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F1マシン、その変遷とドラマ…№3(創造と攻撃)

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F1マシン、その変遷とドラマ…№3
Lotus 49 創造と攻撃

グランプリカーのデザイナーは、大きく「天才派」と「保守派」に分類される。
前者はある日、突如として思いがけないアイデアを盛り込んだマシンを作り上げる。…もちろんその多くは、決して思い通りの性能を発揮しない。

後者は、そうやってグランプリ界に持ち込まれたアイデアの内、ごく一部を見定めて磨き上げ、実用的なマシンに仕上げる。
およそ近代レーシングカーデザインの歴史は、この2大派閥が交互に良い仕事を応酬しながら進んできた。

ところが、ここにコーリン・チャップマンという男がいる。
言うまでもなくロータスを創立してグランプリの名門チームに育て上げ、惜しまれながら1982年に54歳の若さにしてこの世を去った男だ。

この男とその周辺を固めたスタッフたちは、天才的なアイデアを持ち込んでは、同時にそこから実用的な威力を引き出し、当然あるべきステップを飛び越えて時代の改革を何度か成し遂げたという点で、得意な立場にある。

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1967年にチャップマンが発表したロータス49は、まさに近代グランプリカーの基本型を決定した画期的なマシンだった。
通常、自動車の車体は4個の車輪が取り付けられたう上でエンジンを支える構造になっている。…ところが49の場合、車体を支えているのは、前輪の2個のみだ。
2個の後輪はエンジンと、それにつながるギヤボックスに取り付けられている。…その上で、エンジンボックスは車体の一部として本来の車体に結合されているのだ。

エンジンが車体の一部としてマシンの後半部の応力を受け持つこの構造は、マシンを単純軽量化する点で大きな利便を生み出した。
これ以降、現在に至るまで、あらゆるグランプリカーは、この構造を採用する事になる。

チャップマンは、ずば抜けた発想を形にまとめ上げる点で無比の才能を持った男だった。…しかし、それだけではない。
チャップマンの想像は、非常に攻撃的な側面を持ち続けいていた。…天から与えられた才能に、チャップマンは自らの攻撃性を盛り込んだのだ。
瞬く間にグランプリのチャンピオンカーとなったロータス49に、チャップマンは休むことなく次の武器を与えて更なる戦力増強を図るのだ。

まず1968年F1グランプリ第3戦、モナコGPに出場した49にノーズウィングが取り付けられた。…スポーツカーレースでは既にウィングが用いられてはいたが、F1グランプリカーに翼が取り付けられたのは、これが初めての事だ。
このウィングの効果に味をしめたチャップマンは、今度は巨大なリヤウィングを作り上げて49に取り付けた。…更に1969年には、フロントサスペンションの上方にも巨大ウィングを取り付けて、グランプリカーを翼の化物に仕立て上げてしまった。

この矢継ぎ早の留まるところを知らない発想の拡大がチャップマンのレーシングカーデザインの特徴であった。

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40は、もう一つの革命の当事者となったことで記憶されている。
デビュー当時の49は、チームの国籍を表わす緑色を基調とした塗装がなされていたが、1968年代2戦スペインGPに現れた49は、メイン・スポンサーとなったゴールドリーフ煙草のパッケージそのままの塗装を施していた。
マシンのボディーを広告用のスペースとして使う先駆けとなったのがロータス49だった。…マシンの基本構造、空力処理、広告とのかかわりという、この3点において、ロータス49は、近代F1の姿を決定したマシンなのである。

従来の流れを断ち切るように様々な革命を達成してグランプリを一挙に近代化したロータス49は、足掛け4年に渡って戦い続け、その役目を終える。

以降グランプリは大きく変質していくことになるのである。

 

筆者:大串信
この記事は、1990年3月号 Number239からの記事です…

 

 

 

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