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栄光のフェラーリドライバーズ列伝 赤い跳ね馬に乗った男たち

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栄光のフェラーリドライバーズ列伝 赤い跳ね馬に乗った男たち

フェラーリが40年の歳月をかけて積み上げてきた100勝の栄光……。その栄光を築いたのが、30人のF1ドライバーたちだった。彼らは果たして、どんな夢を ”赤い跳ね馬” に託していたのだろうか

西山平夫=文
Nunber 253 1990年10月20

 

炎をくぐり抜けた鉄人 ニキ・ラウダ
Niki Lauda

その日、モンツァ・サーキットに現れたニキ・ラウダの顔を見た人々は、誰一人として驚きを隠そうとしなかった。

2本の前歯がチョコッと出たその風貌から ”スーパーラット” と呼ばれたオーストリアの貴公子の顔は、灼熱の炎によって無残にも皮膚が溶けている。誰もがそのラウダの顔を見てあわてて目をそむけた。噂された以上の酷さだ。それに第一、ラウダがイタリアGPに出て来ること自体が信じられなかった。

1976年8月1日。この年のF1第10戦にあたるドイツGPで、前年のチャンピオンでありポイント・リーダーでもあるニキ・ラウダは原因不明のクラッシュ事故を起こし、彼の操るフェラーリ312Tと似たような色の炎の包まれ、瀕死の重傷を負った。

瀕死の……というのは誇張ではない。上半身、特に顔面に酷いやけどを負い、また、両肺も吸い込んだ炎で焼けただれ、病院のベッドの上に包帯だらけのミイラのごとき姿で横たわっていた。そのラウダの傍らには、牧師が立ち回復の祈りではなく、別の言葉を唱え始めたという。「ラウダ重体」「再起不能か?」そんなニュースが世界を駆け巡る。

幸い数日間で生命の危機的状況は去ったが、カンバックなど思いもよらない事だった。ドイツGPの前半イギリスまでに、ラウダは9戦5勝+2位2回、3位1回でポイント61。2番手につけるJ・シェクターに30点もの大差をつけ、チャンピオン街道を邁進していたが、全てはここに終わったと思われた。

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ところが事故から僅か6週間後のイタリアに、ラウダはレーシングスーツを着て現れた。死地をさまよっていたあのラウダが信じられない回復力を見せたラウダには、優勝を狙えるところまでの力強さは戻っていなかった。それでも彼は予選5位、決勝では4位に入賞。モンツァに詰めかけたティフォシ(熱狂的フェラーリ・ファン)のみならず、全ての人々に深い感銘を与えたのだった。ドライブを終えたラウダのフェイスマスクには、うっすらと血が滲んでいたという。

以来、ニキ・ラウダこそは勇気がある真のフェラーリ・ドライバーと称され、鉄人と呼ばれる事となる。

しかし、ラウダとフェラーリとの関係はこのあたりから微妙に揺れ始める。というのは、ラウダがドイツGPを含めるレースを失っていた間に、マクラーレンを駆るイギリスの新人ジェームス・ハントが台頭。ドイツ、オランダで勝って、イタリア終了時点で21点差に迫り、更にカナダ~アメリカと連勝。ラウダ66点、ハント65点の僅か3点差で10月24日、日本で初のF1グランプリが開かれた富士スピードウェイで二人は決着をつける事になったのだ。

 その決勝当日、霊峰富士はラウダとハントに土砂降りの雨を与えた。ハントは予選2番手、ラウダは3番手。スタートと同時に凄まじい水煙が立ち、その中から先頭を切ってハントが飛び出し、レースをグイグイとリードする。ラウダは?先頭集団にはいない。

3周目1台のマシンがピットロードを下ってくる。ラウダだ。ピットに戻った彼は、メカニックと短い会話を交わすと、コックピットを降りた。リタイアである。
「今日のこのコンディションではレースが出来る状態ではない。私は、王座よりも安全の方を選ぶ」そういい捨ててラウダは富士を後にした。ニュルブルクリンクでの事故以来、ラウダが安全に対して確固たる信念を持っていたことは間違いない。勇気ある行動だった。

その後ハントは一時5位までドロップ。そのままラウダの2年連続王座が決まるかに見えたが、ハントは終盤3位に浮上してチェッカー。実に1点差でラウダを下した。

この世紀の一戦は様々な話題を提供したが、意外だったのはラウダの敢然たる態度に対して、イタリアの新聞やフェラーリのファンがことごとく不満を述べ立てた事だ。ラウダはチャンピオンを目の前にしながら臆病風に吹かれ、しっぽを巻いて逃げ出した負け犬だ、フェラーリのドライバーにあるまじき敵前逃亡の好意だ……と。

