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さよならナイジェル・マンセル

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さよならナイジェル・マンセル

引退を決意した大英帝国の愛すべき息子
Number 249 1990年8月20日

「突然の発表だった。シルバーストーンでの母国イギリスGPをラスト9周でリタイアすると、マンセルは報道陣を集め、今季限りで引退すると表明した。闘志満々怖いもの知らずの果敢な走り。それでいて肝心な所でちょっとドジ……。愛すべきキャラクターで、いつもF1サーカスを盛り上げてくれたナイジェル・マンセル。今イギリスの英雄がサーキットを去ろうとしている」

クリストファー・ヒルトン=文
text Christopher Hilton
松島三恵子=訳

 

彼は何も変わっていなかった。お金も、名声も、洗練されたF1の世界も、彼には無関係であったかのように思われる。
「馬鹿な真似はしない」
と、マンセルは言ったことがある。夫人を愛しているから、他の女性と遊びで付き合ったりしないというう意味だ。

シルバーストーンの焼けるような午後の太陽の下で、マンセルはチームに別れを告げた。フェラーリは彼を落胆させた。まとわりつくようなカメラに包囲される中で、彼は呟いた。「どうして僕のクルマだけ壊れるのか……」

その後、ナイジェル・マンセルフェラーリのモーターホームでインタビューを受けるのを待っているという声が聞こえた。妙な感じがした。ドライバーはインタビューを待ったりしない。彼をインタビューするために僕らが待つのが普通だ。

イギリス人プレス関係者たちが集まると、彼はバーミンガム訛りの英語で淡々と語り始めた。「インタビューではなく、実は発表する事がある」

4か月間、彼は悩み、人に相談したりして、たった一つの結論にたどり着いた。F1を去る時期が来たのだと。

自分にとっては、家族がこの世で一番大切なものだと彼は言った。「こてからは家族第一に考えていきたい。今まで彼らには散々心配をかけてきた」「アランがチャンピオンシップを獲得できるように助ける。自分もアデレードまでにあと何回か優勝できるように頑張りたい。引退するまでに……」

 

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最も勇敢なドライバー
そしてごく普通のイギリス人

ナイジェル・マンセルには数々の神話がある。彼自身で作り上げた部分もあるし、自然にできたという部分もある。だが、その背後にいるのは、ごく普通の、よくバーミンガムのバス停などで見かけるような男だ。1980年にF1レースを始めて以来、2000万ドルもの巨額な金を稼いだ男が、これほど普通のっまでいるということは、ある種の偉業のようにも思える。大抵のドライバーたちはあのソフィスティケイトされた世界で、3ヵ国語を操るようになり、モナコの豪華マンションに移り住み、夢見るような美女を同伴するようになる。そして頭の天辺からつま先まで、世界のトップ・ブランドで飾る。だが、マンセルはデビューの頃から変わっていない。

ある意味では古臭い感覚を持つ彼は、家長としての覚悟を持っており、夫人へのインタビューもさせなかった。しかし、シルバーストーンのあの午後の彼女の明るい笑顔を見れば、彼女の気持ちは一目瞭然だ。ずっと昔、マンセルがレースに必要な資金を得るためにバーミンガムの家を売る事に同意した彼女だ。マンセルがレースで疲れ切って帰って行く家にいるのは彼女だ。彼が心から愛する3人の息子たちを生んだのも彼女である。

単純に物事を考える人々の間では、問題はマンセルがフェラーリを去った時、誰がその代わりにチームに入るのか、などという話が持ち上がるだろう。しかしその一方でマンセルの神話は語り継がれてゆく。

一番利口なのがプロスト、一番速いのがセナ、そして一番勇敢なのがマンセル、と言った人がいた。正しいと思う。マンセルはこの世界のトップ3に数えられるべきドライバーである。

「この数年間の間に、マンセルとは良い戦いをした。彼は偉大なドライバーだと思う」とあのセナでさえ言った。

マンセルは全く違った男の顔を二つ持っている。どこでもいそうな、ごく普通の男の顔と一瞬の出来事の全てを把握して分析する、怖いほど早いドライバーの顔だ。昨年のハンガリーではセナを抜き、今年のメキシコではベルガーを抜き、そして、引退を発表したシルバーストーンでは、セナを2回抜いている。

彼は、イギリス人の中に深い思いを刻み付けた。なぜなら、彼らはまさに、イギリス人の理想的存在だったからだ。スーパースターであっても、彼はヘリコプターでサーキットへ乗り付け、レース終了直後に消すような、遠い存在ではなかった。シルバーストーンでは、他のヘリコプター族たちがニースやモンテカルロへ帰るためにヒースロー空港へたどり着いたところ、マンセルはまだモーターホームで子供たちに食事を食べさせていた。

彼はごく普通のイギリス人のように話した。1年半フェラーリで過ごしても、彼はあまりイタリア語を話さなかった。イギリス人は、他の人々と英語で話すことを好むものだからだ。レースの後のテレビ・インタビューの時、プロストはイタリア人アナウンサーからの質問にはイタリア語で答える。セナも同じだ。だが、マンセルには通訳が必要だ。普通のイギリス人と同じように。

