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ココ・シャネル 閉ざされた時代に自由の翼を …NHK 巨匠たちの青の時代

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ココ・シャネル(1883~1971)
NHK 巨匠たちの青の時代

ココ・シャネル 閉ざされた時代に自由の翼
かつてフランスの片田舎のカフェで1曲の歌を歌った女性がいた ”ココを見たのはどなた?” 歌はその女性のニックネームとなった。

ココ・シャネル(本名:ガブリエル・シャネル)後に自らのブランドを立ち上げファッション界に革命を起こした女性だ…今もココ・シャネルは世界のファッションに影響を与え続けている。

20世紀の初頭、当時女性たちは、19世紀までの古式ゆかしいドレスを身にまとっていた…そこに新しい風を送り込んだのがシャネルだった。…自ら作った服を着て町を闊歩していたシャネル。

斬新なファッションスタイルは女性たちに熱烈に迎え入れられ一時代を築いた…シャネルが髪を切ると女性たちはこぞって髪を切り、そのスタイルを真似た。

「ショートカットが流行ったんじゃない わたしが流行ったのよ…新しい世紀の児であるあたしは、新しい世紀を服装で表現しようとしたのだ」(ココ・シャネル)

20世紀を駆け抜けたシャネルは男性たちも引きつけた…芸術家、実業家、貴族と数知れぬ浮名を流したシャネル、しかし87年の人生には忘れ得ぬ一人の男性の存在があった。

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「彼こそ私が愛した ただ一人の男よ」…片田舎の小さなカフェからファッション界の頂点へ、何が彼女を突き動かしたのだろうか。


閉ざされた時代に自由の翼

フランス西部の小さな町・ソミュール…1883年シャネルはこの町で生まれた。…父・アルベールはフランス各地を歩く行商人、母・ジャンヌとは多事先で出会ったという。

父・アルベールの仕事、行商人は不安定で収入も少なかった…母・ジャンヌと父の帰りを待つシャネル、…貧乏は苦にはならなかったがシャネル12歳のとき母・ジャンヌが病死する。

母親がいなくなると父・アルベールはシャネルをもてあまし、修道院に入れる事を決めた…「”お前を迎えに戻ってくる、また一緒に暮らそう”…それが父の最後の言葉だった」(ココ・シャネル)

フランス中部の小さな村・オーバジーヌのアバシアル教会でシャネルは孤児として12歳~18歳の女時代を過ごした…厳しい規律の下に暮らしていた…日の出とともに起き祈りを捧げるのが義務だった…6年もの間、この閉ざされた空間で過ごしたのだ。

シャネルが唯一自由な空気に触れる事が出来た場所が小さな牧場を持つ叔母・ルイーズの家だった…叔母は親の愛を受けられずに育つシャネルを不憫に思い、年に2,3回呼び寄せた。

ルイーズは裁縫の名人、チョットした工夫でシャネルの修道服をオシャレに作り変えたという…牧場には馬が数頭いてシャネルは馬の世話をしながら自己流で乗馬をしたという…「馬が私の人生を決めた」(ココ・シャネル)…当時の庶民の女性が馬に乗る事は無い…シャネルは馬で疾走しながら自分を解き放とうとしたのだ。

少女時代の厳しい環境がシャネルの言う ”勝ち気” な性格を作り出したのだ。


そして人生が動き出す
シャネル18歳…。

「翼を持たずに生まれて来たのなら、翼を生やすためにどんな事でもしなさい」(ココ・シャネル)

そして閉ざされた修道院を出る時が来た…向かったのは、ムーラン…この町でシャネルは小さなキッカケを掴む事になる。

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町の洋装店に住み込みで働き始めたシャネル、店の客として町はずれの騎兵たちが良く来たのだ…騎兵に誘われ通ったカフェが今も残っている。…当時カフェでは楽団に合わせて歌手たちが流行り歌を歌っていた。

