白洲正子(旧白洲邸 武相荘)
白洲次郎の妻で白州正子という夫人も実に興味深い女性です。
1910年、明治43年に樺山伯爵家の次女として、東京に生まれます。
祖父は薩摩出身、明治維新の立役者の一人でもある高級官僚で…父は実業家・貴族院議員。アメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に学ぶ教養人…帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍した人物です。
母方も薩摩出身の伯爵家という名門中の名門家のお嬢様として生まれました。
正子自身も14歳で単身渡米しハートリッジ・スクールに入学、アメリカではスポーツに明け暮れ、4年後に卒業、帰国後、白洲次郎と出会います。二人はお互い一目惚れであったという事です。正子は両親の反対も聞かずに白洲との結婚を強行します。
「白洲次郎と結婚させなければ家出をする」…といって脅したとの事です。
そして戦火迫る東京から鶴川村、武相荘に移転したのは、 昭和十八年のことでした。
鶴川の生活はのんびりしていましたが、正子は一介の主婦におさまってはいられませんでした。 戦後早々、美術、文芸、音楽評論家の小林秀雄・青山二郎・河上徹太郎の「特別な友情」に猛烈な嫉妬を覚えて、「どうしてもあの中に割って入りたい、 切り込んででも入ってみせる」と決心します。
酒が呑めないと罵られ、 泣かされたあげく、三度も胃潰瘍になって血を吐いたといいます。負けん気の強さは尋常ではないようですね。
随筆、小説、旅紀行など幅広い執筆活動のかたわら、銀座に染色工芸の店「こうげい」を営み、往復4時間の道を毎日通っていました。この店からは田島隆夫、古澤万千子(ふるさわまちこ)ら多くの作家が育ちます。青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかった。
骨董収集家としても有名で80歳にして、ほしい骨董はないかと眼を 光らし、骨董買いは最晩年まで続きました。親子といえどもライバルで、譲るといった手心は加えなかったそうです。 白洲正子の生涯は、最期まで「真剣勝負」だったのです。
そして1998年、平成10年、88歳でこの世を去りますが遺言には白洲次郎と同様、「葬式はせず、戒名はない」と言い残したそうです。
※…多分、今の時代でも相当異色な文化人として名を馳せていたと思いますね。
旧白洲邸 武相荘
正子がたどり着いた美は、”侘び寂びの世界”だったんだと感じました。
究極のこだわり、それが正子の目指した美でした。
白洲がこの世を去ったすぐ後に襖を入れ替えたというエピソードが残されています。
夫が生きている内は出来なかったことを死後すぐに行動に移した…正子らしい逸話だと感じました。