彼が若く、世界が自分を拒絶していると感じていた頃、神話は始まった。お金もなく、彼は自分を信じる他なかった。車に乗るために家を売り、レース資金のために窓拭きのアルバイトもした。その頃から、マンセルのたくましいイメージが出来上がってきた。

ブランズ・ハッチのフォーミュラー・フォード1600のレースで首の骨を折ったにもかかわらず、自分で病院を抜け出した話は有名だ。彼は看護婦にトイレに行くと告げ、そのまま病院に戻らなかった。そして、はじめてロータスのテストをした。鎮痛剤を飲みながら、マンセルはF1への門を自分の手で押し開いたのだ。

このようなたくましさが彼の人生を決めてきた。そして初めてのグランプリだったオーストラリアでは、背中にオイルが漏れ、オーバーオールに染みて彼の背を焼いた。

コンペティティブでないロータスにマンセルは苦しんだ。当時人々は、彼が優勝するなどとは、夢にも思わなかった。しかし、ウイリアムズへの移籍後、彼は見事に優勝を果たした。マンセルを雇ったウイリアムズ本人にしても、それは驚きだった。なぜなら、彼はマンセルの事をそこそこの点を稼ぐことのできる通りすがりのドライバー程度にしか見ていなかったからだ。あのフランク・ウイリアムズでさえ、マンセルが世界のトップ・ドライバーになるなんて思ってもいなかったのだ。

彼がドライバーとしての頭角を現してきたその頃でさえ、人々はいつも決まった事しか言わないマンセルに耳を貸さず、勝手な事を言っていた。

内輪の人間たちには、マンセルの普通の人と同じ態度が癇に触った。なぜ彼は普通の男の殻から抜け出せないのだ。どうしてマンセルはテレビのインタビューの最中に自分の妻へ投げキッスをしたり、泣きそうになったりするのだろうと苛立っていた。そのマンセルが、レースに優勝して、まさかメカニックに感謝したり、チームへの賛辞を言ったりするとは誰も思わなかった。

 

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イギリスの若いドライバーをこれからは育てていきたい

彼は、激しい気性の持ち物でもある。セナの胸ぐらを掴んだこともある。内輪の人間からは尊敬されていたが、友情は生まれなかった。なぜなら、彼は一匹狼だったからだ。

シルバーストーンのピットレーンでカメラに囲まれながら、なぜプロストではなく、自分のクルマだけが故障するのだと言ったあの瞬間も、彼は世界が自分を拒否してると感じていたのではないだろうか。

「どうして僕のフェラーリだけが問題を起こして、もう一台があれほど見事にレースを走り抜いてしまうのか、僕には理解できない。F1に乗り始めてから、これほどの失意を味わったことは無かった」

だがF1に乗るために全を賭けていた昔よりも、彼はずっと人間的に大きく成長していたようだ。その後にはしっかりとこう付け加えた。

「けれどフェラーリに入った事は全く後悔していない。F1ドライバーだったら、誰もが一度は運転したいと思っているチームだからね。たた、僕は政治的な問題は苦手なのでね……」

彼が引退を決意したのは、いくつかの理由があった。10年間コンスタントに世界中を旅して回っていたら、温かい家庭でゆっくり休みたいと願うのも当然だろう。グランプリの旅だけではない。テストやミーティング、その他の目的でもF1ドライバーは終始飛行機で旅をしなければならない。

数々のビジネスをしたり、F3000チームに関わったりしているマンセルはこの先、生活に困ることは無い。彼はゴルフが好きだ。彼の最後のレースとなるアデレードが終われば、嫌というほどゴルフも楽しむことができる。

しかし彼は子供が働かなくても一生暮らせるだけの資産を持っている。孫の代さえも働く必要などないかも知れない。
「これからはイギリスの若いドライバーを育てたい。僕だって、チャンスに恵まれたから、ここまで来れたんだ。若く才能のあるドライバーは沢山いるが、彼らにはチャンスが無いんだ。少しでも多くの若いドライバーに、その才能を発揮する場所を与えてあげる事が出来たらと思う」

彼は86年と87年の2回、ワールド・チャンピオンシップに手が届く所まで行った。だがもう一度、王座に挑戦するにはプロストとセナを破らなければならない。30台後半にいる彼は、その事がとても難しいことを知っている。マンセルの勇気をもってしても、これは容易な事ではない。

引退の決断は、感情的なものではなかったと彼は言う。故郷のファンの目前でフェラーリが壊れたことに怒り、とっさに口を突いて出た言葉ではなかった。彼は以前から引退を考えており、あの日を選んで発表しただけだった。発表は、イギリス・グランプリでと決めていた。タイミングももちろん大切だった。

