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「グランプリ方丈記」今宮純のF1むかし話。~50年の歴史を語る~

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「グランプリ方丈記今宮純のF1むかし話。~50年の歴史を語る~
  Number 465 1999年3月11日号 文=今宮純

記憶がいい方でもないし、懐古趣味があるわけでもない。そんな僕がこんな壮大なテーマのストーリーテラーとしてふさわしいのか…

今まさに僕は99年シーズンを前に様々な資料整理やデータ分析に余念がない。少しづつゆっくりと自分をレーシングモードに変換しつつあるところだ。各紙に「99年展望」を書いている時に、1950年~1999年を史実に基づきながら振返って、昔はああだったこうだったとか言っている場合か…と思いつつも、仕事部屋に温存してある古い本や雑誌やメモなどをパラパラめくっていると、ついつい時間がたつのを忘れて深夜3時ごろまで60年代グランプリ・シーズンを彷徨う自分に呆れる。(なおこのタイムトラベルの友にはボルドー地方のカベルネ・ソーヴィニョンがうってつけで、重厚でコクがあって年月を経て熟成すると滑らかな飲み口になるから、ついつい時間も過ぎて行く)

結局F1ヒストリーに酔うわけではなく、五臓六腑にしみこむ赤ぶどう酒に酔ったところで原稿は一行も進まないのである。これじゃいけない。一念発起してまずはF1がなぜエフワンと呼ばれ、世界選手権シリーズになったか、そのあたりからフォーメーションラップを開始する。

 

日清戦争が1894年、第1回近代オリンピックが1989年。その間の1895年(明治28年)の6月11日~13日、史上初の自動車レースがパリ~ボルドー~パリ間1178キロ都市間レースとして行われた。と、物の本に書かれている。当たり前だが僕はこれを取材していない。

パリとボルドーを往復するいわば街道レース。しかし、チョット想像すればこんな無謀なレースが社会的に許されるはずがない。参加者や観衆を巻き込んだ死傷事故多発により、日露戦争の前夜、1903年に都市間レースは規制される。暴走行為と紙一重のモーターレーシングの原点だが、ここから閉鎖されたレース用周回路(サーキット)でやろうと考えた国がフランス。王道にそれるが我が日本ではいまだに暴走行為とサーキットの関係が誤解されているのには、僕自身怒りを通り越して悲しい。モータースポーツ文化の低さを痛感する…‥。

とにかくレース用周回路を設計し、そこで最初のグランプリ・レースを開催したのはル・マンである。今も24時間耐久でおなじみのこの町の公道を閉鎖、一周103.18キロコースを設けたのである。時に1906年明治39年で僕のおじいちゃんの青春時代の頃である。

何のスポーツであっても競技場の確保と、同時に競技規則の確立が発展の鍵だ。モータースポーツは、特に競うための道具、自動車の車両規定がきちんと整えられていなくてはインチキな見世物になってしまう。1906年、初めてのグランプリには32台が参加、車両規定(フォーミュラー)は車重1000kg以下とあっただけでエンジン排気量は自由だった。一つの解釈としてこれは当時の自動車技術上、車体重量が性能の大きな決め手になっていたからだとも考えられよう。

 

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かくしてグランプリ・レースはスピードの祭典として盛大に行われるようになっていった。

メーカーとメーカーの対決レースがエスカレートし、1930年代にはドイツの独裁者ヒトラー国威発揚のために自国車チームに対し、今でいうスポンサーをするまでに至った。(現在の額で20億円相当)しかしグランプリの爆音はとうとう銃声の響きとともに戦火の中で途絶える。

全速力で第二次世界大戦までの「グランプリ時代」を駆けてきたが、最近のF1ファンに驚いて欲しいのは、この30年代中期グランプリ・フォーミュラー・マシンと比較すると、最低重量はF1の600kgに対し750kg、以下3リッターNAエンジンに対し5.66リッタースーパーチャージャー付き、800馬力に対し650馬力、最高時速350kmに対し430kmと、60年以上の昔のマシンはまさに恐竜のようなものであった。

それを操るグランプリ・ドライバーに今以上の敬意が払われていたとしても僕は全く驚かない。また、1937年に開発された最新鋭のプロペラ戦闘機12試艦上戦闘機(後の零戦)と、同じ年のメルセデスベンツW125と比べても、トップスピードで時速70kmぐらいしか差がないのだ。僕は中学校の頃に「丸」と「CARグラフィック」を併読していてこれに気づいた時、ゼロ戦に迫るスピードで地上を走るグランプリ・マシンの存在を知って愕然とした。そのドイツですら連合国軍に敗れたのだから、日本はどう考えても勝てるわけがなかったのだと…‥。

