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パブロ・ピカソ 哀しみながら見えた青の光…NHK 巨匠たちの青の時代より

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パブロ・ピカソ(1881~1973)

NHK 巨匠たちの青の時代
パブロ・ピカソ 哀しみながら見えた青の光

青く暗い絵、ピカソが画家として認められる直前、無名だった時代に書き続けた絵です…二十歳の自分の姿を描いた自画像、大きく見開かれた目は何かを探し求めているかのようです。

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鮮やかな色遣いと独特の構図、20世紀を代表する画家、ピカソが繰り出す世界は常に時代の先端にいました。

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生涯で20万点もの作品を生み出した天才、パブロ・ピカソ…しかし、死ぬまで公開する事のなかった絵がありました。


それは、若き日の親友、カサヘマスの亡骸を描いた絵です。…没後、アトリエから発見された3枚の絵、この作品を境にピカソの絵は青く染まって行きました。…なぜピカソはこの3枚の絵を終生隠し続けたのでしょうか。

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その謎を生前、ある人物に明かしていました…「カサヘマスの死を考えながら僕は青の画家になった」ピカソはそう言いました。

つまり、哀しみを表現しようとした時に青を発見したのだと。

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カサヘマスの死を引き金に青の世界へ身を投じていったピカソ、…哀しみの世界で描き続ける日々は後に青の時代と呼ばれます…この青の時代こそ巨匠、ピカソを生み出す事になるのです。


哀しみから見えた青の光
ピカソPICASSO
フランス・パリ、1901年2月、モンマルトルの街角のカフェで一人の男が自ら命を絶ちました…19歳の若さで自殺を遂げたのは、ピカソの親友、カルレス・カサヘマスでした。

穏やかな横顔を見せるカサヘマス(写真右)、そんなカサヘマスと向き合い満面の笑顔を浮かべているのが18歳のピカソです。

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二人が共に過ごしたのは僅か2年、しかし、カサヘマスとの出会いはピカソにとって生涯忘れられないものになって行くのです。…若き青年の物語は、バルセロナから始まります。

スペイン北東部の大都市、バルセロナピカソが青年時代を過ごした街です…ピカソはこの街でカサヘマスと出合うのです。

ピカソは、幼いころから絵を描く事が大好きだったと言います…そんな息子の才能を見出したのが父・ホセでした。…画家を諦め美術教師をしていたホセは、徹底的な英才教育を施しました。

バルセロナの王立美術学校、当時スペイン一と言われた名門です…ピカソは父親の強い後押しを受けて14歳という異例の若さで美術学校に入学、伝統を重んじる学校では肖像画や宗教画を描く画家を要請する事を目的としていました。

歴史の中で確立された形式美の世界、古典芸術の基礎が日々教え込まれたのです。

父の手ほどきで基本を叩き込まれたピカソは、生徒たちの中でも抜きんでた存在だったと言います…飛び級で上級コースへと進みます。

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そしてピカソは、16歳で『科学と慈愛』(1897)という大作を完成させます。…この作品は数々の賞を獲得し、高い評価を受けました。…しかし、新しい挑戦が許されない伝統芸術の世界、ピカソの息苦しさは募るばかりでした。

父親の期待を裏切るようにピカソは学校をさぼり続けました。そんな時、カサヘマスと出合うのです…彼は裕福な家に生まれ、外交官だった父に勧められ海軍に入隊した経験を持つ青年でした。

その後、親の反対を押し切り、芸術家の道に進もうともがいていたのです…画家を目指し、文筆家としても活動していました。

二人は、父親との葛藤という同じ悩みを抱えていたのです。…出会ってすぐ初めて書いたカサヘマスの肖像、見事にカサヘマスという人間を現しています。

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裕福な家庭に育ち、いかにもナイーブそうなカサヘマス…ピカソはその内側に秘めた孤独を見事に描いています。

ピカソは、そんな日々を送っていた時、父親からパリで開かれる万国博覧会へ出品する絵を書くように言い渡されたのです。…作品は『臨終』と名づけられました。

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それは過去の受賞作、『科学と慈愛』を彷彿させる絵でした…父・ホセが息子を伝統芸術の世界へ引き戻すための選んだテーマでした。