客の多くは騎兵たち…”歌え歌え”とはやす声にあおられシャネルは舞台に立つようになった…数少ない持ち歌をシャネルは懸命に歌った…その一つが ”♪ココを見たのはどなた?”…ひたむきに歌うシャネルは騎兵たちに愛された…いつしか彼らは彼女を、ココ、ココと呼んで可愛がるようになったという。

シャネル22歳、大歌手を目指し向かったのは、ムーランより大きな町・保養地であるヴィシー、夏場はパリのようなにぎわいであったという。

そこにはシャネルが始めて見る上流階級の人々がいた…この人たちに認められれば大歌手になれる…そう考えたシャネルは歌手のオーディションを受け続けた…しかし、田舎娘の歌に耳を傾ける人などいなかったのだ。…オーディションにはことごとく落選、シャネルはヴィシーの町を後にした。

翼はもがれた…落胆するシャネルに手を差し伸べる男がいた。…ムーランに駐屯していた騎兵・エティエンヌ・バルザン…シャネルが歌う店の常連だった彼は彼女に恋をしていた。

バルザンは上流階級の出身、父が残した莫大な遺産があり、パリ郊外に邸宅があった…シャネルはバルザンの愛人になったのだ。


シャネル23歳、
上流階級の暮らしの中に入って行った

そこにはシャネルがそれまで見た事も無い華やかな世界が繰り広げられていた…邸宅には毎日のように着飾った男女が集まりパーティーに明け暮れていた。

しかし、シャネルはそんな暮らしになじめなかった…そしてある一つの思いを強くした…「わたしは、19世紀の喪に立ち会っているのだ…一つの時代が終わろうとしていた」(ココ・シャネル)

パリ郊外・コンピエーニュ競馬場、バルザンは時に騎手として競馬に出る事もあった…馬が好きだったシャネルは、よくバルザンとともにこの競馬場を訪れた。

当時の競馬場は上流階級の社交場だった…そこに集まる女性たちの姿はシャネルの目に

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こう映った…「装飾過剰が女たちの体のラインを殺し、まるで熱帯雨林の寄生植物が樹木を殺すみたいに、ゴテゴテした飾りが体を押しつぶしていた」(ココ・シャネル)

 

当時の貴婦人たちは、くるぶしまである長いスカートに飾りがたっぷり付いた大きな帽子、男たちの目を引こうと身動きが出来ないほど着飾り、まるで人形のように立っていた。

シャネルはある決断をした…厩舎の前に建つシャネルを移した一枚の写真、シャネルは男たちと同じ乗馬服を身につけている。

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シャツは男性の物を作り変えている…そしてズボン、当時女性がズボンを履く事はあり得ない事だった。…当時の乗馬は、女性は横乗り、しかしシャネルは馬にまたがった…それは当時としてはとんでもないことだったのです。

シャネルは男性のお飾りをやめ、自分の着たい服を着て馬にまたがった…競馬場でのシャネルの服も前代未聞だった。

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男物のコート、そしてネクタイ、そして当時男性のものだったカンカン帽、…「わたしは、19世紀の喪に立ち会っているのだ…一つの時代が終わろうとしていた」(ココ・シャネル)

奇抜極まりないシャネルのいでたち…しかし、予想外の反響が返ってきた…女性たちは、シャネルの被っていたシンプルな帽子を欲しがったのです。

バルザン邸のシャネルが素敵な帽子を作っている…その評判はパリへも飛び火した。


シャネル26歳
帽子作りをスタート

バルザンがパリに持っていたアパートに帽子作りの小さな工房を作る事になった…評判は口コミで広がって行った。多くの女性たちがシャネルに帽子を作ってもらおうと訪れるようになった。

帽子店を開きたい…ある男性との出会いがシャネルを導く事になる…「彼こそわたしが愛した、ただ一人の男」(ココ・シャネル)

実は、シャネルが帽子店を持つ事にバルザンは笑って取り合わなかった…そんな時、手を差し伸べる男がいた…バルザン邸に出入りしていたイギリス人のアーサー・カペルだ…上流階級のバルザンと違い一代で成りあがった実業家だった。

