリカのアポロ計画で巨大ロケットの開発を行いアポロ成功の立役者の一人となります。

一方ソビエトはV-2の開発に関わったドイツ人技師を100人以上捕虜にして独自のミサイル開発に着手します。…戦後、原爆から水爆にエスカレートする米ソの冷戦と歩調を合わせるようにミサイルの開発競争は激しさを増します。

ヨーロッパではフランスがドイツ人技師からミサイル開発を学びます。1950年代には小型ミサイルの開発が急ピッチで行われました。

こうしてドイツのミサイル技術は、アメリカ、ソビエト、フランスへと拡散して行ったのです。ミサイル開発が過熱する中、ソビエトはミサイルの技術を使って世界をあっといわせる打上げに成功します。

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1957年10月4日、初の人工衛星スプートニクです…地球を周回する軌道に乗り、96分で地球を一周しました。スプートニクからは電波が発信され、その電波は世界各地で受信されました。

ミサイルの技術を使って人工衛星を宇宙に送りだすことで宇宙利用の可能性を切り開いたのです。新たな宇宙開発競争の幕開けです。

ソビエトに先を越されたアメリカは、早急に人工衛星を打ち上げる戦略に出ます。3ヶ月後の1958年1月、人工衛星の打上げに成功します。アメリカもミサイルを転用する方法をとりました。

こうして宇宙を舞台に国力を誇示する新たな時代を迎えたのです。先行する米ソを見てヨーロッパでも宇宙開発への関心が高まってきます。

1964年2月、欧州ロケット開発機構(ELDO)が発足します…集まったのはイギリス、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダの6カ国です。

この発足を呼びかけたのはイギリスです。イギリスは1950年代半ばから大型ミサイルの開発を進めていました。

航空宇宙史研究 ジョン・クリッジ
「… そのイギリスがヨーロッパ各国声をかけたのは、イギリスは独自で大型ミサイルを開発するのは不可能だと結論を出します…財政的に重すぎたのです。

開発を中止する事も考えましたが何かほかに利用できないか考えたのです…何故かと言うとすでに6000万ポンドもの巨額な予算をつぎ込んでいたからです。

そこで大型ミサイルではなくヨーロッパロケットの1段目に転用しようと考えたのです。…」

ELDOはロケットを開発するにあたり、各国の技術を持ちよる方式を採用しました。
1段目イギリス
2段目フランス
3段目西ドイツ
…と各段を各国が担当、これをヨーロッパ1と名付けました。

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第1段ロケットは、イギリスの思惑通り、開発中の大型ミサイルのエンジンを転用する事になります。ロケット全体を持ち上げる大きな推進力を持ったエンジンは、ヨーロッパではこれしかありませんでした。

第2段ロケットを担当するフランスは、軍が開発していた弾道ミサイルのエンジンを提供します。

第3ロケット担当の西ドイツは戦後、ミサイル開発を厳しく禁じられてきましたが高い技術力が買われて第3段ロケットで参加する事になりました。

それぞれの開発は、各国研究所で各国主導で進められました。

人工衛星の開発はイタリアが担当、ロケットを打ち上げた後、衛星を追跡するのはベルギー、オランダの基地が行う事になりました。

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1回目、1968年11月、いよいよ前段を組み合わせての初打ち上げです。各国で行われた個別のテストではイギリスの1段目ロケット、フランスの2段目ロケットも成功していました。しかしこの打上げでは、3段目ロケットのエンジンの燃焼が中断してしまい、失敗です。

2回目、1969年7月、3段目ロケットが不完全燃焼、またしても失敗。

3回目、1970年6月、3段目までは成功するものの、最後の衛星格納部の切り離しに失敗してしまいます。

なぜ全段を組み合わせると失敗してしまうのか…

ヨーロッパ1 開発責任者 レイモンド・オリ
「失敗の原因で最も大きかったのは、打上げ全体を統括するシステムが無かったことです。誰が責任を負うのかハッキリしていなかったのです。格段の問題ではなく、全体をどうコントロールするかだったのです。」