その昔は、翌シーズンのチームが決定する前の、シーズン終わりギリギリによくドライバーが引退を表明する事はよくあったが、今の時代は違う。もし、マンセルの発表が遅すぎたら、チームは彼代わりに雇うドライバーを確保する事が出来なくなってしまう。その点マンセルはきちんとけじめをつけた。フェラーリも、我々のように彼の発言に驚いたと思ったら間違いだ。
フェラーリに反抗して、僕が引退を発表したのだろうといういう人間が必ず出てくることは分かっている。しかし、しかし断じてそうではない。これだけは言っておきたい。これは時間をかけて決めたことだ。僕にとって最も意味のあるホーム・グラウンドのシルバーストーンで皆に話そうと思っていた。本当は優勝してから発表したかったんだがね」

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これだけやって来れたんだ。
幸せなドライバー人生だった…

マンセルはオールド・ファッションのレーサーとも言える。彼の直感が彼の血を熱くした。彼に分かるのはそれだけだ。しかし、勇気があるだけ、というものではない。ベルガーに腹を立てたマンセルが、メキシコでアウトからベルガーを抜いたのも事実だ。あのままベルガーへ突っ込むか、コースアウトする危険もあった。我々はハラハラして見ていた。だがマンセルはまるでベルガーの姿などなかったように、彼を避けてもとのラインへ戻った。

思い出すと、数々のシーンが蘇ってくる。80年代初頭のシルバーストーン。レース後、ピットの壁に寄りかかって朦朧としていた彼。スパのピットで私を怒鳴りつけたマンセル。彼が優勝したイギリスGPでは、警察のオートバイの後ろに乗ってサーキットを回る途中、ネルソン・ピケを抜いたハンガー・ストレートでバイクから降りると、地面にキスをした。イギリス全土が彼を称賛した。タイヤがバーストして、3輪で走ったアデレード……。
「僕は今年で37歳だ。初めてのF1シートを手に入れた日から、もう10年たった。その間に、ロータス、ウイリアムズ、フェラーリという、名門チームで運転できたことを、とても幸運に思う。これだけやって来れたんだ。幸せなドライバー人生だった」
「だが、そろそろトップから身を引くべきだと思うんだ。それが僕のためであり、F1のためでもある。いさぎよく、若い後継者たちに道を譲ろうと思う」

あのシーンの中にいたとてつもなく早いドライバーは、最後まで、こうして淡々と語るごく普通のバーミンガムの男だった。

F1において一時代を築きながら、それでも変わらなかったマンセル。本当はこれこそが彼の神話なのではないだろうか。

 

 管理人からの解説…その後のマンセル

マンセルはフェラーリを去った後、再びF1復帰を宣言する。そしてマンセルのF1キャリアで最高の瞬間を過ごすことになる。

1991年 ウイリアムズ 16戦5勝 年間順位2位
1992年 ウイリアムズ 16戦9勝 年間1位(初の年間チャンピオンを獲得)
1993年 ウイリアムズ 4戦1勝 年間順位9位 (ウイリアムズを離れる)
1994年 マクラーレン 2戦0勝 年間順位無し(引退)

本当のマンセルを語るには1991年、1992年のウイリアムズの2年間を語らずしてマンセルは語れない。この2年間がマンセルにとって最高の瞬間だったからだ。

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キャリア最高の瞬間
1992年にチャンピオンになったこと。このシーズンを支配し、5レースを残してタイトルを決めた。

キャリア最低の瞬間
きわめて密接な関係を築いてきたロータスチームオーナーのコリン・チャップマンが1982年に亡くなったこと。マンセルのロータス時代はこれをきっかけに終わりへと向かった。

注目のコメント
「私は自分自身を世界でもほんの一握りのトップドライバーの一人だと見なしている。ベストかって? 自分がベストだと言える者などいないと思う。なぜなら、その週ごとに少し調子が良かったり、悪かったりするからだ」

「マシンに乗り込むたび、エンジンをかけるたびに心から楽しんでいる。レースで1ポンド稼げるなら、私はそれでもレーシングドライバーであり続けるだろう。貧しくてもね」

 

ナイジェル・マンセル生涯戦績
1980年 ロータス 3戦0勝
1981年 ロータス 14戦0勝 年間14位
1982年 ロータス 13戦0勝 年間14位
1983年 ロータス 15戦0勝 年間13位
1984ロータス 16戦0勝 年間10位
1985年 ウイリアムズ 16戦2勝 年間6位
1986年 ウイリアムズ 16戦5勝 年間2位
1987年 ウイリアムズ 15戦6勝 年間2位
1988年 ウイリアムズ 14戦0勝 年間9位
1989年 フェラーリ 15戦2勝 年間4位
1990年 フェラーリ 16戦1勝 年間5位
1991年 ウイリアムズ 16戦5勝 年間2位
1992年 ウイリアムズ 16戦9勝 年間1位
1993年 マクラーレン 2戦0勝

デビュー戦
ロータス 1980年8月17日 オーストラリアGP シュピールベルグ 結果リタイヤ

ラストレース
マクラーレン 1995年5月14日 スペインGP カタロニア 結果リタイヤ

 

 

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