イタリアGPでの英雄的カンバックに熱狂したティフォシ達が、同じくらい強い熱情でラウダを批判する。ニュルの大事故から僅か4ヶ月。ラウダは再び深い疵を負う事になる。心の中の深い奥底に。

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翌77年、ラウダはフェラーリにとどまり、失われた王座を取り戻すために走った。チームメイトは、後年ラウダが「奴は蛇のように冷たい」と評したアルゼンチンのカルロス・ロイテマンフェラーリはラウダのプライドを逆撫でするような格好で、ロイテマンをジョイント・ナンバーワンとしてチームに迎え入れたのだ。これが、ラウダとフェラーリの関係悪化を決定したものにした。

この年、ラウダは前年シーズン前半のような圧倒的早さを見せることは無かった。優勝は15戦してたったの3回。ロータスのM・アンドレッティは4勝。ハント、シェクターらも3勝づつをマークしている。しかし、ラウダは2位6回、表彰台登壇10回、6位以内12回と抜群の安定性を見せ、72点という大量点で最終戦を待たずに2度目のチャンピオンを手にした。そして終盤のカナダ、日本を走ることなく4年間在籍した名門チームに別れを告げ、ロイテマン一人となったフェラーリは、新人ジル・ヴィルヌーヴをチームに招く。

きらめくような速さから、深い洞察力に裏打ちされた確実無比の走りへ……ラウダの先方はニュルの灼熱地獄、そしてフェラーリの冷たい仕打ちという二つの魔界をかいくぐって鮮やかに転生したのだった。

84年、マクラーレンで走るラウダは、速さより強さを、攻撃より防禦を主体としたこの新戦法でチームメイトのアラン・プロストを0.5点差に下し、3度目のチャンピオンになった。そのラウダの走法は現在、外ならぬプロストに受継がれ、皮肉なことにフェラーリの復活の大きな原動力となっている。

熱い血がたぎる跳ね馬フェラーリを、理性でクールにコントロールしたラウダは、最もフェラーリ・ドライバーらしからぬ男ともいえよう。しかし、そのラウダを史上最高のフェラーリ・ドライバーと評する声もまた多いのである。

ニキ・ラウダ 1949年生まれ。オーストリア出身。同国出身のヨッヘン・リントに憧れてレースを始め、71年オーストリアGPにマーチ・フォードでF1デビュー。74年にフェラーリ入りしてから一気にその才能を開花し、75年に初のワールド・チャンピオン。76年に瀕死の重傷を負うが、翌77年に再度チャンピオン。79年で一旦レース界を去る。82年にマクラーレンから復帰し、84年、3度目の王座に着く。171戦、ポール24回、通算24勝。

 

いつだってカウンターステア ジル・ヴィルヌー
Gilles Villeneuve

その赤いマシンは富士スピードウェイのヘアピンをメロメロになりながら走っていた。F1ドライバーも玉石混淆とはいうけれど、素人目にもそのドライバーが箸にも棒にもかからない事は一目瞭然だった。名馬フェラーリを駆って予選20番手。彼より遅いドライバーは、たった4人しかいなかった。決勝レースでは名手ロニー・ピーターソンと絡んで宙を舞い、第1コーナーの外に吹っ飛んだ。

77年第2回日本F1グランプリ。ジル・ヴィルヌーヴは、こんな無様な格好で、我々日本のファンの前に姿を見せた。この年のイギリスGPで一時7位を走る鮮烈なデビューを果たしたことなど嘘のようで、2戦目のカナダでスピンしまくっていたという話を思い出し、ファンはなるほどと合点するのだった。

だが、その1年後、ヴィルヌーヴは予想を完全に裏切って、押しも押されぬグランプリ・ドライバーに成長。母国カナダGPで初優勝を遂げていた。ヴィルヌーヴの才能をその奥底まで透視していたのは世界でただ一人、エンツォ・フェラーリだけだった。

ヴィルヌーヴはデビュー以来、その攻撃的なドライビングを変えなかった珍しいドライバーである。いや、その激しさは、エスカレートする一方と言った方が正確だろう。

ヴィルヌーヴは、勝つことよりもその瞬間に完全燃焼することを選んだ。目的よりも手段の方法を優先するのが彼の哲学のようで、まあまあ無事に走り終えたな、というケースは完全に独走状態となった時だけだった。

