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”カワイイ”に恋して ~中原淳一と”カーネーション”の時代

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中原淳一(1913~1983)

NHK 歴史秘話ヒストリア
”カワイイ”に恋して ~中原淳一と”カーネーション”の時代

世界を舞台に活躍するデザイナー、コシノ三姉妹…ヒロコさん、ジュンコさん、ミチコさんが生まれたのは大阪の岸和田、洋装店を営んでいた母の小篠綾子さんが女手一つで育て上げた娘たちでした。

この小篠家の歴史は、連続ドラマ小説カーネーションのモデルとなっています。…この小篠家に大きな影響を与えたデザイナーがいます…中原淳一です。

昭和の初め全国の少女たちの間で空前のブームを巻き起こした人気雑誌がありました…小説などを載せた月刊誌、少女の友です。

異彩を放っていたのが表紙の少女の大きく輝く瞳、それまでの少女の絵と比べてもその大きさは歴然としています。

イラストは、”可愛い”と大評判になり、読者は数万人にまで広がりました。


episode1
”カワイイ”ファッションは人形から生まれた?
大正2(1913)年、中原淳一は四国徳島に生まれる…醤油問屋の次男として育つも淳一が6歳で父が急死、家族はバラバラ、兄姉たちと別れ、母と二人、キリスト教会の牧師館で住み込みで働く事になりました。

これが淳一の運命を変えます…牧師館の主は、アメリカ人女性、日本ではまだ珍しかった洋服が沢山あったのです。…更に海外のファッション雑誌も置いてあり、和服しか知らない淳一は衝撃を受けます。

淳一は、ここで種類、着こなしなど洋服の知識を身につけます…牧師館には当時、貴重だったミシンもあり、見よう見まねで使い方も覚えてしまい…ついには、人形のための小さな洋服を自分で作るまでになりました。

昭和4(1929)年 淳一16歳、画家を目指し上京、一般の学生が目指すピカソやルオーなどの本格的な油絵には目もくれず、淳一が目を惹かれたのが竹久夢二の絵、…夢二の描く絵が可憐で可愛らしく見えたのです。

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夢二の絵が載った雑誌を買いあさり、それを手本として描く事に熱中しました。…ところが淳一を養っていた兄は、このような弟を気に入りません。

兄は淳一が集めていた切り抜きを破り捨ててしましました…「カワイイ物がなぜ悪い」淳一は次第に部屋に引きこもるようになったのです。

そんな淳一に思わぬチャンスが巡って来ます…昭和2年、日米友好の印としてアメリカから日本各地へ青い目の人形が贈られる催しが行われました。

西洋人形は日本では珍しかったため大きな話題を呼びます…街角でも西洋人形が売られるようになりチョットしたブームになっていたのです。

淳一も幼いころを思い出したのか人形作りを思い立ちます。…この時作ったのは下記画像、80センチほどの大きな人形、自ら作った華麗なドレスをまとわせ細部までリアルに作りました。

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とりわけ特徴的なのは、人形の目でした…日本人が西洋人見たとき感じる瞳の強い印象をそのまま形にしたものでした。…淳一が人形の個展を始めると大反響、多くの人を集めたのです。

当時人気だった雑誌の編集部の目にとまり、淳一は紙面に絵を提供する事になりました…こうして生まれる事になったのが『少女の友』の表紙絵です。

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少女の瞳はただ大きいだけでなく、キラキラ輝くきらめきまで描かれていてまつ毛の長さも強調されあでやかなものになっています。

現代の少女漫画と比べるとわかりますが(下記画像)淳一のイラストは、大きく輝く瞳が特徴の漫画表現のルーツと言われています。

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瞳に加え話題となったのが少女が身にまとう洋服の多彩さ、淳一が幼い頃から親しんできた女性服の知識が意外な形で活かされる事になったのです。

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episode2
”カワイイ”ものがなぜ悪い!戦時下の苦悩と挫折
一躍人気者となった20代の淳一、その才能を発揮したのは表紙だけではありませんせした…東京文京区、弥生美術館には当時、淳一がアイデアを出した少女の友の付録が展示されています。

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イラスト集、カルタ、バースデーブック、など乙女心をくすぐるアイデアの数々、淳一自身が心からカワイイものを愛していたのです。

そして淳一は、当時の少女たちの服装を何とかしたいと考えます…洋服と言えば女学校の制服しかない時代に少女たちに洋服の着こなしを教えるコーナー『女学生服装帖』が始まります。

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淳一が絵を交えながらお下がりの服の着こなし方、洋服を手作りする事をを伝えたものでした。…帽子、小物の合わせ方から、季節や着る場面に合わせたコーディネートまでわかりやすく説明したこの記事は、洋服の情報を求めていた女学生たちに大評判となります。

しかし少女たちがようやくファッションに目覚め始めた頃、時代の激動が襲います。

昭和12(1937)年、日本は中国と戦争を開始、多くの印刷物は国家の統制の元におかれるようになります。

昭和15(1940)年 淳一27歳、無署名の投書が寄せられ始めます。…「非常の際です。服装帖をモンペ姿にして下さい」…投書の形を借りて何者かが圧力をかけてきたのです。

この頃、国家総動員法の下、戦争への協力を呼び掛ける婦人団体が活動していました…贅沢やオシャレは敵だという風潮が広がり、少女たちの服装にも厳しい目が注がれたのです。