1900年10月、ピカソはカサヘマスとともにパリに向けて旅立ちます…ピカソは、『臨終』を書く事で長年憧れたパリへ行く事を父親から許しを得たのです。

7か月にわたって開かれたパリ万国博覧会、5000万人が来場したと言われています…初めて触れる芸術の都は刺激に溢れていました。

昼間は美術館でロートレックゴッホといった有名画家たちの絵を貪るように見る日々、万博会場にも何度も足を運びました。…世界最高と言われる芸術作品に触れ、時代の動向を目の当たりにして行くのです。

そして二人は、芸術家を目指す若者の街、モンマルトルへと向かいます。一軒のアパートメントの屋根裏を借り、二人は暮らし始めます。

二人はバルセロナの友人にパリの様子を書き送ります。…「僕たちは既に制作を始めた…モデルもいる…」…このモデルの一人がジェルメーヌです。

ジェルメーヌは魅力的な女性でした…二人は、毎日彼女たちの絵を描き続けた。

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ピカソが初めてパリで描いた油絵の作品です。パリで触れた印象派ロートレックの影響が色濃く反映されたものでした。…ワインに頬を染めているのはオデットとリエラ…左隅で赤い口紅を塗り、あやしく微笑むのはジェルメーヌです。

「僕らの生活は、神よりも上手くいっている…僕らは絵を描き、彼女たちは女性としてやらなくてはならない事をする…それは縫物、掃除、僕らにキスをすること…そして僕らをいじくりまわす事、つまり友よ、これはエデンの幸運だ」(二人の手紙より)

一見享楽的な共同生活、しかしカサヘマスは、ピカソが芸術家として壁にぶつかっている事を感じ取っていました。

カサヘマス
「実を言うとパリでのピカソは、元気がない…万博に出した『臨終』の評価が散々だったからだろう」

父・ホセに言われるがままに描いた作品は、パリで認められる事はありませんでした。…それにもましてこの時ピカソは自分だけの絵は何かという答えを見つけられづにいたのです。

一方、カサヘマスは次第にジェルメーヌに心を奪われてゆきます。…そして多くの男たちに色目を使うジェルメーヌへの不安と嫉妬でカサヘマスは、次第に心を病んで行くのです。

1900年12月末、ピカソはカサヘマスを強引にジェルメーヌから引き離します…向かったのはピカソが生まれた町、マラガでした。

ジェルメーヌしか見えなくなって行くカサヘマスに目を覚まさせる時間が必要だと考えたのです…ピカソはカサヘマスを連れ、安宿へ身を寄せます。

ジェルメーヌを忘れられず浴びるように酒を飲み続けるカサヘマス…そんな生活が1か月近くにも及びました…ところがこの頃、ピカソにはマドリードでの展覧会の誘いが舞い込みマラガを離れなければならなくなります。

この時の別れがピカソを生涯苦しめる事になるのです。…ピカソと別れた直後、カサヘマスはパリの友人に向け、一通の手紙を書き送っていました。

ピカソは、今朝マドリードに旅立った…僕を乗せてくれる蒸気船を見つけた。…旅は5日ぐらいかかるだろう…このままここに居続けなければならないなら死んでしまいそうだ…この事は誰にも言わないでくれ」(カサヘマスの手紙より)

1901年2月17日、パリ…ピカソと離れてから20日後、カサヘマスはパリに姿を現しました…そしてピカソが最も恐れていた事が起こります。

カサヘマスは、行きつけのカフェに仲間たちとジェルメーヌを誘います…そこで銃を抜く…逃げるジェルメーヌに向け発砲、…そしてカサヘマスは自ら命を絶ちました。…マドリードにいるピカソが報せを受けたのは数日後の事です。

カサヘマスの自殺後にとられた警察庁書には、…

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「カサヘマスは、リボルバーを発砲するも女には命中せず、その後、銃を自身の右のこめかみに撃つ」…銃口を向けられたジェルメーヌはとっさに死んだふりをしていました。

「本名フロロンタン、旧姓ガルガロはカサヘマスの愛人ではなかったと証言」…ジェルメーヌの本名はフロロンタン、しかも既に結婚していて夫がいたのです…それはピカソもカサヘマスも知らない事実でした。

カサヘマスの死から3ヶ月後、ピカソはパリに足を踏み入れます…ピカソはカサヘマスが死の直前に過ごした部屋にこもり絵を描き続けます。

こうして描き上げたのがカサヘマスの死の姿でした…そのこめかみには銃弾の痕が描かれました。

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出会いから僅か2年、カサヘマスの死の瞬間に立ち会う事が出来なかったピカソ、しかしカサヘマスの面影がピカソから離れることはありませんでした。