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79年、ジョディ・シェクターのナンバーツーとして年間3勝+2位4回+5位1回という見事な成績でランキング2位。シェクターの引退に伴い、80年からはフェラーリのナンバーワンとして、いよいよチャンピオンにチャレンジする時がやって来た。

しかし、時の流れはヴィルヌーヴの傍らを通り過ぎてゆく。F1マシンは時あたかも3ℓ自然吸入式エンジンから1.5ℓターボへの過渡期にあたり、フェラーリはターボカー作りに四苦八苦。唐突に爆発的パワーの出るターボ・エンジンと、剛性のないシャーシーの組合せで、フェラーリはとんでもない暴れ馬と化した。しれに対し、ブラバムやウイリアムズといった非メーカー系チームは熟成されたコスワースV8でコンスタントな走りを目指し、同じターボカーでも、ルノーフェラーリよりはるかに洗練されていた。

ところが、この扱いにくいフェラーリ・ターボは、ヴィルヌーヴというドライバーのとてつもないマシン・コントロール能力を、よりクッキリと引き出す増幅器の役目を果たした。

コーナーというコーナーで明後日の方向へ走り出そうとするフェラーリ・ターボを、ヴィルヌーヴは派手なカウンターステアで御した。それでもコースから飛び出し、フロント・ウイングがひん曲がったり、タイヤが裂けたマシンでなおヴィルヌーヴは勝負を捨てなかった。観客はその姿に熱狂し、感動した。

81年、ヴィルヌーヴモナコとハラマで接戦の末に勝つ。いずれもツイスティなコースで、およそターボカー向きとは言えない。その不利を補ったのは、いうまでもなくヴィルヌーヴの芸術的なテクニックと、不屈の敢闘精神だった。特に、ハラマでのスペインGPは、ヴィルヌーヴ、ロイテマン、ラフィット、ワトソン、アンジェリスの5人による超接戦となったが、ヴィルヌーヴが終始トップの座を守り、誰にも先行させなかった。フェラーリのペースは、他車よりも決して早くなかったのだが、ヴィルヌーヴの卓抜したテクニックがベテラン勢を完全に封じ切ったのだ。ハンドリングの悪いフェラーリはコーナーのみならずストレートのギャップでも跳ね回り、ヴィルヌーヴのステアリングを握る両手は常にクロスしていたという。

このハラマのレースは、ヴィルヌーヴの技術と努力がビビッドにリザルトへ反映された稀な勝利だったが、同時にそれは彼にとって、この世で最後の勝利でもあった。

彼が一番憎んだのは、卑劣な行為だった。82年のサンマリノGPで、彼はチームオーダーに従いトップを走行中チームメイトのピローニのだまし討ちに遭い、2位に終わった。ピローニがピットサインを無視してヴィルヌーヴをだまし討ちに賭けたのだ。この瞬間、ヴィルヌーヴとピローニの間には取り返しのつかない亀裂が入り、遺恨試合となった次戦のベルギー予選で、ピローニのタイムを破ろうとしたヴィルヌーヴは、ヨッヘン・マスの後部に乗り上げ、地面に叩きつけられた後、コックピットから投げ出され、一瞬のうちに30歳の短い生涯を閉じた。

その後、ピローニはランキングの首位に立ったが、ベルギーの7戦後のドイツGP予選中に大クラッシュし、重傷を負ってレース界を去って行った。結果82年の王座にはグランプリ界きっての荒法師ケケ・ロズベルクがつく。豪快な走法と鼻っ柱の強さで売ったそのケケも、ことヴィルヌーヴの話になると、今でも必ずこういうのである。
「コントロールの見事さで奴にかなうドライバーは一人もいなかったよ」

かつてフェラーリのデザイナーだったハーベイ・ボスルズウエイトは、ヴィルヌーヴの事をこう回想している。
「安全な2位キープか、僅かな優勝のチャンスに賭けるか、どちらかを選ぶ事になった時、ジルは迷わず後者を選んだ。そしてクラッシュするのさ」

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ジル・ヴィルヌーヴ(事故死)満32歳没(1982年5月8日)
かつて「史上最速」と言われた伝説のF1ドライバー。1997年のF1ワールドチャンピオン・ジャック・ヴィルヌーヴの父。1977~1982年の間、(初戦を除き)全てのF1キャリアをフェラーリに投げ打った。現在の基準からすればあまりに過激なドライヴィング、「ありえない!」と言われた低迷マシンでの優勝劇などは観る者を魅了。1982年5月8日予選2日目の走行中にマシンは大破。自身は外に投げ出されフェンスに叩きつけられて死亡。その壮絶な最期とともに永遠の伝説となった。

