白洲次郎(旧白洲邸の武相荘)
白洲次郎って言いますとNHKのスペシャルドラマになりました…伊勢谷友介(いせやゆうすけ)、中谷美紀、主演で2009年の作品です…見た方も何人かいらっしゃるんじゃないですかね。
実は白洲次郎って大変な人だったんです…戦後日本の重要なキーマンの一人です。明治35年、白洲次郎は兵庫県芦屋の実業家の家に生まれます。19歳でイギリスに渡航、ケンブリッジに学びます。
実家の家業が破綻し7年に渡るイギリス留学は終了し帰国、しかし白洲はイギリスの貴族階級の学友たちと交流を深めた事が後々財産となります。そこで身に着けたのが英国紳士の伝統でした。
昭和3年、帰国した白洲は、伯爵、樺山家の令嬢、正子と結婚、貿易業に携わり、海外を飛び回る生活を送るようになります。やがて白洲は自らの運命を大きく変える人物に出会います。妻・正子の実家、樺山家と親しかった外交官、吉田茂です。
吉田は時の政府に批判的であったため、軍部から危険人物とみなされていました。しかし、国際情勢の深い洞察から反戦を貫く吉田の姿勢に白洲は深く共鳴します。そして吉田も24歳も年下の白州の世界情勢をとらえるセンスを認め、頼りにするようになりました。
昭和16年、日本は太平洋戦争に突入してゆきます。日本の敗戦を予測していた白洲は、妻・正子に告げます。
「おれ、農業をやるよ」
やがて日本は食糧不足になると見越していたんです。そして移り住んだのが本日の目的地の旧白洲邸の武相荘(ぶあいそう)です。
ここで白洲は農作業に専念します。しかし、時代は彼を放ってはおきませんでした。敗戦の翌月、吉田茂は外務大臣に就任します…白洲は吉田にブレーンとして呼び出されたのでした…。
ここからが本題なんですけど。
皆さん、だいぶ前になりますけどNHKで放送していた「その時歴史が動いた」とういう番組ありましたよね…その中で白洲次郎を取り上げた物語がありました…題名が「マッカーサーを叱った男・白洲次郎の挑戦」…というものです。
ナレーションを文字起こししました…全文はさすがに紹介できませんから番組巻頭の部分だけ…読み上げます。
その時歴史が動いた…当時の司会、松平定知(まつだいらさだとも)アナウンサー調でお届けします。
「マッカーサーを叱った男・白洲次郎の挑戦」
20世紀初頭、ヨーロッパのカーレースを席巻したイギリスの名車、ベントレー3リッター…この最高級のスポーツカーに乗り、ヨーロッパを駆け巡った日本人がいました。完璧な英語を操るその人は、日本で初めてジーンズを履いた男ともとも言われ、晩年には世界的デザイナー三宅一誠のモデルにもなったダンディーな人物です。白洲次郎、身長185センチ、端正な顔立ちと抜群のファッションセンスを持ち合わせた男でした。
しかし、白洲次郎にはもう一つの顔がありました。政治経済の両面で戦後日本の復興を推し進めた陰の立役者だったのです。
昭和20年8月、敗戦国日本はマッカーサー率いる連合国、総司令部GHQの占領下におかれました。民間人だった白洲は、時の外務大臣、吉田茂に抜擢され、GHQと日本政府の交渉の最前線を担います。戦後日本の枠組みを決める憲法の改正、GHQは自ら作成した憲法案を日本政府に飲み込ませようとしました。
あくまで日本人自身による改正を目指した白洲は、GHQに最後まで抵抗します。(白洲の言葉が残っています)「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったわけではない」
白洲は日本を一早く自立させるため、荒廃しきった日本経済立て直しのため力を注ぎました。しかし、ここでも方針を巡ってGHQと衝突、白洲はたとえ最高権力者マッカーサーに対しても自らの信念を曲げませんでした。
(宮澤喜一 元内閣総理大臣の言葉)
「彼は占領者であったって、間違ったことは間違っていると、そういう考え方ですよ。占領者だからといって容赦しない」
GHQからは、「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれながらも、白洲は戦い続けました。そして敗戦から4年後、貿易立国日本再生を目指し、通商産業省、通産省を設立、経済大国として飛躍する礎を築いたのです。…とあります。
白洲は通産省を設立すると全ての公職から身を引きます…風のように去っていったのです。その後、彼は、日本が独立するときに非常に重要な存在感を示します。
そのエピソードを紹介して話を終わらせたいと思います。
ここからもNHKその時歴史が動いたのエンディングを松平アナウンサー調で読み上げます。
昭和26年8月31日、サンフランシスコ講和会議に出席するため吉田茂率いる全権団が出発しました。この時、一民間人になっていた白洲次郎は吉田に乞われて特別顧問として随行します。講和条約の受諾演説を行う二日前、吉田は外務省が用意していた演説原稿に目を通してほしいと白洲に頼みました。
ところがGHQの占領に対して美辞麗句を並べ、しかも英語で書かれたその原稿を見て白洲は顔色を変えます。
「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず、その晴れの日の演説原稿を相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか!」
…白洲の一括で原稿は、急遽、英語から日本語に改められ、内容も書き直される事になりました。
9月7日、吉田による講和条約受諾の演説は、堂々と日本語で読み上げられました。調印式の晩、人前でめったに涙を見せなかった白洲は、号泣したと伝えられます。
この後、白洲は東北電力会長をはじめ、実業界の要職を担いながら、戦後の経済成長を支え続けました。そして昭和60年、83歳でこの世を去ります…「葬式無用、戒名不要」…型破りに人生を駆け抜けた男らしい遺書が残されていました。
晩年、白洲が戦後の日本について語った言葉です。
「私は、戦後というものはチョットやそっとで焼失するものだとは思わない…我々が現在、声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも我々の本当の自分のものになっているとは思わない…それが本当に心の底から自分のものになった時において初めて戦後は終わったと自己満足してもよかろう」
※…白洲次郎カッコイイ…他にも沢山のエピソードがあるんです…でも「いい加減にしろ」って言われそうですのでこの辺で終わりにします…こういった男気のある凄い人物がいたことを覚えていただきたいと思います。
その他のエピソード
クリスマスの日、白洲は、昭和天皇からの贈り物を届ける為、マッカーサーを訪ねました。
マッカーサーはいいます…「適当にその辺にでも置いてくれ」…ぞんざいに扱うマッカーサーに白洲は激怒します。…「天皇からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」…その剣幕にさしものマッカーサーも慌てて謝ったといいます。
GHQが作成した憲法に対し、反論を試みるもかなえられなかった白洲が残した公文書に…「今に見ていろ、ひそかに涙する」…という言葉を残しているんです。こんな事を公文書に書き残した官僚は、後にも先にも白洲ただ一人です。
旧白洲邸の武相荘
まず武相荘に入って驚くのが”吉田茂による講和条約受諾の演説原稿の分厚い巻物”が展示されている事です。(感動しますよ…)
それ白洲のこだわりですね…自分の好きなもの、感性に会うものを使い続ける事がいかに贅沢かを知る事が出来ます。
古いものでも良いもの、使い勝手の良いものが見つかると何が何でも手に入れる…価値のわからない人からすれば、何の変哲の無いもの…そこに価値を見いだす。
そんな白洲の感性を感じる事が出来るのが旧白洲邸の武相荘です。