NHK 100分de名著
新渡戸稲造 ”武士道” 「名誉・日本人の責任の取り方」
切腹…それは世界が驚いた武士のしきたりでした。…しかし、それは決して野蛮な行為ではない、明治の国際人、新渡戸稲造は武士道の中でそう述べています。
実は、切腹には現代も通じる日本人の名誉意識、責任の取り方があります…100分で名著、武士道…指南役は、日本の近正史を専門とする山本博文さんです。…武士たちが行った切腹の本当の意味を探ります。
新渡戸稲造 著「武士道」
世界に日本の真実の姿を知らせたいと新渡戸が書いた作品が武士道です…新渡戸は『武士道』を戦士のおきて、フランス語で”ノブレス・オブリージュ”高貴な身分に伴う義務だと言っています。
武士にとって最も大切なものは名誉である名誉を得るためには、命を捨てる事も辞さない…武士ならではの死に方と言いますと腹を切る、切腹です。
新渡戸稲造が
定義した切腹とは…
12世紀末、壇ノ浦の戦いのとき、平家軍、西国の武士たちは入水して果てる事が多かったと言います…一方、源義経は武士らしい死に方を求め切腹を選んだといいます。
鎌倉時代以降、切腹は武士のしきたりとして定着していきます…その習慣は、江戸時代が終わるまで続きました。
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
「海外で切腹が知られるようになったのは、オランダ人牧師のモンラヌスによってまとめられた1669年出版の『日本史』からです…下記画像は『日本史』のなかの挿絵、切腹しているイラストです」
キリスト教徒にとって自殺は最大の罪、腹を切り、首を落とすという日本の切腹の方法はヨーロッパの人にとって理解を超えるものでした。
「切腹は法律上ならびに礼法上の一つの制度だった…それは中世に発明された、武士が罪をつぐない過ちを詫び、恥を免れ、友を救い、自己の誠実を証明する行為だった」(『武士道』第12章 切腹と敵討の制度より)
切腹とは決して野蛮な行為ではなく、武士が自らの名誉を守り、責任を果たすための制度だったのです。
新渡戸が『武士道』
の中で紹介した切腹の話…
兄・左近と弟・内記は父の仇を討とうとしたが囚われてしまう…その勇気を認められた二人は8歳の弟・八麿ともども名誉の死である切腹を命じられた。
そして当日、…
長兄・左近:「お前が真っ先にいけ、切り損じがないように見とどけてやる」
末弟・八麿:「切腹をまだ見た事がないので兄上たちがするのを見たい…そうすれば同じように出来る」
長兄・左近:「よくぞも申した、お前は我が父上の子として恥じない」
二人は、間に八麿を座らせた…そして刀をとり
長兄・左近:「弟よこれを見よ、わかったかあまり深く突きさすな後ろ向きに倒れるといけないからな…うつぶして膝を崩すな」
次兄・内記:「目をカッと開け、そうでないと女の死に顔のようになるぞ」
八麿は兄たちのやり方を見とどけ、両人の息が絶えると教えられた通り、見事に腹を切った。
武士の名誉とは…
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
「切腹にも作法があって前の三方にわき差しが置いてあります…横には介錯の侍がいて、左手で脇差をとって右手に持ち替えて左の腹に刺す…このころ合いを見て介錯の侍が首を落とすのが切腹の作法です」
「死を恐れない気持ちとは…小さい頃から教えられています…母親も小さい子供が転んだりして泣くと、”あなたが戦場で腕を切り落とされたり、切腹を命じられたらどうしますか” と諭したと言います」
「つまり武士は、戦士なのです。戦う人間が死を恐れたり、臆病だったり、逃げたりするのでは話にならない…あくまで戦士としての自分の度量を示さなければならないのです」
「むしろ死ぬ方が名誉なんです…大阪の夏の陣の頃の理想は、”御馬先で討ち死に”…つまり主君の目の前で戦死を遂げることが最大の功名なのです…敵の首を取るより、自分が討ち死にする方がランクが上なのです」
しかし、その切腹を名誉とする事によって困ったことが起こり始めると新渡戸は述べています……それは、些細な理由で切腹をする人が増えてしまったのです。
「命は廉価だったーー
それは世間の名誉の基準で測っても安いものだった」(『武士道』より)
新渡戸は、死ぬ事で簡単に名誉を手に入れようとした武士たちを批判しました…。
「死を軽んずるのは勇気の行為である…しかし、生が死よりも…さらに恐ろしい場合には、あえて生きることが真の勇気である」(『武士道』第12章 切腹と敵討の制度より)