 

永遠の記録保持者 アルベルト・アスカーリ
Alberto Ascari

50年に始まり、今年40周年を迎えたF1世界選手権には、多くの偉大な記録が作られている。しかし、そうした記録は、レースの度に塗り替えられるのが宿命でもある。

今、プロストが自分の最多記録を次々にブレイクしている。通算得点、表彰台登壇数、ファステスト・ラップ回数……これらもプロストが引退するまで彼自身の手で更新され続ける。

セナが更新しているのはポールポジション記録。おそらく今年中には50回を越えるに違いない。また、パトレーゼが出場記録を今年のイギリスで200回の大台に乗せ、レースの度ごとに自らの記録を押し上げている。

年間10回に満たなかった60年代までのグランプリ界と違って、現在では年間16戦ものレースがプログラムされており、記録は30年前に比べ、はるかに作られやすくなっているのだ。

しかし、そんな中で、セナにもプロストにも破られないだろう永遠の記録がある。連続優勝記録だ。レコードホルダーは、アルベルト・アスカーリ。スクーデリアフェラーリ創世記の超大物レーサーであるアスカーリは、1952年のベルギーGPから翌53年の同じくベルギーGPまで、勝ちも勝ったり9連勝という、とてつもない強さを発揮したのだ。もちろんドライバーズ・タイトルも2年連続でアスカーリのものだった。

これに続くのはブラバムとクラークの5連勝。現役ではセナが88年にやっと4連勝しているくらいなものだ。これでわかるだろう。

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アルベルト・アスカーリは、父子二代レーサーとして有名だ。父アントニオ・アスカーリは20年代アルファロメオのワークス・ドライバーとして活躍。24年にはイタリアGPで勝っている。そのアルファ・ワークス時代のチームメイトの一人が、エンツォ・フェラーリだったというのも何かの因縁だろう。

父アントニオに憧れてレーサーになったアルベルトは第2次世界大戦後間もなく、設立間もないフェラーリに乗り、数々のレースで圧勝してイタリアの英雄となった。51年~52年と2年連続でイタリア・グランプリを制している。

52年、フェラーリの新型グランプリカーを駆るアスカーリは、初戦のスイスGPを欠場したものの、第2戦のベルギーから出場し、最終戦イタリアまで6連勝。翌53年も初戦アルゼンチンからベルギーまで3連勝し、第4戦フランスで途切れたが、その後もイギリスとフランスで勝っている。

アスカーリの勝ちパターンは、ほとんどがポール・トゥ・フィニッシュである。マシンも優秀だったが、その性能を過不足なく引き出すテクニックあってこその連勝記録達成だった。アスカーリはその円熟期に当たる55年、フェラーリをテスト中モンツァに散った。今、モンツァの第3シケインは ”バリアンテ・アスカーリ” の名が冠せられている。

※アルベルト・アスカーリ 1918年生まれ。イタリア出身。プロレーサーの父アントニオの跡を継いで、18の時からオートバイ・レースを開始。40年にフェラーリの第1号車でミッレ・ミリアに出場し、同チームとの関係を深める。第2次世界大戦後の50年からフェラーリのグランプリカーに乗り、52年から53年に無敵の9連勝を達成、2年連続の王座につく。55年、プライベートで走行中に死亡。32戦、ポール14、優勝13回、最速ラップ11回。

 

短かった栄光 マイク・ホーソーン
Mike Hawthorn

58年のF1最終戦ロッコGPは、異様な熱気に包まれていた。チャンピオンシップが、2人のイギリス人ドライバーによって争われることになったからだ。

王者候補は二人。ラッキングトップに立つのは、フェラーリを操るマイク・ホーソーン。これを追うのは、英国製マシン、ヴァンウォールをドライブする天才スターリング・モスである。モスには優勝するしか逆転チャンピオンの道は残されていない。彼は55年から57年まで3年連続でランキング2位。早いがどうしてもタイトルをとれない男として名を馳せていた。

しかし、モスは逆境にこそ燃える。レースがスタートするや、ポールポジションホーソンを出し抜いてトップを独走。この年の最多4勝をマーク。モスは自らの持つ可能性を全て現実のものとした。だが、ホーソンもまたこのチャンスに賭けていた。彼はこのレースで、シーズン実に5回目の2位を確保。モスを1ポイント差で退け、イギリス人初のワールド・チャンピオンという名誉を手にしたのだ。