 

第二次世界大戦が終わって間もなく、戦勝国側の国々ではアマチュアリズムのモータースポーツが再び始まった。

負けた国の子供の自分には到底理解できない現象だが、1947年にはFIA国際自動車連盟)が世界中のモータースポーツを統括する事になった。そして戦前までのグランプリをフォーミュラー・ワンに、やや小さめなヴォワチュレット/ライトカ―をフォーミュラー・トゥーとし、ここにF1(略称)が規定されたのだ。

47年規制のF1はスーパーチャージャー付エンジンが1.5ℓ、それ以外は4.5ℓまでとされた。戦火をまぬがれた第二次世界大戦のマシン、なかでも1.5ℓスーパーチャージャーアルファロメオは強く、戦前のライバルたるドイツ車が消え、ここぞとばかりに活躍したのは興味深い。日独伊のうち、イタリアだけがたちまちモータースポーツで復興を遂げていったのも、今日のフェラーリ人気に通ずるものがあるのではないか。

ヨーロッパ各国で個々に開催されていたグランプリを統一し、得点制によりドライバー世界一を決める、現在のような「F1世界選手権」が1950年(昭和25年)に初めてシリーズ化された。イギリスGPを皮切りに、モナコGPインディ500、スイスGP、ベルギーGP、フランスGP、イタリアGP、までの7戦が組まれた。50年5月13日、今もおなじみのシルバーストーンに英国王室からジョージ六世、エリザベス皇后、マーガレット王女の列席を仰ぎ、F1グランプリ・レースはスタートした。ロイヤルファミリーが見守るこの日、勝ったのはアルファロメオ158勢のジュゼッペ・ファリーナ、見事な1.2.3フィニッシュを決めている。英国人ドライバーではアルファに乗ったレグ・パーネルが3位、チームとしてはERAが6位にとどまったものの、大英帝国エンスージアストたちは最初のF1グランプリ開催の名誉に浸り、近いうちにイタリアーノを打ち負かす日が来るのを夢見たのであった。

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50年代、僕はまだリアルタイムでF1うぃ知らず、神奈川の田舎の小田原で鼻たれ小僧をやっていた。

ヨーロッパでF1選手権が走り出したことなんて、僕の回りで知ってい人は皆無、学校の教科書にも書かれていない(今でもそうか)。自動車そのものが夢のまた夢、ましてF1なんて、ごおくごく一部のマニアを除いて存在すら知られてなく、我が国はさながら、モータースポーツ鎖国状態にあった。

はなたれ小僧がF1を初めて意識したのは60年代に入ってからのこと。フェラーリ156という61年ワールドチャンピオン・マシンを偶然何かで知ってからだ。子供心にこの車はいかにも速そうに見え、それに美しくてカッコよく、操縦者だけのための一人乗りなのが僕をとらえた。どうやらフォーミュラー・ワン出場車というらしい、イタリア製らしい、グランプリだけを走るらしい……。だんだん少しづつフェラーリ156から手掛かりをつかみ、ヨーロッパでは世界一速いドライバーを決める夢のようなグランプリ・レースが行われているのを知るようになった。

 知れば知るほど、反面ガッカリする事がいくつも出てきた。日本という国にはサーキットが一つもない。自動車協議はなぜないのか、それじゃ巧く運転ができる人も、早く走れるクルマも生まれてこないじゃないか。外国の本や雑誌、新聞の他、数少ないF1を扱う自動車専門誌を買うため、毎月の小遣いが消えた。そうして自分で選んで50年代のF1名車ベスト3はアルファ、ベンツ、クーパーだ、などとクラスの同級生に発表しても「ナニ、それ?」。いつの世もマニアの通る道は孤独だ。ファンジオ、アスカリ、モスっていったい誰の事?…エルビス・プレスリーなら聞いた事があるけど……つい40年前はそんなものだった。