ロケット開発に取り組んだものの全体としては成功の目処がたちません。このままでいいのか各国の間で不満がくすぶります。

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航空宇宙史研究 ジョン・クリッジ
「… やがてELDOのロケット開発には金がかかり過ぎるとイギリスが言いだします。金ばかりかかり何ももたらさないと…イギリスは完全に手を引いてしまいます。

もしロケットが必要なら、アメリカから買えばいいじゃないかと考えたのです。ところがフランスはアメリカに対していつも警戒していました。

アメリカが宇宙開発の分野を独占した上、打上げ手段までコントロールするようになれば、自分たちは宇宙に人工衛星を打上げる権利さえ持てないのではないかと疑っていたのです。…」

4回目、1971年11月、イギリスが撤退したELDOでは、ヨーロッパ1の成功を見ないまま、ヨーロッパ2の開発に移行します。しかし2段目ロケットの切り離しに失敗します。

この失敗はヨーロッパ各国の間に深刻な不協和音を生み出します。当初の結束は乱れ、残されたのは、フランス、ベルギー、西ドイツの3カ国でした。


Front3
ヨーロッパの屈辱

ヨーロッパの足並みが乱れる中、アメリカとソビエトの間の宇宙開発競争は加速します。アメリカは人工衛星を通信に利用する技術を生み出します。

人々はテレビ画面に映し出される地球の裏側の映像に宇宙開発の恩恵を初めて実感します。衛星を高い所に上げ、電波の送受信機能を持たせると国境越えた通信が24時間可能になるのです。

その為には、今まで衛星を上げていた低い軌道の100倍高い、地球から3万6000キロ彼方の軌道に衛星を運ばなければなりません。

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つまり通信衛星を実用化したアメリカは、より高度なロケット打上げ技術を開発していたのです。

航空宇宙史研究 ジョン・クリッジ
「… アメリカから通信衛星が打上げられるとヨーロッパは、 ”これだ宇宙開発の目的は” と納得したのです。アメリカに追いついて競争しなければダメだ…これからは通信衛星の時代だと分かったのです。…」

しかしヨーロッパには相次ぐ打上げ失敗で挫折感が広がっていました…その空気の中で一人、気を吐いていたのはフランスでした。…フランスは核抑止力を高めるためのミサイル開発を軍が独自に進めていたのです。

この技術をてこに1962年、軍とは独立した組織、フランス国立宇宙研究センター(CNES)を創設します。そしてロケットの技術開発や人工衛星の研究開発を行っていきます。

元フランス国立宇宙研究センター長官 フレデリック・ダレスト
「… ドゴール大統領がCNESを創設したのは、スプートニクが打ちあがり人類が初めて宇宙に旅立つ頃でした。その頃から大統領は、宇宙開発は軍事だけにおさまらないものとして理解していました。

通信、テレビ、地球観測など実用性の面からも重要と考えたのです。したがってCNESは軍から独立した組織の形を望んだのです。…」

CNESはロケットの打上げ基地を今まであった北アフリカアルジェリアから南米のフランス領、ギアナに移す事を決め、新しく発射基地建設を始めます。

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キアナは、ほぼ赤道直下にあります…ロケットを打上げるには赤道に近いほど有利、地球の自転による遠心力を利用し、燃料を節約できるからです。

フランスはギアナ宇宙センターの建設を進めるとともに、通信衛星の開発を西ドイツと組んで1960年代後半からスタートさせます。

通信衛星シンフォニーです…最新の姿勢制御技術を搭載した画期的な衛星、1972年に完成、独自の通信衛星を持たないヨーロッパにとってシンフォニーは期待の星でした。

衛星通信の威力は既にアメリカが実証しています。世界の情報を一瞬にして手にする事ができ、政治的にも経済的にも圧倒的に優位に立つ事ができるのです。

シンフォニーが打ち上がればヨーロッパとアフリカ、中近東が国際通信で結ばれます。しかしヨーロッパには打上げるロケットがありません…そこでフランスが検討したのが意外な選択肢でした。

当時フランスは、米ソの冷戦に対し一歩距離をおき、独自の外交を展開していました…1960年代には、ソビエトと産業文化の分野で協力を進め、宇宙開発協定を結んでいました。

