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占領日本・運命を決めた直談判 吉田茂とマッカーサー

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吉田茂(1878-1967)

NHK その時歴史が動いた
占領日本・運命を決めた直談判 吉田茂マッカーサー

 昭和20(1945)年8月15日正午、昭和天皇による終戦詔書がラジオ放送されました…日本はアメリカなど連合国に対して降伏することになったのです。

8月30日、日本の運命を握る人物が厚木飛行場に降り立ちました…連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーです。マッカーサーは連合国の代表として日本を占領し、徹底的な武装解除民主化の推進を行うという使命を帯びていました。

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ダグラス・マッカーサー(1880-1964)

占領軍を迎えたのは東久邇宮稔彦内閣でした…占領軍の要求を受け入れながら天皇制など戦前から続く国家体制を少しでも多く存続させるというのが東久邇宮内閣の目的のひとつでした。

しかし9月2日、横浜に司令部を置いた占領軍の通達が日本政府を震撼させます。

連合国軍総司令部布告』…これからは占領軍の軍票を通貨とし、英語を公用語とする。日本政府の行政・司法・立法の権限は、最高司令官マッカーサーのもとに置かれる。

これは日本政府を廃止し、占領軍が直接日本を統治する宣言とも受け取れるものでした…翌日、日本政府は外務大臣重光葵マッカーサーの下へ送ります。重光は占領軍が直接統治を行えば国民が混乱するとして占領政策を日本政府を通じて行う間接統治にするよう訴えます。

これに対し、マッカーサーは答えます…「自分は日本国を破壊し、国民を奴隷とする考えは持っていない。直接統治を行うかどうかは政府及び国民のでかた次第である」…マッカーサーはこの時、日本政府が協力的ならば間接統治を行うとし、通告を一旦撤回しました。

ところが重光がこの会談の内容を記者会見で語ったことにマッカーサーは激怒します…外交ルール違反だというのです…重光は更迭されました。

政府はマッカーサーとの直接交渉には慎重を要さなければならないことを痛感します…この時、新たに外務大臣に任命されたのが吉田茂でした。吉田は66歳、英語を自在に操り、イタリア、イギリスの大使を歴任したベテランの外交官でした。

戦争中、反戦を訴えて拘束されたこともありました…当時の吉田の心境を記した手紙が残されています…「この敗戦必ずしも悪からず。国民道義を高め、外交を一新し、国の再建にかければよい」…吉田は敗戦を機に日本が民主国家として再出発すべきだと考えたのです。

しかしこの頃、アメリカ議会には昭和天皇戦争犯罪人として裁こうとする決議案が提出されていました…更にソ連、オーストラリアなど連合国各国でも昭和天皇の戦争責任を追及する世論が高まります。

昭和20(1945)年9月、占領軍は東条英機ら元総理などを戦争犯罪人の容疑者として逮捕令を出します…いずれ追及の目が昭和天皇に及ぶのではないか政府では危機感が高まりました。

9月17日、GHQは首都・東京に進出、皇居の隣に司令部を構えました…同じ頃、就任したばかりの吉田外務大臣は、昭和天皇から 「マッカーサーと面会したいのでその意向を確かめるよう」 依頼されました。

吉田は就任早々、重責を背負うことになりました…マッカーサー昭和天皇との面会の意向を聞けば、それをきっかけにマッカーサー昭和天皇の処遇について言及する可能性があったのです。

9月20日午前11時、吉田は挨拶のため、マッカーサーを訪問しました…初対面の吉田を前にマッカーサーは語り始めました…「荒廃した日本を建て直すには、民主主義と良き指導者が必要である」

吉田は答えます…「日本でもイギリスの立憲君主制を規範に民主主義が発達してきた。ところが世界恐慌を機に軍国主義が台頭し、それが途絶えてしまった。この一時的な変調をもとに戻したいというのが私の考えである」

吉田は日本でも立憲君主制のもとで民主主義が行われてきた事を強調した上で日本の復興を民主主義の下で行うことについてマッカーサーに異論がない事を伝えました。

吉田は切り出します…「今日は、あなたを歓迎するという陛下の思し召しをお伝えするために来ました。あなたは陛下のご訪問を期待されるか」

マッカーサーは答えます…「陛下にお目にかかることは最も喜ばしきことです。私は陛下にお会いする際に陛下におつらい思いをさせるつもりはありません」…この時マッカーサーは占領には日本の国民感情からも天皇制が必要だと考えていました…マッカーサーの言葉に吉田は安堵します。