つまり、死を恐れない事は確かに勇気なのだが、生きる事の方が死ぬ事より難しい事がある…そこであえて生きる事が本当の勇気なのだと新渡戸は、『武士道』で言っているのです。
新渡戸は、武士はすぐに刀を抜き、腹を切るわけではないという事を言いたいがために上記の部分を書いているのです。
「切腹は、一つの制度にすぎない…天寿を全うする事が武士にとっての真の名誉だ」…と新渡戸は、『武士道』でまとめています。
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
「積極的に考えると武士は常に名誉ある死を探しているわけですが…逆に考えると絶対に恥をかかないように生きて行かなければならない…だからもし何かあった場合、躊躇せず飛び出す事を求められたのです」
武士の敵討例、赤穂四十七士
赤穂浪士が家族に宛てた手紙が多く残されています…「討ち入りは人たるものの務めである」としています。…いくら悲しくともこれは耐え忍ばなければいけないのだと家族に言い送っています。
つまり、人間として武士として生きて行くためには、この場を外すことは出来ない…自分の正義を貫く事が大事、世論にも押されて武士としては不正義な状態をそのままにしておく事は許されないのです。
そして見事、吉良上野介の首をあげた四十七士は、幕府から切腹を申しつけられますがこれは、自分たちの死を大前提とした行為だったので切腹は、彼らにとっては万々歳だったのです。
「あら楽し、思いは晴るる身は捨つる、浮世の月にかかる雲なし」…大石内蔵助が最後に詠んだ歌、それは自らの正義を果たした喜びを現していました。
その心意気、生き様が今も私たちの心を打つのです。
切腹という責任の取り方
誰か一人が切腹し、責任をとる事で解決する…それは昔に限った話ではありません、現代の日本社会にも見られる事なのです。
誰かが辞任する事にとって事件を収めようというのは現代の特質です…これは昔の切腹と同じ、出来るだけ現場に責任を押し付けようとする力学は、当時も働いているのです。
不祥事を聞きつけた上司は、”では腹を切れ” と自分まで責任が及ばないようにした…言われた人間は武士ですからあっさり腹を切るわけです…それで一件落着、になるのです。
武士道は、ある意味、自己犠牲の精神です…自分の身を犠牲にする事によって主君を助ける家を守る…全て自分が前にない、自分はどうなっても他の者のために働くということです。
最後に新渡戸は、
「切腹と敵討の制度は、刑法法典の発布とともに存在理由を失った…もはや美しい娘が姿を変えて親の敵の後を追うロマンティックな冒険を耳にする事はない」(『武士道』第12章 切腹と敵討の制度より)
個より、組織を重んじる日本人の忠義の心、実はその思いが戦後の高度経済成長期を支えて来たのだと山本博文さんは言います。
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
「自分を家族を犠牲にしてまで会社のために尽くす…自分のため、お金を稼ぐためではなく、会社のために働く事が自分の仕事であり、自己実現だったのです」
「会社のため、戦前なら国家、…働く事で最後は家族のためになるという信念で日本人はここまできたのですこうした武士道的な考えを我々は受け継いで戦後のどうしようもない悲惨な状況から今の日本を復興した日本人の力なのです」
武士道がいかに我々の生活の規範になっているかがわかりました…武士道のDNAが現代の、今の日本人にも受け継がれてるって事なんですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
NHK 100分de名著
新渡戸稲造 ”武士道” 第3回「忍耐・謎の微笑み」
16世紀、ヨーロッパから来た外国人たち、彼らの目に日本人の振る舞いは、実に奇妙に映りました…『武士道』の作者、新渡戸稲造は外国人には理解できない行動の意味を説明しようとしました。
例えば ”謎の微笑み” 100分で名著、武士道…指南役は、日本の近世史を専門とする山本博文さん、武士道を通して日本人の謎の行動に迫ります。
世界から見た
武士道
新渡戸が結婚したのはアメリカ人女性でした…妻・メリー・エルキントン、彼女は日本人の考え方や習慣について度々、質問をしたといいます…それは新渡戸が武士道を書くキッカケにもなりました。