モスとホーソンは、ともに29年生まれ。そしてどちらも父親がアマチュア・レーサーだった。生まれながらにして走る環境の家にいたわけで、いわゆる ”銀のスプーンをくわえて生まれてきた” 男達である。

しかし、似たような境遇にありながら、モストホーソンとはその資質が違っていた。モスは天馬空を行くごとき速さを備えていた ”ナチュラル・ドライバー” である。が、一方のホーソンは、そこまで才走った男でははない。だが、ホーソンにはモスに勝るとも劣らない力があった。それはレース度胸の良さである。誰よりも勇敢にレースに臨み、並みならぬ情熱でライバルを叩きのめす。これこそエンツォ・フェラーリのパッションを大きく突き動かすものなのだ。

53年、フェラーリに加わった新人ホーソンは、第4戦のフランスGPで、歴史に残るデッドヒートをやってのける。フェラーリとマセラーティ、イタリアの名門2チームがこのレースで激突。数台がひと固まりとなっての、息を呑む戦いが展開された。レース終盤、51年のチャンピオン、ファン・マヌエル・ファンジオのマセラーティが後続を引き離しにかかる。それにピッタリとつくホーソン

二人の超絶接近戦はラスト・ラップにまでもつれ込んだが、チェッカー目前の最終コーナーでホーソンはファンジオの陰から脱し、1秒差に下してグランプリ初勝利を飾り、一躍人々の注目を集めた。

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チャンピオンとなった年の58年、ホーソンはかねてからの計画通り、レース界から引退した。。が、その3ヶ月後、一般道をジャガーで走っている時に立木に激突。30歳の短い生涯を終えていた。

ブロンドの髪、ハンチング、蝶タイ、そして勇猛果敢さがトレードマークだった ”大英帝国の愛すべき息子” ホーソンは、現在のマンセルのような存在だったのだ。

マイク・ホーソン 1929年生まれ。イギリス出身。アマチュア・レーサーの父を持ち、52年イギリスのニューF1クーパーとともにグランプリ・デビュー。翌53年からフェラーリに乗り、同年のフランスGPで初優勝。54年のスペインGPでも勝つ。一旦フェラーリを離れるが57年に復帰し、翌58年スターリング・モスを下してイギリス人初の世界チャンピオンになる。同年引退。翌58年に交通事故で死亡。45戦、ポール4回、優勝3回

 

イタリアの星 ロレンツォ・バンディーニ
Lorenzo Bandini

58年にマイク・ホーソンがイギリス人として初の世界チャンピオンとなって以来、グランプリ界はイギリス人ドライバーが我が世の春を謳歌することになる。

ブラバム(豪)~P・ヒル(米)~G・ヒル(英)~クラーク~ブラバム(オーストラリア)~ハルム(ニュージーランド)~スチュワート(英)……70年にオーストリア人のヨッヘン・リントが王座につくまでの実に12年間、歴代のチャンピオンはほとんどイギリス系ドライバーに占められていた。

フェラーリにしてもそうで、52年~53年のアルベルト・アスカーリ以降、優れたイタリア人のドライバーはチームにいなかった。61年、64年とフェラーリは世界タイトルを取るが、それはフィル・ヒルジョン・サーティースの手によるものだった。

そんな中で、フェラーリ・ファンの期待は一人のロレンツォ・バンディーニの双肩にかかっていたと言っても過言ではない。

1935年生まれのバンディーニは、長身でハンサム。その笑顔は映画スター級の輝きに満ちていた。まさにイタリア人好みのドライバーである。61年にイタリア人のプライベート・チームが走らせるクーパー・マセラーティに乗ってGPデビュー。翌62年からフェラーリのマシンを駆り、64年からはサーティースのナンバーツーのポジションを得、この年のオーストリアGPで初優勝を飾った。

66年にサーティースがシーズン途中でフェラーリとケンカ別れしてチームを飛び出すと、バンディーニはフェラーリのエースの座を手にした。それまでは ”ビッグ・ジョン” の陰に隠れた存在だったが、いよいよチャンピオンを目指すときが来たのだ。

67年第2戦モナコGP。バンディーニは予選2位を獲る。モナコはバンディーニがもっとも得意としたコースのひとつだ。62年3位、65~66年は2位を得ている。

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レースは軽量コンパクトなブラバム・レプコV8を駆るハルムがリード。それを重いフェラーリV12のバンディーニが追う。そして100周レースの82周目、バンディーニのマシンは海沿いのシケインでクラッシュ。フェラーリは炎に包まれ、イタリアの星は事故3日後に31歳の生涯を終えた。重いフェラーリとの格闘にバンディーニは疲れ切っており、それがアクシデントを誘ったのだという。