ビートルズのラブミー・ドゥなどを聴きながら、61年から大きくレギュレーション変更された1.5ℓF1時代(65年まで)に僕はのめりこんでいった。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴのようにロータス、BRM、クーパー、ブラバムなど英国コンストラクターが個性を発揮しして競い、大陸系メーカー・チームのフェラーリに挑んだ。いつしか僕はフェラーリでF1を知ったはずなのに、英国系コンストラクターのほうに興味を向けるようになった。それには自作自演の音楽活動で既成のミュージック・ビジネスに挑んだ、ビートルズの歌声がなぜがだぶった。ワークス・チーム(メーカー)よりも、強い個性を持った人間集団のプライベート・チーム(コンストラクター)にF1の主流が移って行ったのも、ちょうどこの時期である。

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しかし、そんな時代に日本からホンダがF1グランプリに打って出た。

二輪企業から自動車メーカーへ移行しようというホンダの企業戦略、とかはどうでもいいこと。僕にはとにかくチーム・ロータスジム・クラークにホンダがどこまで追いつけるか。大げさに言えば、日本と日本人のプライドを正々堂々とF1グランプリにぶつけてくれとだけ期待した。結果は、5年間(64年~68年)で35戦、2勝。故・中村良夫監督に、後になって「なんでたった2つしか勝てなかったんですか」と酔っぱらってたずねた思い出がある。ホンダF1はホンダでなければ絶対やらない方法で二つも勝ち、またホンダらしい考えには、グランプリに風穴が空いたような気がした。

受験、浪人、入学、留年、そして無事卒業の自分。F1では、J・スチュワート、J・リント、E・フィッティパルディ、そしてN・ラウダと百花繚乱だった70年代。やはり忘れられないのは、73年オランダGP初観戦取材であり、卒業後この職に就いてから3年目に富士スピードウェイで行われた76年F1世界選手権イン・ジャパンだ。書き出すと切りがないモータースポーツ・ジャーナリスト駆け出しの時代、むさぼるようにレースを見、手当たり次第にサーキットに出かけ、なりふり構わずコース脇を歩いた。

ずいぶんつらい出来事にも遭遇した。初めて一人で行ったオランダGPでは新鋭ドライバーが焼死。同年代の友人が国内レースでは次々に目の前で亡くなるなど、70年代内外モータースポーツ・シーンには、血の香りのようなものがまだサーキットのどこかに漂っていた。それを受け止め、いっかいの駆け出しジャーナリストがなんとか続けてこられた理由は何だったのか……。

ホンダが再び83年シーズンから戻ってきた80年代、日本におけるF1グランプリにまさしくターボがかかった。古き良き3ℓフォード・コスワースDFV全盛期だったフランスの1.5ℓルノー・ターボが敢然と挑戦、この新たなターボ時代を強力にリードしたのがホンダである。そしてホンダの世界制覇が日本人ドライバー、中嶋悟の87年デビューを生み、鈴鹿サーキットににおける10年ぶりの日本グランプリ実現させ、見ようと思えば誰もがほぼリアルタイムで中継放送を楽しめる世の中に変えた。一企業の成功がこの国の文化の波を呼んできたのである。

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思えば長くかかったものである。64年ホンダF1参戦から数えても二十数年、四分の一世紀の歳月が流れた。しかし、もしホンダが80年代に再復帰を決断せず、浅い日本のF1の歴史を狂わせていたらどうなっていたか……。

正直に告白するならば、77年に富士で起きた観客死傷事故の直後(結局、翌年以降の日本グランプリは中止)、自分は半分自棄になってこの国に絶望しかかったことがある。もう自分の国でF1は二度と見られず、ましてや日本人ドライバーが生まれる日なんて永遠に来ないのではないか。それが分かっているのに何もできない駆け出しジャーナリストには、「挫折」の二文字がちらついた。

87年から数えて13年、微力なジャーナリストはなんとか99年を迎える事が出来た。50回のF1世界選手権をこの目で見られる自分は幸せ者と言うべきだろう。99年、00年、21世紀へ。次の未来へ向けて進むF1グランプリを、3月7日のオーストラリアGPからまた見守って行きたい。歴史を見届けてやろうなんて大それたつもりは毛頭ない自分も、99年はあちこちで多分その事を意識するのではないか。僕らもやっと50回目のシーズンを迎えるところまで来たのである。

 

管理人より…

管理人は、この記事を書いていて2020年1月4日の今宮純氏、急逝を知った。
F1を語る上で欠かせない人物だ。…この記事を文字起こしして今宮氏がいかなる人間なのか初めて知った。
今宮氏の幼少期からのF1との出会い、学生時代、スポーツジャーナリストという職を選んだ経緯など、この記事は、F1の歴史というより、今宮純の歴史になっている。
この記事を書きながら、今宮氏の冥福を祈る…。

 

 

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