その縁でソビエトソユーズロケットを使って打上げる事を考えたのです。

シンフォニー衛星開発責任者 ベルナール・ドゥロッフル
「… 打上げの交渉は始めはとても上手くいきました。しかし大きな問題に突き当たったのです…ソビエトは我々が打上げ基地に入る事を拒否したのです。

そうなると我々が衛星をコンテナに積んでモスクワに行き一度組み立ててテストをします。その後、分解しソビエトに引き渡さなければなりません。彼らはそれを打上げ基地に持って行き、再び組み立てて打上げるのです。

これにはフランスも西ドイツも了承しませんでした…この時点で交渉はストップです。…」

フランスや西ドイツは衛星の最新技術をソビエトに見せたくありません…ソビエトは発射基地の場所、設備を見せたくないのです。

もはや頼れるのはアメリカしかありません…しかしアメリカともシンフォニーの打上げ交渉を始めると思いがけない壁にぶち当たります。

シンフォニー衛星開発責任者 ベルナール・ドゥロッフル
「… アメリカとの交渉も初めはかなり簡単に進みました…そして契約書の原案が作成されました。

ところがフランス外務省がその原案を了承できないと言ってきたのです。なぜならその原案には、フランスと西ドイツは、インテルサット協定第14条遵守すると記載されていたのです。…」

インテルサット協定とは、通信を運営するアメリカの組織、インテルサットが取り決めた国際間条約です。1964年、通信衛星の将来性を見込んだアメリカが呼びかけ、日本、オーストラリアなど11カ国が加盟していました。

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フランス、西ドイツもインテルサットの一員です。実はその事が仇となって帰って来たのです。

インテルサット協定の第14条には、…「競合する通信衛星の事業を興す時には、協議をしなければならない、それはインテルサットの利益に損害を生じさせないため」 とありました。

つまり、フランス、西ドイツがシンフォニーを実用化すればこの14条に違反する事になるのです。

アメリカはインテルサットで国際通信網を世界中に張り巡らせていました…これによって通信衛星のビジネスチャンスを独占的に囲い込んでいたのです。

今、打上げなければ時代に遅れてしまう…結局シンフォニーはアメリカのロケットで打ち上げられました。… ”実用化しないという約束で” …。

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皮肉な事にヨーロッパ、アフリカ、中東を結ぶ通信テストは成功し、衛星は完璧に機能しました…フランス、西ドイツにとっては屈辱でした。

これを機にフランスは自分たちの手でロケットを持つ事に執着し、新しいロケットの設計に着手する事になります。

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Front4
ヨーロッパの結束を図れ

アメリカは有人月面着陸を果たした1969年に、未来に向けてポストアポロ計画を立ち上げます。そしてヨーロッパにも参加を持ちかけました。

ポスト・アポロ計画は、スペースシャトルを開発し、宇宙ステーションを作るという壮大なものでした。

ヨーロッパにはまだ自分たちのロケットすらありません…威光に満ちたアメリカの提案を前にヨーロッパ各国はたじろぎます。

その頃、ヨーロッパのロケット開発といえば、一人固執するフランスとそれを支持するベルギーの2カ国だけになっていました。

この状況を打ち破り、ヨーロッパ宇宙開発の道筋を付けた一人が当時ベルギー科学研究大臣、シャルル・アナンです。

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(シャルル・アナン)

1973年7月、ベルギーの首都ブリュッセルでヨーロッパ閣僚宇宙会議が開かれました。その議長だったアナン、会議はポーカーゲームのようだったとアナンは振り返ります。

各国の大臣は、まず相手の手の内を知ろうと自分からは、カードを切りません。…誰もが沈黙を決め込んでいました。

アナンはヨーロッパが一丸となる重要性を訴えます…各国が国内総生産GDPに応じた拠出金を出し合い、開発はフランスのCNESで一本化する案を提出しました。

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しかし全体会議では進展はなく、アナンは各国の大臣と一対一の交渉を夜を徹して行います…個別会談で先にカードを切ったのはアナンでした。

