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東洲斎 写楽…天才絵師の正体を追う

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NHKスペシャル 東洲斎 写楽・・天才絵師の正体を追う

江戸の町に突如現れ風のごとく去った天才絵師、同時代の記録はこの一文だけです。

「あまりに真を描かんとてわらんさまに描きなせしかば長く世に行われず一りょう年にして止む」
現代の言葉に直訳すると・・
「あまりに真を描こうとあってはならない様に描いたので長く活動せずに一年ほどで終わる」

絵師の名は、東洲斎 写楽・・その生涯は謎に包まれています。活動したのはわずか10カ月、145枚の作品を残し忽然と姿を消しています。・・その本名すらも明らかでありません。

写楽の正体は誰なのか?・・写楽の正体に迫る本が何冊も出版され、これまでに40近い説が出され日本美術界最大のミステリーとされてきました。

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2008年夏、写楽の正体を突き止める重要な手掛かりがギリシャで発見されました。ギリシャ国立コルフ・アジア美術館には、20世紀初頭ギリシャ人の外交官が集めた日本の美術品7000点が収められています。

ここに調査される事無くうずもれていた作品がありました。扇子に描かれた絵、署名は東洲斎 写楽・・日本から専門家たちが調査に向かいました。

驚いた事にその絵は、直接筆で描いた肉筆画でした。これまで確認されている作品は全て版画、肉筆画は一枚もありません・・絵師の筆使いの跡が残る肉筆画は、写楽の正体に近づく第一級の手がかりです。

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これをキッカケにかつて無い規模の写楽研究が始まりました。18世紀末江戸に登場した写楽、歌舞伎役者を描いた浮世絵で衝撃的なデビューを飾ります。・・2日に1枚のペースで描いた役者絵は145点、しかし10ヶ月後にはパタリと消息を絶ちます。

写楽は誰なのか?有力な説3つが残りました。
1.「増補 浮世絵類考」(1844)には、「写楽 俗称、斎藤十郎兵衛 阿波候の能役者なり」 と書かれています。江戸時代能は武家に庇護されていて儀式の場に欠かせないものでした・・写楽は阿波藩に雇われていた能役者だと言うのです。
しかし、能役者にこんな見事な浮世絵が描けるのか・・更に写楽が消えた50年後に記された記録なのでこの説は疑われました。

2.有名絵師説 一流の絵師が短い期間だけ写楽と名乗ったと言うのです。
葛飾北斎 代表作は冨嶽三十六景、北斎は生涯に30回名を変えています。写楽と名乗った時期があってもおかしくないと言うのです。・・その他、美人画の大家、喜多川歌麿・歌川豊国・司馬江漢円山応挙・鳥居清政・酒井抱一・谷文晁・一筆斎文調・山東京伝・流光斎如圭・十返舎一九など写楽の候補に挙げられた絵師は10人を超えます。

3.版元 蔦屋重三郎説・・写楽の浮世絵を出版していた版元の蔦屋重三郎説です・・歌麿十返舎一九を世に出した有力な版元です。根拠は写楽の145点の浮世絵が全て蔦屋から出版されている事です。
20を超える版元がひしめいていた当時では異例だと言います。・・蔦屋が育てたと言われている歌麿でさえ同時期に別に二つの版元と仕事をしています。
つまり版元の蔦屋が写楽と名乗って絵を出しただから他の版元の絵が無かったと言うのです。

ギリシャで発見された写楽の肉筆画で2.有名絵師説が否定されました・・肉筆は、絵師の筆の癖が残っているのです・・写楽の候補に挙げられた絵師を確認したところ誰一人として該当者が無かったのです。

もう一つの3.版元 蔦屋重三郎説についても否定されました・・写楽のもう一つの肉筆とされている扇子も今回のギリシャでの発見により本物であると判明しました。
その扇子に日時(寛政12年)を特定する情報があったのです・・その扇子を描いた日の3年前の寛政9年に版元の蔦屋重三郎は、この世を去っていたのです。

これで写楽は、残った阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛だという説が急浮上してきました。

では、なぜ写楽は本名を隠したのか?・・学習院大学 小林忠 教授は、写楽が斎藤十郎兵衛なら説明が出来ると言います。・・注目したのは十郎兵衛の身分です。

能役者は武士に位置付けられていました。当時武士は、本分以外の行動はつつしむよう厳しく求められていました。「文武之道相励み風儀を改めるべし」 寛政年鑑の触書きです。・・浮世絵を描く事も禁制に触れる行為でした。

この禁制を破った人物がいました・・駿河の藩の恋川春町、武士にあるまじき本を出し続けた春町、幕府に出頭を命じられたものの応じませんでした・・その直後、謎の死を遂げるのです。・・一説には自殺に追込まれたとも言われています。

この厳しい禁制に十郎兵衛はどう対処したか 「斎藤十郎兵衛」 これを並べ替えると 「とう」「じゅう」「さい」 写楽の豪、東洲斎が現れます。

学習院大学 小林忠 教授
「自分を隠さなきゃなりませんが、どこかに自分の痕跡を残したいと言うのは、わりとありゆる事だと思います。・・斎藤十郎兵衛さんが「東洲斎」に「写」す事を「楽」しむと言うのは、似顔絵作家としてはピッタリだと思います」

■長い写楽の正体探しは、ここに終結したって感じがします・・まあいつの世かまた有力な説が出てこないとも限りませんけどね。

■その時が来たらまたその時にドキドキしながら楽しみましょう。・・(笑)


もう一つの謎・・写楽はなぜ10カ月と言う短い期間で消えてしまったか!

東洲斎 写楽が初めて世に送り出した役者絵は、常識を打ち破るものでした。当時の役者絵は歌舞伎のパンフレット代わり、下は北斎作です。

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芝居の内容が分かるよう石の塚など舞台装置まで描いています。
・・そこに登場した写楽

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全てが大首絵、顔だけで芝居の筋までが表現されています。画面左は盗賊の江戸兵衛、右の奴一平から金を奪う場面・・飛びかかる江戸兵衛の手は形が歪むほど力が込められています・・かたやたじろぐ一平、ぐるりよった目玉には恐怖心がのぞいています。・・まるで芝居小屋にいるかのような緊張の一瞬です。

下は、器量自慢の三代目 瀬川菊之丞(43歳)目と眉の間の一本の線、皮膚のたるみを示しています・・写楽は役者の老いまで描きました・・人間の生きざままでも描写する写楽の役者絵の真骨頂です。

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次の写真、左は同時代の人気絵師、歌川豊国の描いた初代中山富三郎、豊国はうなじを強調し色つやある美人に仕上げました。・・右は同じく初代中山富三郎を写楽が描くと太く短い首、肉厚でたくましさが感じられる顎、写楽の絵は、女形の背後にいる男そのものが露わにされています。

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・・・写楽は10ヶ月後、忽然と姿を消します。
そこで記事の冒頭でも紹介した写楽を記す唯一の記録です。

「あまりに真を描かんとてわらんさまに描きなせしかば長く世に行われず一りょう年にして止む」
現代の言葉に直訳すると・・
「あまりに真を描こうとあってはならない様に描いたので長く活動せずに一年ほどで終わる」

■ここからは自由に、写楽の人生を想像して皆さんも楽しんで下さい。