9月27日、一週間後、アメリカ大使館で昭和天皇マッカーサーの会見が実現しました…後にマッカーサーは、「昭和天皇は民主主義を理解する紳士であった」と述懐しています。
 

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この会見の後、マッカーサーアメリカ軍の首脳部にこう打電しています…「昭和天皇を裁判にかければ日本人の反乱が始まる恐れがある。それに備えるには100万の軍隊が必要となる」…マッカーサーアメリカ政府に天皇制存続の方針を認めさせました。

吉田茂マッカーサーは、この後74回もの会見を行います…そしてこの吉田とマッカーサーの会見が占領下の日本の行方を決定してゆく事になるのです…サンフランシスコ平和条約締結まであと6年の事でした。


吉田内閣誕生
日本の再建に立ち上がるも…

昭和21年、日本は未曾有の食糧難に見舞われていました…連合国側の食糧援助も進まず餓死者が数多く出る事も予想されていました。

連合国は、「日本の経済的な苦境は、日本国民自らの行為の結果であり、連合国はその損害復旧の負担を引き受けるべきではない」という方針でした…アメリカ本国も日本に対する懲罰的な世論が強く、食料援助に消極的だったのです。

昭和21(1946)年5月、食糧問題に対して有効な手を打てない日本政府に国民の怒りが高まります…“米よこせ” をスローガンに大規模なデモが各地で起こりました。

こうした事態の中、内閣が総辞職、5月4日、外務大臣だった吉田茂に総理大臣就任の話しが持ち上がります…当初は、「自分はいち外交官に過ぎない」と躊躇していた吉田ですが10日後、総理就任を決意します。

この時、自信が有りますか?と友人に聞かれた吉田はこう答えました…「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」…外交の力で日本を復興させたいという吉田の決意表明でした。しかし吉田は組閣に躓きます…食糧問題に取り組む農林大臣の人選が難航したのです。

5月19日ついに民衆の怒りが爆発します…25万の民衆が食料を要求し、皇居に押しかけました。この時、吉田は組閣を終えておらず無政府状態のままデモは拡大の一途をたどりました。

吉田はアメリカの食糧援助がどうしても必要だと考えていました…連合国は援助に消極的でしたがこのまま内閣が成立せずデモが拡大して暴動になれば、連合国軍最高司令官マッカーサーの統治責任が問われることになります。

この頃、吉田は側近に「あえて組閣を急がない」と漏らしたと伝えられています…組閣できないまま6日が経過、デモの拡大を恐れたマッカーサーはついに声明を発表、デモを解散させます。

その直後、吉田を呼び出したマッカーサーは、こう語りました…「自分が最高司令官である限り、日本国民は一人も餓死させない」…マッカーサーアメリカ政府に強く働きかけ、小麦の日本への緊急輸出を決定させます。

マッカーサーとの会見の後、吉田は側近に「これで内閣を作ってもいいんだ」と語り掛けました…吉田は組閣難航という問題を利用してマッカーサーを統治責任の矢面に立たせるというギリギリの駆引きにでたのです…その結果、食糧援助を引き出したと言われています。

昭和21(1946)年5月22日、農林大臣に和田を据え組閣を終えた吉田はGHQの日本民主化の方針を受けて改革と復興に取り組みます。

昭和21(1946)年10月11日、吉田内閣のもと農地改革法が成立します…これまでの農業は少数の地主が土地を独占し、一般の農民は土地を借りて耕すしかありませんでした。

この制度が戦前の軍国主義の基盤となったとGHQは考えていました…そこで政府は地主から土地を買い上げ、小作人に譲渡する『農地改革法』を成立させたのです。

昭和21(1946)年11月3日、続いて日本国憲法が公布されます…これはGHQの改正案を元に日本政府が手を加え、吉田内閣になって国会で可決されたものです。主権在民、戦争の放棄などの条項が含まれていました。

憲法の成立を急ぐ理由について質問された吉田はこう答えました…「日本としてはなるべく早く主権を回復して進駐軍に引き上げてもらいたい。そのためには連合国に対し再軍備の放棄、徹底的民主化の完成という安心感を与える必要がある。それらが根本法としての憲法の上で確立していることが望ましい」…GHQ方針と折り合いをつけながら復興を目指した吉田内閣でしたがインフレ、不況は極度に悪化し、国民は依然として苦しんでいました。

昭和22(1947)年1月、物資の欠乏と物価の急騰に対し、労働組合は賃上げとインフレ改善を求めて電力、運輸などを含めた官公庁を中心に主要産業の労働者たちが一斉にストを行う、いわゆるゼネストを計画します。