バンディーニ以降、チャンピオンを獲れる力量を持つフェラーリのイタリア人ドライバーは、85年、ミケーレ・アルボレートまでついぞ出現しなかった。

ロレンツォ・バンディーニ 1935年生まれ。イタリア出身。自動車のメカニックからレーサーとなり、61年、クーパー・マセラーティでグランプリ・デビュー。62年にフェラーリ入りを果たし、同年のオーストリアGPで初優勝。63年~65年の3年間、J・サーティースのナンバーツーを務め、66年中盤からエースの座に就くが、67年初戦のモナコGPで焼死。42戦、ポール1回、優勝1回を含む6位以内入賞17回をマーク。スポーツカーでも活躍。

 

橋を架けた男 ジャッキー・イクス
Jacky Ickx

67年F1第7戦ドイツGPは、一人の若いベルギー人ドライバーの活躍に沸いていた。彼は、3ℓのF1マシンに混じって、そのほぼ半分の排気量しかない1.6ℓのF2マシンを操り、一時4位を走る大健闘を見せたのだ。

当時、ドイツGPは1周22キロ余りのニュブルクリンク旧コースを使い、グランプリ・コース中最も難しいと言われていたが、予選でこのベルギー人は、なんと3番手に匹敵するタイムを叩き出していたのだ。結果はサスペンシィンを折ってのリタイアだったが、そのあっぱれな疾走ぶりは、F1関係者に強いインパクトを与えずにおかなかった。このベルギーの新鋭を、フェラーリが放っておくはずはない。

 

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68年から彼……ジャッキー・イクスはフェラーリの一員となり、この年の雨のフランスGPで初優勝。翌69年はブラバムに移籍して2勝。そして70年、イクスはエースの座を得てフェラーリに戻ってくる。

70年はロータスに乗る天才ヨッヘン・リントの速さが冴え渡り、シーズン前半で4連勝を含む5勝をマークする。だが、そのリントはイタリアGP予選中に事故死を遂げ、チャンピオン争いは、にわかに混とんとしたものになった。ブラバム、スチュワート、ハルム、レガッツォーニ、そしてイクスらが王座につく可能性を持ち始めたのだ。

イタリアに続くカナダでイクスが勝ち、これで彼がランキング2位に浮上。残るアメリカ~メキシコを勝てば、1点差で故リントを下せる。そのアメリカで、イクスは堂々とポールポジションを奪取した。

しかし、天は故リントとロータスに味方した。イクスはトラブルに足をすくわれて4位にとどまり、故リントに代わってロータスのエースの座を得た新人E・フィッティパルディが初優勝。リントは死後のチャンピオンに輝き、コンストラクターズ・カップもまたロータスのものとなるのだ。

フェラーリは65年からラウダ出現前夜の74年まで長いスランプにあった。特に、雨中のレースでは絶妙のマシン・コントロールを見せてくれた。

J・イクスはいま、ル・マン24時間6勝やパリ・ダカの勇者として名高い。だが、若き日のイクスは、リントやスチュワートをおびやかしたフェラーリ・ドライバーとして、グランプリ史上に、いぶし銀の光を放っているのだ。

※ジャッキー・イクス 1945年生まれ。ベルギー出身。父親がレース記者であったため、少年の頃から2輪のスクランブル・レースを経験。4輪に上がってすぐ、ヨーロッパF2チャンピオンになる。F1初出場は66年ドイツGP、マトラF2によるものだった。66年にフェラーリ入りし、同年のフランスGPで初優勝。69~70年、2年連続ランキング2位。F1出走116戦、ポール13回、優勝8回を含む6位入賞40回

 

泥にまみれた誠実 ミケーレ・アルボレート
Michele Alboreto

またや予選落ちするのでは……といつもヒヤヒヤ、同情されっぱなしのベテラン、ミケーレ・アルボレートを見ているのはつらい。

かつてイタリアの星と騒がれていたその当人が、いまや時にイタリアの恥と蔑まれる現実に直面すると、弱肉強食の世界とはいえ、グランプリ界の非情さに打ちのめされそうになるのだ。