シャネルの生涯を調べてきた作家、イザベル・フィメイエールさん…執筆の為にシャネルの貴重な遺品を預かっている。

作家 イザベル・フィメイエール
「これはカペルがシャネルの為に作ったノートです…お薦めの詩や哲学が書きこまれている、シャネルに教養を身につけさせるためです…カペルはシャネルを愛していたからこそ大切な物を伝えたかったのでしょう」

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シャネルが生涯大切にしていたという一冊のノート、ノートはカペル自らが、シャネルの為に書いた序文から始まる。…「孤独を恐れていながら、人付き合いを嫌う君の孤独を癒すために書きました」(『カペルのノート』より)

シャネルと会うたびに書き足されていったノート…シャネルへの愛の証しだった。…シャネルはカペルとともにパリで暮らす事になるのです。

カペルのアドバイスでパリの高級ブティック街に帽子店を開く、二人は甘いだけの関係ではなかった…カペルはシャネルにビジネスの手ほどきもした。

1913年、二人はパリ北部のリゾート地・ドーヴィルに2号店を開いた…ターゲットは夏の間、避暑に訪れる有閑マダムたち…カペルの提案だった。


ジャージー
シャネルの新たな挑戦が始まった…

「新しい世紀の児であるあたしは、新しい世紀を服装で表現しようとしたのだ」(ココ・シャネル)

ここで二人は、帽子だけでなくシャネルが新しくデザインした洋服も売出す事にした…それは、窮屈なドレスに代わる斬新な服、シャネルが求めたのは動きやすさだった。

目を付けた素材はジャージー、当時は主に男性の下着に使われていた…ジャージーの特徴は伸縮性、動きやすさを生むとシャネルは考えた。

シャネルが競馬場できていた機能的な男性服、それがシャネルのデザインで上品さを兼ね備えたものに生まれかわった。

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そしてシャネルのジャージー服は大きな時代の波に乗ってゆく事になる。…「チャンスが舞い降りて来てそれを掴んだ」(ココ・シャネル)

そして第1次世界大戦が勃発します…この戦争は女性たちの意識を大きく変えました…男が戦場に出てしまったため女性が働きに出たのです…自分たちが働ける事を知ったのです。

働く事に目覚めた女性たち、彼女たちはシャネルのジャージー服を熱烈に支持した…シャネルはジャージーを用いた服を次々と世に送り出した。

シャネルのデザインは時代の先端をゆくものとしてフランス中に更には海を越えアメリカにまで広まって行った。

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アメリカ屈指のファッション誌・ハーパース・バザーは当時こう綴った…「シャネルを一着も持っていない女性は取り返しがつかないほど流行遅れだ」(ハーパース・バザー誌)

シャネルは一躍ファッション界の牽引車となった…しかし終戦の年、カペルがシャネルに書き綴ったノートの続きがなく白紙だった…絶頂だったシャネルにカペルが別れを告げたのだ。

カペルは上流階級の女性との結婚を選んだのだ…そして翌年、カペルは交通事故で世を去った。…一人取り残されたシャネル。

悲しみを封じ込めるようにひたすら仕事に打ち込むようになる…その後、多くの男性と浮名を流したがシャネルは生涯独身を通し、ファッション界のトップをひた走った。

次々に送り出された斬新なファッション、ブラックドレス、パンツスタイル、ショルダーバッグ、71歳のときには、あのシャネルスーツを発表、シャネルは最後の時まで現役を貫いた。

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晩年のシャネルは家を持たず、リッツ・パリ…ホテルの最上階の一室で暮らしていた…そして1971年1月10日、87歳で生涯を閉じた。

上流階級への反発、最愛の人との出会い…それがシャネルに輝きを与えた…今、シャネルは、スイス・ローザンヌの森に眠っている…。

”翼を持たずに生まれて来たのなら、翼を生やすためにどんな事でもしなさい”-ココ・シャネルー

 

 

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