淳一が描いた絵の中でとりわけ異色の絵があります…モンペ姿の少女の絵、この絵は昭和15年、戦地にいる兵士たちに送るため淳一が描く事になった慰問絵葉書の一枚です。

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実は、この頃、『少女の友』からは淳一の絵は消えていました…戦局の悪化につれ淳一の描くおしゃれな絵は不謹慎だと批判を受けるようになったのです。

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淳一は、自ら少女の友を降板するのです。

「今月は中原先生の絵がなくてさびしい」
「国家は私たちから乙女の夢まで取り上げてしまうのでしょうか」

・・・投書が寄せられました。

その後、淳一は通信販売の形をとってファッションの本の自費出版を開始、もはや世間から不要とさせる状況にあっても最新ファッションを一人発信し続けました。

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昭和16(1941)年 淳一28歳 しかし、…日本はアメリカに対して宣戦布告、太平洋戦争に突入していったのです。

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昭和20(1945)年3月 淳一32歳、ついに淳一の元にも赤紙召集令状)が届きます。…横須賀の海軍に配属されアメリカ軍の飛行機を描く事を命じられました。

日本に飛来した敵機を兵士たちが判別するためのもので教材として使われました。…淳一の元に南方への出征命令が下りるのも時間の問題でした。


episode3
コシノ3姉妹誕生 戦後”カワイイ”革命
昭和20(1945)年になると戦局はさらに悪化し、東京など大都市への空襲が激化します…8月15日、ついに日本は降伏します。

淳一は、出征の直前に終戦を迎え、幸い生き残る事ができました…しかし、戻ってきた東京は一面の焼け野原です。

淳一がとりわけ心を痛めたのが、着の身着のままで食べ物を求めてさ迷う女性たちの姿でした…列車にのった淳一は女学生たちのこんなやり取りを聞いてショックを受けます。

「米が手に入ったのよ」
「うちはね芋が手に入ったわよ」
「少し物々交換で取り換えっこしない?」

厳しい食糧難の中、少女たちは恥じらいすら無くしていたのです。

昭和21(1946)年8月 淳一33歳…淳一は決意します。終戦直後、それまでの原稿料全てをつぎ込みファッション雑誌の出版を始めたのです。

誰もが生きるのに精一杯の時代、とうてい採算の見込めない試みでした…タイトルは、Soleil「ソレイユ」=ひまわり…復興への願いをこめたものでした。

淳一による創刊の意図が編集後記に残されています。

こんな本は
下らないと言われるかもしれない
お腹が空いた犬にバラの花が
何も食欲をそそらない様に
しかし私たちは人間である
窓辺に一輪の花を飾るような心で
この『ソレイユ』を
見ていただきたい。
(『ソレイユ』創刊号より)

ファッション誌でしたが世相を反映した意外な記事も…たとえばサツマイモの調理方法、狭い住宅でも快適に過ごせる方法などです。

ファッションも身近な材料で作る事を提案、…各地に出向き洋服を自分で仕立てる方法を公演するなど女性のオシャレを手助けします。…多くの女性が淳一のスタイル画を真似たのです。

淳一の影響を受けた人が朝の連続テレビ小説カーネーションのモデル、小篠綾子さん…コシノ3姉妹の長女、コシノヒロコさんは、幼少時にあったこんな事を覚えています。

デザイナー コシノヒロコさん
「お母ちゃんが中原先生の少女雑誌のお洋服を私に作ってくれて始めて『デザイナー』という言葉を発見しました…だから私の人生は、突然、目の前がパーッと明るくなりました」

ヒロコさんは、成長するとデザイナーを志し、影響を受けたジュンコさんもミチコさんも揃ってデザイナーの道を進みました。

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他にも世界で活躍するデザイナー(森英恵高田賢三芦田淳など)の多くが青春時代に淳一のスタイル画から大きな影響を受けています。

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昭和28(1953)年 淳一40歳、やがて日本が復興の軌道に乗り、ファッションに目を向ける余裕が生まれてくると淳一への期待は更に高まります。

昭和33(1958)年 淳一45歳、無理を重ねてファッションを広めていた、訴え続けていた淳一は、テレビ番組の収録中に心筋梗塞で倒れます。

ファッションショーが活発に開かれるようになり、女性たちがようやく自由に洋服を楽しめるようになった時、淳一は突然、役目を終えたかのように表舞台から姿を消すことになったのです。

様々な形でカワイイを発信し続けた中原淳一、しかし、その晩年は病に苦しめられ長い療養を強いられます。

その後、脳梗塞も起こした淳一は千葉県館山市で25年に渡って闘病生活を送ります。…手の自由も利かなくなり、絵も描けなくなっていた淳一、それでもなお情熱を注いで作り続けていたものがあります。

それは男性の人形、女性を描き続けてきた淳一が初めて手掛ける男性の人形でした…「本当に描きたいものは、人間の悲しみや喜びである」と晩年語っていた淳一、自分自身と向き合い美の奥にある人間の真実を見出していたのかも知れません。

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昭和58(1983)年 中原淳一 死去 享年70

療養をおくった館山には今、記念碑が建てられています…刻まれているのは淳一が生前記した詩…身近にあるささやかな物の尊さや、愛する心の大切さを私たちに問いかけるものとなっています。

もしこの世の中に風に揺れる
「花」がなかったら
人の心はもっともっと
荒んでいたかもしれない

もしこの世の中に
「色」がなかったら
人々の人生観まで
変わっていたかもしれない

もしこの世の中に
「愛する心」がなかったら
人間はだれもが孤独です

 

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