日本人の行動の原点には、武士道の教えがあったからです。…外国人にとって何が不思議だったのか改めて武士道の教えを見てみましょう。
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
「新渡戸が武士道で書いてますが、在日20年にもなるある宣教師夫人が日本人の行動について『おそろしくおかしい行為』を日本人はしていると言っています」
おそろしくおかしい行為
遠慮しすぎる日本人
新渡戸稲造:宣教師夫人からこんな話を聞きました…暑い日差しの中、彼女は手ぶらで立っていた。…そこの日傘を差し帽子をかぶった日本人男性がきました。
挨拶して彼は帽子を脱ぎ、日傘を下ろす…彼はそのまま日傘を下げて私と話をしている…なぜ彼はこの暑い中、私に遠慮して日傘を下ろしたままなのか理解できないと彼女は言うのです。
おそろしくおかしい行為だと…。
スタジオ:「こういう風景って今でもありますよね」
スタジオ:「って言うか…おそろしくおかしいかな」
スタジオ:「すごく紳士な方、…日本人なら当たり前じゃないですかね」
東京大学史料編纂所教授 山本博文さん
『新渡戸は…この時、傘が小さかったので二人で入れない、そんなに親しいわけでもないご夫人と一緒に傘に入るわけにもいかない…だから傘を下ろしたのだ…ご夫人に対して礼をつくしたのだと説明をしています…説明しなければ外国人にはわからなかったのです』
武士道の礼
思いやりの徳
「本当の礼とは、他人の気持ちを思いやる心の現れだからだ」(『武士道』第6章 礼)
単に礼儀作法、儀礼ではなく、相手の事を思うのが礼の本質なのだといってます。
「礼は私たちが、泣くものとともに泣き、喜ぶものとともに喜ぶ事を要求する」(『武士道』第6章 礼)
礼とは相手との共感関係にあるものだという事を言ってます。
反面、自分の悲しみや喜びを直接相手にぶつける事は、相手が普通の状態にある時は、相手を不快にさせる可能性がある…特に自分の悲しみを相手にそのまま投げかけてはいけない…それが日本人の特徴だと新渡戸は言っています。
そもそも侍というものは、自分の感情を顔に出すべきではないと思われています…「喜怒色にあらわさず」という言葉がありますが、大人物というのは自分の喜びとか怒りを顔に出さない。
スタジオ:「子どもの頃、親にそんな事で泣いてはいけません…我慢しなさい…男の子はべらべらしゃべらない…言い訳するな…って言われましたがこれも武士道だったんですね」
だから何があっても動揺せず平静を保つのが武士のあるべき姿だということです。…礼…遠慮深さ、相手を思いやる礼の徳が極端に遠慮深い日本人を作り出したのです。
おそろしくおかしい行為
謙遜しすぎる日本人
新渡戸稲造:宣教師夫人からこんな話を聞きました…外国人は贈り物をするとき、そのプレゼントを大いに褒め「素晴らしいあなたに素晴らしいプレゼントを」と言う。
でも必ず自分のプレゼントを悪く言う「ほんのつまらないものですが」…つまらないものならいらないわ…おそろしくおかしな行為だと彼女は言うのです。
新渡戸は、武士道の中で外国人も日本人も同じ事を言っていると解説しています…アメリカ人は『素晴らしいあなたに素晴らしいプレゼントを』
日本人は『素晴らしいあなたにふさわしいプレゼントはこの世にはない、仕方ないのであばたの素晴らしさのしるしとして、このプレゼントをもらってください』…つまり、プレゼントがいくら高価なものでもあなたに比べたらつまらないものだ…相手を中心にするのが日本人…自分を中心に相手に主張するのがアメリカ人、この違いです。
結婚式でも『ふつつかな娘ですが』と新婦の父親が言う…これも武士道、自分を低めて相手を高めるのが日本人。
なぜ武士は自分の気持ちを
抑えなければならないか
新渡戸は『武士道』の中で武士の行動は、全て名誉のためだと言っています…しかし、この武士が一番大切にする名誉の裏には恥を書いてはいけないというものがあります。
恥をかけば場合によっては、腹を切って恥を注がなければならないという武士道の裏面があるのです。
戦国時代なら武功を立てれば名誉が重なりますが太平が訪れ、江戸時代に入ると名誉を手に入れることが難しい時代になった…むしろ恥をかかないで生きて行く事が大切になったのです。
例えば武士の魂、刀を忘れて帰ってしまったら切腹、出奔しなければならないほどの恥なのです。
恥の意識が強くなったのは、
実は世間という存在があったからだといいます