ゼネストをすればその分、確実に生産は滞ります…その結果、更なる社会的混乱が起こると考え吉田内閣にとってゼネストを回避することは緊急課題となりました。吉田は最悪の場合GHQに治安維持を要請する姿勢を見せていました。

この混乱にマッカーサーはこのような声明を発表します…「今後の日本の運命は国民自身の行動にかかっている」…マッカーサーは日本の民主化という建前から労働運動を直接弾圧することは避けたいと考えていました。日本国民と政府がこの問題を解決すべきだとしたのです。

吉田はこの時、社会党と連立して労組側を懐柔しようとします…しかし閣僚ポストを巡って話し合いは決裂、政治工作によるゼネスト回避に失敗した吉田はついにマッカーサーを訪問、ストライキ中止命令を出すように要求します。

マッカーサーは、「国民が困窮し、産業が戦災によって壊滅な状態にある時にゼネストという強硬手段を使うことは許されない」という点で吉田と一致します。

1月31日、ゼネスト予定日の前日、マッカーサーはついにゼネストの中止を指令します…政府は占領軍の力を借りることでようやくゼネストを回避する事が出来たのです。しかし自力での解決を図れなかった吉田内閣はマッカーサーの信頼を失いました。

マッカーサーは国民に民意を問うために吉田に議会の解散総選挙を要求します…総選挙の結果、吉田の自由党社会党に敗北、第2党に転落します。

昭和22(1947)年5月20日、内閣成立から僅か1年、日本の復興を目指した吉田政権は、志なかばで倒れました…サンフランシスコ平和条約締結の4年前の事でした。


GHQ内政干渉
吉田はいかに立ち向かうのか…そしてその時

昭和22(1947)年5月、吉田政権に代わり、社会党民主党の連立政権が誕生します…首班となったのが社会党片山哲でした。

マッカーサーは声明を発表します…「日本国民は個人の自由を確保し、個人の権威を高めるため極右、極左からの中間の道を選んだ」…マッカーサーは中道を掲げた新しい内閣を強く支持することを表明したのです。

この頃、マッカーサーは翌年のアメリカ大統領選挙に出馬したいという意向を持っていました…アメリカ国民に日本の民主化に成功したと印象付けるためには中道政権の誕生は好都合だったのです…しかし中道政権はまもなく迷走を始めます。

昭和23(1948)年、収賄事件で社会党民主党の閣僚が次々と逮捕され、社会に衝撃を与えました…失望した世論は内閣の総辞職を求め、野党第一党民主自由党党首・吉田茂の総理返り咲きを求める声が高まりました。

吉田はこう語ります…「もはや打ち捨てがたい状況である。本腰を打ち込み、政治建て直しのために邁進する覚悟である」…吉田はこのままでは日本の復興はおぼつかないと考え、再び政権への意欲を内外に示したのです。

しかし吉田の総理大臣就任を妨害する動きがGHQ民生局で起こります…GHQ民生局は司法、行政の専門化が集まる部署で日本の非武装民主化.を進める急先鋒でした。第一次吉田内閣時代、吉田は公職追放など民生局の占領政策を行き過ぎとして批判し、マッカーサーとの直談判を繰り返しました。

民生局はいうことを聞かない吉田が再び総理大臣となる事を阻止しようと吉田の政党を分裂させる工作を画策したのです。

民生局のチャールズ・ケーディス次長は吉田の民主自由党の幹部を呼び出します…「吉田のような保守にアメリカは絶対に政権を渡さない、吉田の下ではあなたの党には永久に日が差さない」….そして吉田の元から党員を離反させるよう圧力をかけました。

ケーディスは民主自由党幹事長・山崎猛を使って党を分裂させようとしたのです…GHQマッカーサーが吉田の総理就任を拒絶していると聞かされた民主自由党議員たちは次々と離反を承諾します。

工作開始から一週間、吉田の元にも党内の異変が伝わりました…「GHQ民生局の工作は、民主主義の原理に反する内政干渉である」…吉田は反撃を開始します。その手段は、変わりつつある国際情勢を睨んだものでした。

昭和23(1948)年、この年ベルリンが東西にぶ分裂、アメリカの資本主義陣営とソ連共産主義陣営が対立する東西冷戦が本格化していました…アメリカのロイヤル陸軍長官は、「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説、アメリカの日本に対する方針は非武装民主化から日本をアメリカの同盟国として再軍備独立させる方向へと変わり始めていました。