アルボレートは生まれながらのファイターだ。その手腕を買われてイギリスの名門ティレル入りしたのが81年。自然吸入式3ℓエンジンから1.5ℓターボへの過渡期にあった当時、アルボレートは非力なティレルで大活躍。82年加羅83年には市街地コースでの2勝をはじめ、6位内入賞9回という健闘をみせた。その輝きぶりは現在のアレジに似ていたが、アルボレートの方が確実性において数段上だったろう。

そのアルボレートがフェラーリに引っ張られたのが84年。イタリアのファンが、アルボレートに寄せる期待にはひとかたならぬものがあった。というのも、アルボレート以前にイタリア国籍のドライバーがフェラーリに在籍したのは73年のメルツァリオが最後の例。空白の10年を経て、フェラーリにイタリア人ドライバーの伝統が戻ってきたのだ。

アルボレートは84年にベルギーで勝ち、翌85年はチャンピオン街道を突き進むことになる。実際、この年のフェラーリは強かった。

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なにしろマクラーレンプロストを相手に一歩も引かず、第11戦のオランダまで優勝2回を含む6位内入賞9回で、プロストに僅か3点リードしか許してなかったのである。タイトルはアルボレートの目前にあった。

ところが、12戦目からフェラーリの持病、すなわち信頼性のなさが露呈され、最終戦まで5レース連続無得点。フェラーリとアルボレートとイタリア国民の夢は、もろくも崩れた。

タイトルを取れなかったのは、アルボレートの責任ではなかったのにもかかわらず、翌年から彼の影は薄くなり、86年にベルガーがチーム入りしてからのアルボレートは完全な冷飯食い。88年オフには、まるでぼろ雑巾のようにフェラーリから捨てられた。

百鬼夜行フェラーリで自らの地位を保つには、ドライバーとて海千山千の政治的手腕が要るが、アルボレートはそんなものといっさい無縁だったのだ。

あまりに誠実過ぎた男アルボレートは、今でもグランプリで最も実直温厚な紳士と言われる。後方から早いフェラーリが迫った時、彼ほどキレイなマナーで自らを周回遅れとするドライバーは、他に誰もいない。

ミケーレ・アルボレート 1956年生まれ。イタリア出身。F2からF1へとステップアップし、81年サンマリノティレルからデビュー。82年ラスベガスで初優勝を遂げ、翌83年のデトロイトで2勝目をマーク。84年からフェラーリに所属。85年にはアラン・プロストとタイトルを争い、チャンピオン一歩手前までいく。86年から下降線をたどり、88年いっぱいでフェラーリを出た。F1出走144回。優勝5回。

 

名門復活請負人 アラン・プロスト
Alain Prost

「あえて無理をしないで2位をキープ。確実に高得点を得てチェッカーを受けようか……そんな気持ちがしたことも事実だったんだ」

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今年のフランスGP、アラン・プロストは勝利目前で足踏みをしていた。プロストの前にはセルリアン・ブルーも鮮やかなレイトン・ジャッドを操るイヴァン・カペリがいる。空力セッティングがピタリと決まったレイトンは、V8エンジンながら直線が速く、それよりはるかにパワーのあるフェラーリV12を堂々と封じている。プロストにチャンスがあるとすれば長い直線のミストラルから続く高速右コーナーのシーニュ~ボーセ区間なのだが、プロストの何回かの揺さぶりにもめげず、カペリは首位を渡さない。高速セクションでのバトルだけに、一歩間違えたら取り返しがつかない。安全確実を旨とするプロストのこと、一瞬、勝利をあきらめたとしても無理はないのだ。

だが、ラスト3周となった時、プロストは勝負に出た。それまでの周よりずっとカペリに接近していたプロストは、シーニュからボーセにかけてズバッとカペリのインを奪い、チェッカーに向けてひた走った。

プロスト会心の母国GP勝利は、同時にフェラーリにとっても通算100勝目の勝利だった。その二つをシンクロナイズさせるために、プロストはあえて剃刀の刃渡りのようなオーバーテイクをやってのけた。

フェラーリに、プロストのような3度もチャンピオンを獲ったビッグネームが、鳴り物入りでチーム入りした例は、過去にたった1回しかない。56年、前年で活動を中止したベンツのエース、J=M・ファンジオが加入。この年のチャンピオンとなった時だ。54年~55年と世界タイトルを取れなかったフェラーリにとって、戦力増強のために、ファンジオは欠くことのできない人材だった。

プロストフェラーリ入りも、同じような重い意味を持っている。振り返ればフェラーリは79年のシェクター以来10年間タイトルと無縁であり、コンストラクターズ・カップならも83年以来6年間遠のいている。二つの世界タイトル奪還のためにフェラーリプロストを招き、プロストもしのベクトルに沿って、たとえばフランスGPのような素晴らしい仕事をしている。名門フェラーリ再建……プロストはその象徴的存在なのだ。