武士と言うのは全人口の10%にしかすぎません…一つの藩を考えても200人とか数百人しかいません。ですから武士の社会は狭いのです…恥ずかしい行動をすると武士階級全てに伝わってしまいます。
自分だけでなく、親も恥をかくし子にもたたります。…単に親だけでなく、先祖代々武士の名は伝わってるわけですから先祖の名を汚した事にもなるのです。
厳しい世間の目、恥を恐れる心が武士たちに過剰なまでの謙遜を強いたのです。
おそろしくおかしい行為
日本人の謎の微笑み
新渡戸稲造:ある外国人からこんな話を聞いたんです…悲しみにくれている日本人を慰めようと家を訪れた…出てきた彼は、目を真っ赤に泣きはらし頬には涙の痕が…。
しかし、彼は私を見てなぜか微笑んだ…訳を聞いても答えない。彼はその友人がおかしくなったのかと思いました。…日本人の謎の微笑みは理解できないと…。
スタジオ:「どんな困難な状態でもぐっとこらえる…むしろ耐えて笑う…これこそ時代劇でもよく見られるし、美しき日本人の表情じゃないんでしょうか」
新渡戸はこう書いています…「日本人が苦痛に耐え、かつ死に対して無頓着なのは、神経が鈍感だからだというひともいる」(『武士道』第11章 克己)
日本人は勇気という徳で苦痛があっても口に出さない、耐えるというのを学んできたのです。
礼の徳では、相手に対して自分の感情をそのままぶつけると相手が嫌な思いをするだろう…だから感情を抑えなければならない。
ですから外国人からみるとこの礼、勇気、の2つの徳が日本人というのはストイックな人間たちだと思われるのだと新渡戸は解説しています。
スタジオ:「同じアジアの中でも日本以外の国民は、けっこう悲しい局面でおお泣きして、周りの目をはばからずに泣き叫ぶ映像をみますが、日本人は確かに耐え忍びますね…それを鈍感と言われるのは不本意ですね…相手を悲しませたくない、巻き込みたくないという思いやり、恥の文化、かみ殺すのが美徳だと…」
これは文化の違いで他のアジアの国とどちらが良いか悪いかではない…日本人同士は何も言わなくとも相手の気持ちを推し量る…そして相手に尽くす…それも表立ってするのではなく、陰ながら支える。
新渡戸は微笑に付いて…「私たちにあって笑いは、逆境によって乱された心の平衡を回復しようとする努力を隠す幕だからである。それは悲しみや怒りの平衡をとるためのものである」(『武士道』第11章 克己)
逆境であるとき、どうしようもないのでとりあえず顔は笑ってそれを隠そうとする…それが日本人の姿だと新渡戸は言っているのです。
謎の微笑み…これも心の繊細さを示している事ですが、そう解釈できるのは日本人だからであって外国人は、そうは思わなかったということですね。
日本人が敏感だったからこそ忍耐を徳としたのだと新渡戸は考えました…心の平安を保つために耐える事を学んだ…「そんな日本人はどんな民族にも劣らぬほど優しいのだ」 と新渡戸は『武士道』でまとめています。
最初に武士道として結実した倫理体系は
時がたつにつれ
大衆からも追随者を呼び込んだ
武士道は大きな影響力を持ち
日本人全体に広がった
そして現代の日本人の心の
奥底にも脈々を受け継がれている
わかりにくい日本人と
今でも外国人にいわれる
そのわかりにくさを新渡戸は
『武士道』で英語で外国人に
解説したのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
NHK 100分de名著
新渡戸稲造 ”武士道” 第4回「武士道・その光と影」
日本人の美徳とされた武士道、それは明治維新後の近代化の原動力となりました…しかし軍国主義の元凶とされ、戦後は否定されてしまいます。
時代の中で様様に評価されてきた武士道を今、私たちはどう受け止めるべきか…100分で名著『武士道』指南役は、日本の近正史を専門とする山本博文さんです。
明治維新によって260年続いた徳川幕府は無くなりました…武士もその姿を消すことになります。…そして明治になると日本の近代化は急速に進んでゆきます。
実は武士道の精神こそが牽引役だったと新渡戸は言います。
東京大学史料編纂所 山本博文 教授
『イギリス人日本評論家 タウンゼントの言葉
「かの島国での変化がまったく自発的であったこと、ヨーロッパ人が日本人に教えたのではなく、日本人が自発的にヨーロッパから文武の組織の方法を学ぶ事にし、それが成功を収めてきた」(『武士道 第16章 武士はまだいきているか』より)