”小さな国ベルギーが開発の5%を負担するから、何とか応じてくれ” …各国はアナンの熱意に動かされ提案を受け入れていきます。

そして新たにヨーロッパの各国が参加する宇宙開発機関(ESA)が誕生するのです。…ポーカーゲームに勝ったのは先にカードを切ったアナンでした。

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(シャルル・アナン ヨーロッパ閣僚宇宙会議)

ヨーロッパの再挑戦が始まります…新しく開発するロケットは、ギリシャ神話の女神に由来するアリアンの名が付けられました。

紆余曲折を経て一体化したESAそこで開発するアリアンロケットには、どのような設計思想が求められたのでしょうか。

CNESのエンジニアとしてアリアンの開発に携わったジャン・ピエール・モラン氏です。

ギアナ宇宙センター副所長 ジャン・ピエール・モラン
「… あえて表現するならアリアンはスーパーカーではなく大衆車だと、我々の責任者が言ってました。…大衆車でいいから必ず宇宙に到達しなければならない。

90%以上の信頼性です…我々の目標でした。…」

アリアンの開発では、既存の技術を最大限活用して確実性を最優先しました…かつてヨーロッパ1ロケットの2段目として開発したエンジンをアリアンの応用、1段目も2段目も同じエンジンにして共通化を図ります。

更に既存の部品をできるだけ利用してコストを抑えました…アリアンはこうして大衆車として開発が進められて行きます。

そうした中、最大の問題となったのは燃料でした、ロケットの推進剤として使われるUDMHという燃料は今までアメリカからの輸入に頼ってきました…しかしアメリカから突然、供給中止の連絡が入ったのです。

アメリカの嫌がらせです…窮地です…どうするか…アメリカに断られたら残る交渉相手は一つです。

物は試し、ソビエトに打診すると意外な事にYESという回答が返ってきたのです。

1979年12月、ようやくアリアン初号機の打上げを迎えました…ヨーロッパ2の失敗から8年が経過しています。その間に米ソは更に宇宙に飛躍していました。

アリアンの打上げはぶっつけ本番でした…ヨーロッパが自らの力で宇宙へ自由にアクセスできる切符を手にする事は出来るのか。

 

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Front5
クリスマスイブの奇跡

1979年12月15日、ついにアリアンは打上げモードに入りました…ヨーロッパの打上げ開発能力が問われる瞬間です。おそらくこれが最後のチャンスと関係者は思っていました。

打上げには燃料を提供したソビエトの関係者も招待されていました…秒読みが始まります…8・7・6・5・4・3・2・1・点火…1段目ロケットのエンジンが点火しました。

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…???…しかし10秒後、エンジンが停止します。いったい何が…

ギアナ宇宙センター副所長 ジャン・ピエール・モラン
「… とてもビックリしました…それまで順調だったのにがっかりです。エンジンが点火して4秒半後に外れるはずのロックが外れませんでした。

その状態は、カウント10秒後まで続き、ついには4機のエンジンが全て停止して打ち上がらなかったのです。…」

4機のエンジンが停止したのはコンピューターの指令によるものでした。10秒間ロックが外れないとエンジンが止まる仕組みになっていたのです。

原因は安全のために感度を上げていたセンサーが作動してしまったのです…その為、コンピューターがロックを解除しなかったのです…そしてセンサーを再調整して問題を解決したのです。

通常再打ち上げには、1カ月以上かかるところを10日以内と期限が切られました。ロケットの燃料は強い酸性の液体で次第にタンクの強度を劣化させるのです。

1日3交代のシフトを組み24時間体制で間に合わせました…最後の打上げです。

1979年12月24日、クリスマスイブ…ギアナ宇宙センター、準備は整いました。…しかしまた直前で問題が発生、打上げを制御していた3台のコンピューターのうち1台が通信しなくなったのです。

 

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ギアナ宇宙センター副所長 ジャン・ピエール・モラン
「… こんな事は初めてです…多くの技術者が失望し資料をしまい始めました。 ”もう終わりだヨーロッパに帰るんだ” そう思ってました。

土壇場で経験のないトラブルが発生、緊張が管制室の中を走りました…。

それから1時間後、素晴らしいフレーズが聞こえてきました… ”お前の番だガストン” てね。ガストンはコンピューター担当者です。彼こそ情報処理における禁止事項を破れる男だったのです。…」