緊迫する国際情勢を反映してGHQ内部にも対立が起こっていました…これまで通り日本の非武装民主化を推し進める民生局と日本の共産化を恐れる軍人中心の参謀第二部の対立です。

吉田はこのGHQの内情をつかみ、GHQ参謀第二部を利用して民生局を牽制しようとしました…吉田は腹心・白洲次郎GHQ参謀第二部に送り、民生局に対して内政干渉の有無を問う質問状を出すよう働きかけました。

民生局はそのような事実はないと答えます…これによってGHQ民生局は表立って吉田の総理就任阻止工作が出来なくなりました。

昭和23(1948)年10月7日その上で民主自由党総裁・吉田茂は党の緊急役員会を開き演説します…「どこの国の政党でも総裁が総理にならず、幹事長が総理になるなどというのは民主主義ではない。こういうことをマッカーサーが強いるならば私は従う。そのかわりに私には言論の自由があるから全世界にその事を布告する。今から私自身がマッカーサーのところへ行ってその真意を確かめる」

昭和23(1948)年10月9日午後6時、GHQ民生局、そして党内の反対勢力を牽制した吉田は単身GHQ本部に乗り込み、マッカーサーとの直談判に臨みました…吉田はマッカーサー内政干渉の関与について、「これは貴下の命令か?」とただします。

これをマッカーサーは即座に否定したと伝えられています…そしてこの時、マッカーサーは吉田の総理就任を認めたのです。

マッカーサーは事件の後、イギリス大使にこう語りました…「次期総理は日本国民の問題である。自分はいささかも日本の国内政治に介入していない」…この事件を機にGHQ民生局は急激に勢力を失います。

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吉田は分裂寸前の党内をまとめたうえ、民主主義の原則を突きつけることでマッカーサーの信頼を再び得ることになりました。

昭和23(1948)年10月14日、5日後、国会の首班指名選挙で吉田は総理に選ばれました…再び政権に就いた吉田はすぐに冷戦を背景とした国際的な日本独立の動きを加速させます。

昭和26(1951)年、吉田は来日した大統領特使ダレスと日本と連合国の講和について粘り強い交渉を続けました。

昭和26(1951)年8月31日、吉田は戦後の日本の総理として始めてアメリカの土を踏みました…そしてサンフランシスコ講和会議の席上で吉田はこれまでの6年間における占領下での困難な復興への道のりを思い出しながら次のように演説しました。

「この平和条約は、復讐の条約ではなく、和解と信頼の文書であります。日本の全権は、この公平・寛大なる平和条約を欣然受諾いたします」

昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ平和条約は締結されました…ここに占領国による日本の占領終結が決定しました…この時から日本は民主的な独立国家としての道を歩み始めたのです。


吉田とマッカーサーの再会
そして吉田が残した言葉とは

昭和25(1950)年、平和条約締結の前の年、朝鮮戦争が勃発しました…マッカーサーはこの戦争の方針をめぐってトルーマン大統領と衝突、連合国軍最高司令官の地位を解任され日本を離れます。

一方、吉田は6年にわたって政権についた後、昭和29年、76歳で総理の座を退きました…退陣の年、アメリカを訪れた吉田はマッカーサーと再会します。

日本の目ざましい再建振りを報告するとマッカーサーはこれを喜び祝福しました…マッカーサーはこう回想しています。

「有能な吉田茂氏を総理として、日本国民は自ら努力し廃墟の中から立ち上がり、西欧の思想と理想に日本自身の由緒ある文化を溶け合わせた。日本はその結合から生まれた社会的権利の思想にしっかりと根を下ろした生き生きとした国に生まれ変わったのである」(『マッカーサー回想録』より)

昭和39(1964)年、東京オリンピックが開かれた年、吉田茂マッカーサーに最期の手紙を書き送りました…それはマッカーサーを日本に招待したいというものでした…「あなたの画期的な改革がいかに日本に根付いたかご覧いただきたい」…しかしマッカーサーはこの時、病に犯されていました。

昭和39(1964)年4月5日、マッカーサーは復興を果たした日本を見ることなく、この世を去りました…享年84、そして3年後、昭和42(1967)年10月20日吉田茂も89歳で世を去ります。

晩年、吉田は自らの外交方針を振り返り、こう語りました…

外交は小手先の芸でもなければ
権謀術数でもない
大局に着眼して、
人類の平和、自由、繁栄に
貢献するとの覚悟を持って
主張すべきは主張し、
妥協すべきは妥協する。
これが真の意味での外交である。

 

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