つまり、他のアジア人は、ヨーロッパ人から教わらなければ何もできないと思っていたが、日本人だけは、まったく自発的に進んだ文明を知ろうと動いた事は驚きであるとタウンゼントは言っているのです。
なぜこういう事が出来たかというと『武士道』では…
「劣等国と見下される事を容認できない名誉の感覚、それが最も強い動機であった。財政や産業上の考慮は、改革の過程において後から目覚めてきたのである」(『武士道 第16章 武士はまだいきているか』より)
つまり、劣等国であるとみられる事自体、名誉心の強い武士としては我慢できない…だからこそ富国であり、財政、産業、が目覚めたのだと…近代日本を作り上げたのは武士道であると新渡戸は言っているのです。』
やがて太平洋戦争が起こると武士道は国民の戦意を高める為に使われます…お国のために人々は忠義を尽くしたのです。
そして1945年、終戦と同時に日本は大きく変わりました…民主主義の時代がやってくると武士道は次第に忘れ去られて行きます。…その後、武士道はどのように受け止められて言ったのでしょうか。
現代の武士道を元国連事務次長 明石康さんが語ってくれました…明石さんが関心をもたれたのは武士道の”克己(こっき)”です。
武士道の克己とは、他人を心配させぬよう悲しみをこらえ、あえて微笑みを見せる、そんな日本人の姿を新渡戸は克己の象徴として武士道の中で紹介しています。
じつは、明石さんも同じ光景を見たといいます…それは1993年、カンボジアでの平和維持活動のさ中、日本人の若者2人が亡くなった時の事です。(国連ボランティアとして活動していた中田厚二さんら2人が亡くなる)
その内の一人、中田厚二さんの両親が現地を訪れました。
元国連事務次長 明石康さん
『ご両親が私の務めるカンボジアの本部にいらっしゃいました…ご両親は泣き崩れるんじゃないかと想像していましたが、中田さんのお父さんは、ニコニコ笑っておられる…そして「自分の息子は国際平和のために貢献して命を失ったのだから本望でしょう」と言っておられました。
その直後に国連職員200人の前でスピーチをされた…その時も淡々としてにこやかな笑いを絶やしませんでした…僕はチョット心配しました、日本人の悲しみを抑える行動が外国人にどうとられるか…しかし、中田さんの話は、非常に大きな感動を人々にあたえました。
日本人の自己抑制、理念に自分を捧げる精神…それに打たれたようです。』
東京大学史料編纂所 山本博文 教授
『当然、息子の死を聞いた時、どんな親でも泣き崩れると思うんです…しかし外に出て何か話さなきゃならない時は、ぐっと我慢して話さなきゃいけない、話してしまうし、その我慢を悟られないように微笑まで浮かべてしまう、まさに新渡戸が『武士道』で書いたような姿です』
この時、明石さんは武士道の精神が受け継がれていると感じたそうです…更に克己の徳は東日本大震災でも世界の人を驚かせました。
元国連事務次長 明石康さん
『抑制心、優しさ、他人を思う気持ちなど外国人にも感じられています…私は震災直後、シンガポールに出張しました。…有力紙が、「日本人が東日本大震災で示したのは静かなる威厳である」と書いてるんです。
これ以上の称賛は無いと思います…まさに静かなる威厳というのは、明治維新までの武士が示した良い点だと思います…克己心の現れです』
2006年、武士道を見直すべきだという書籍がベストセラーになりました。(藤原正彦著『国家の品格』)…武士道は文学や映画の世界でも度々取り上げられています。
なぜ今、武士道なのか…それは現代社会の問題が関係していました。
東京大学史料編纂所 山本博文 教授
『戦後すぐは軍国主義と結び付けられて良くないものだとされました…しかし90年代にグローバリズムが進んで年功序列、終身雇用が否定されて海外型の個人主義、能力主義が入ってきて今まで思ってきた事が変わってきてしまった。
失業、不況などが続き自信を失った…だから日本人のアイデンティティーをもう一度取り戻したい…そうなってくると品格であるとか武士道であるとかが自分たちの基礎であり、よりどころと改めて認識されたのです』
完全に絶滅する事が
武士道の運命ではありえない
その光と栄誉は
その廃墟を越えて
長く生きのびるだろう
その象徴とする花のように
四方からの風に散った後もなお
人生を豊かにするその香りで
人類を祝福するだろう(『武士道』より)
新渡戸は、武士道の精神は日本人とともに続いて行くと結んでいるのです。