ガストンはコンピュータのケーブルを引き抜き、つなぎ直すという禁じ手をあえて行いました。すると3台のコンピュータは通信を再び始めたのです。

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(コンピューター技師 ガストンの手には引き抜かれたケーブル)
管制室は歓喜に包まれました…そして5・4・3・2・1・点火…1段目ロケットのエンジンが点火、2段目、3段目のロケットの切り離しにも成功、無事衛星も放出します…アリアンは使命を達成しました。

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(ジャン・ピエール・モラン著『アリランの誕生』)
モランさんがアリランへ思いを込めて書いた著書、その中でこれまで誰にも語らなかった12月15日のある出来事を明らかにしています。

ギアナ宇宙センター副所長 ジャン・ピエール・モラン
「… この事は誰にも知らされない事になっていました…外交上支障が生じるからです。最初の打上げが延期になった直後、海上に2隻の船がいる事に気づきました。

アリランの打上げ軌道の真下ではありませんでしたが切り離したロケットが落下する付近でした。我々は飛行機を飛ばし船と連絡を取ろうとしましたが彼らは応答しません。

まるで幽霊船のようです…船を見ると2隻ともロシア語が書いてありました…すぐに思い当たりました。当時は当たり前のように行われていました。

しかし、この日ソビエトは打上げに招かれていたのです…船の写真をパリの海軍省に送りました。海軍省はその形からアメリカの船である事を確認したのです。

我々はその船の上空を飛行し、 ”君たちの事を確認したぞUSSサンディエゴ号だ” ここからすぐ離れなければ外交問題になるぞと告げたんです。すると船は去って行きました。


Front6
躍進する欧州ロケット

アメリカは、1981年スペースシャトルの打上げにこぎつけます…人類が本格的に足場を築き、宇宙空間を大いに利用するビジョンを謳っていました。

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1986年1月、しかしチャレンジャー号の事故が起こります…打上げ73秒後に爆発、この事故はアメリカの宇宙開発にブレーキをかけます。

1989年、米ソの首脳会談が実現(マルタ島)宇宙開発に大きな転機が訪れます…ベルリンの壁崩壊、冷戦は幕を閉じます。

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それはまた宇宙空間を舞台に凌ぎを削った米ソの宇宙開発競争が終わりを迎えた事を意味しました。

時代の大きなうねりの中でアリアンは地道に人工衛星を打上げ、実績を重ねてきました…その成功のカギの一つがアリアンスペース社にあります。

アリアンスペース社 社長 ステファン・イスラエル
「今年新たに8件の契約が成立しました…これほどの契約を上半期で得た事はありません。衛星打ち上げ市場シェアにすると60%を獲得したのです。」

この企業は、1980年に設立、今や世界各国で人工衛星打ち上げの営業活動をするESAの営業部隊です。ロケットの改良も進み、2台の衛星を同時に打上げられる技術も開発、更なるコストの軽減を図っています。

更にESAは打上げロケットのラインナップの充実を図りました…イタリアが開発した小型ロケット・ヴェガです。

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ヴェガを使えば2トン未満の小型衛星を低軌道へ打上げられます…しかもローコスト、2012年、2013年の2回の打上げに成功し、今後、年4回の打上げ目指しています。

更にアリアンを補完する中型ロケットとしてロシアのソユーズがラインナップに加わりました。

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2010年、ギアナ宇宙センターにソユーズの打上げ専用発射台が作られました…ESAはロシアから17機のソユーズを購入する契約を結び、ヨーロッパ版GPS衛星の打上げに使用しました。

アリランソユーズ、ヴェガ、という大中小のラインナップでESAは衛星打ち上げ市場を席巻しています。

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アリアン誕生への道のりは、ヨーロッパ人の意識の目覚めとそれを自覚するプロセスでもありました。宇宙開発を通じてヨーロッパは、政治の世界より一足早く統合を成し遂げていたのです。

アリアンは、ヨーロッパのシンボルとして明日への飛行を続けます。

 

 

 

 

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