ピカソがカサヘマスの死を題材に選んだ3枚の絵、…この頃からピカソの絵は少しづつ青色に染まり始めるのです。

ピカソは悔みます。なぜあの時、カサヘマスを一人のこしてマドリードへ行ってしまったのか…カサヘマスの死を自分のせいだと考えるようになって行きます。

二十歳の青年が親友を自殺という形で失った…それはとてつもなく大きな事件だったのです。

パリ郊外にある当時のサン・ラガール刑務所、…アトリエに引きこもり、カサヘマスの絵を描き終えたピカソは、この場所に頻繁に通い始めます。

当時、病院と刑務所が併設されたこの施設には、体を蝕まれた数多くの売春婦たちが収容されていました。…ここでピカソは娼婦たちを描き始めます。

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囚人服を身にまとう哀れな娼婦、ピカソはここにいるはずのないジェルメーヌをモデルにしていたのです…サン・ラガール刑務所の女たちにカサヘマスを死に追いやったジェルメーヌを重ね合わせていたのです。

ピカソはジェルメーヌを恨んでいました…ジェルメーヌは、結婚していながら夫を裏切り、カサヘマスの死後すぐに別の男と結婚するような女ですとても許せるようなものではありませんでした。

しかし、社会の底辺で生きる女たちを見つめていくうちにピカソの中にある変化が生まれます…哀しみと苦悩をかかえた人々にピカソの心は吸い寄せられていきます。

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乳を与えられる赤子とそれを見守る二人の姉妹、女たちを包み込む悲しみと静けさ…青で染められた絵の中にピカソは自分が向き合うテーマを見つけて行きます。

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行くあてもなく施設に身を寄せる母親と子供、傷ついた身体で我が子を守るため必死に生きようとする母親、抱かれた子供が見せる無垢な眼差しが唯一の救いのようにも見えます。

「カサヘマスの死を見つめながら僕は青の画家になった」そうピカソは言いました…つまり哀しみを表現しようとした時に青を発見したのだと。

あのカサヘマスの死を描いた3枚の絵は、まさにその移行期でした…ろうそくの光に彩られた絵から完全な青の時代へと導かれてゆく絵なのです。

カサヘマスの死をキッカケに4年近くに及ぶ青の時代が始まりました…頼るもののいない孤独な日々、街をさまよいながら目にとめたのが自分と同じ深い悲しみを背負った人々でした。

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路地裏にひっそりと身を置く一人の老人、一本のギターで奏でる音は我が身を慰める音でしょうか。

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つつましい食卓に向かう盲目の男、その手に握られたひとかけらのパンは、ひと時の幸せを味あわせてくれたでしょうか。

ピカソの描く、青く暗い絵は殆ど売れる事はありませんでした…部屋を照らす油も買えない貧しい暮らしが続きます。…それでもピカソはデッサンを暖炉で燃やしながら描き続けました。

ピカソの心に炎を燃やし始めたもの、それは社会の底辺で生きる人々の奥底に見つけた決して消える事のない命の輝きだったのです。

1903年ピカソは1枚の絵を完成させます…それは青の時代の中で最も大きく、傑作と言われる作品、そこに描かれたのはカサヘマスとジェルメーヌです。

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La vie『人生』と名づけられた絵、カサヘマスに永遠の幸せを捧げたのでしょうか…この作品以降、ピカソがカサヘマスを描くことはありませんでした。

苦しく厳しい試練が彼に力を与えました…ピカソは青の時代で人生の礎となる確固たるものを掴んだのです。

1978年、『人生』の絵がX線で調べられました…新たな事実が見つかったのです。…『人生』の絵が描かれたキャンバスは、パリ万博に出品した『臨終』が描かれたものだったのです。

父・ホセにテーマを与えられ、一切評価を受ける事がなかった作品、ピカソはそれを塗りつぶしていたのです。

ピカソがLa vie『人生』に込めた思い、それは父親との決別、そしてカサヘマスを失った哀しみの封印だったのかも知れません。

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青の時代に書かれた自画像、カサヘマスを失った哀しみと向き合うピカソです。…しかしその顔にはピカソの決意が読み取れます目の前に立ちはだかるこれからの人生を確かに歩き始めようとする姿です。