プロストは涼しげな笑顔でこう言う。
「本当に強さが発揮できるのは91年からさ」

アラン・プロスト 1955年生まれ。フランス出身。ヨーロッパF3チャンピオンとなった後、80年マクラーレンでGPデビュー。81年からルノーに移籍してこの年早くも3勝。83年には王座の可能性があったが、最終戦でピケに逆転される。翌84年、マクラーレンに戻り、この年も2位。85、86年と2年連続でチャンピオンとなり、89年には3度目のタイトルを取った。90年からフェラーリで走る。

 

フェラーリ100勝の30人

50年、イギリスのシルバーストーンで初の世界F1選手権が開かれた時からその常連となった新興フェラーリが、初めてグランプリで勝ったのは51年の同じくイギリスGP。ウイナーはアルゼンチン・パンパスの雄牛のようにいかつい身体をしていたフロイラン・ゴンザレスだった。彼は体力と勇気で走るタイプだったが、当時のレースは最低でも400kmを走る一種の耐久。体力もまたドライバーの大いなる武器であり、ゴンザレスほど体力に恵まれた男は二人といなかった。彼は54年にも同じくイギリスでも勝ち、この年、母国の大先達ファン・マヌエル・ファンジオに次いでランキング2位となった。

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ファンジオといえば、56年に1年間だけフェラーリに属して、これはある一人の男の献身によるものだった。56年の最終戦イタリアで、ポイント・リーダーのファンジオはトラブルでピットイン。ランキング4位のスターリング・モスが首位に立って、このままではモスのチャンピオン濃厚となった。その時、ファンジオのチームメイトであるピーター・コリンズがピットに入り、自分のマシンをファンジオに提供したのだ。当時、同チーム内でのマシン交換は規則上許されており、コリンズはナイト精神を発揮してチームのエースを助けたのだ。ファンジオはこのマシンで2位に入り、モスを退けてチャンピオンとなる。

この年2勝し、自らもチャンピオンの権利を有しながらファンジオに王座を譲ったコリンズは、「彼より僕の方が若い。きっとまたチャンスがある」と語ったが、彼は58年のドイツGPで事故死する。この時、コリンズの前を走っていたのは同じイギリス人でバンウォールを駆るトニー・ブルックス。後方を走っていたのはコリンズのチームメートでもあり、コリンズが師とも仰いだホーソーンホーソンはこの年チャンピオンとなって引退するのだが、まるでコリンズの後を追うように自動車事故で他界する。

翌59年、ブルックスはコリンズとホーソン亡き後のフェラーリに加入。フランスとドイツで勝って、ランキング2位となった。

フェラーリのイギリス人ドライバーといえば、63年にチーム入りした2輪の世界チャンピオン、ジョン・サーティースがいる。”ビッグ・ジョン”は64年の最終戦メキシコで逆転王座を奪い、フェラーリの歴史のみならず、グランプリ史上唯一の2輪/4輪の両タイトル保持者となった。だが、サーティースとフェラーリの仲は、マシン開発をめぐって亀裂が入り、66年シーズン半ばで、サーティースはチームを飛び出した。チームがイタリア人のバンディーニを厚遇したのも、喧嘩別れの一因である。

かつてあれほどフェラーリに尽くしたイギリス人ナイジェル・マンセルが冷遇され、マラネロも門を追われるのを見ると、ついサーティースの前例を思い浮かべてしまう。しかし彼らは、不幸でありこそすれ、悲劇的ではなかった。

61年のイタリアGPで、世界タイトルに王手をかけていたフェラーリ・ドライバーが十数名の観客を巻き込んで事故死した。その悲劇のドライバーこそ、ヴォルフガング・フォン・トリップス。有名な伯爵レーサーである。トリップスはハンサムで礼儀正しく、異色のドイツ人だったが、フェラリスタに欠くべからざる勇気と肝っ玉を持っていた。しかし、61年のイタリアでトリップスはポールをとったもののスタートで出遅れ、追い上げ中に新鋭ジム・クラーク接触し、成功の絶頂から一転、悲劇の主人公となったのだ。

トリップスの死により同年のチャンピオンは自動的にチームメイトのフィル・ヒルに決まったが、この温和で知的なアメリカ人にとって、それはあまりに酷な栄光だった。”跳ね馬” に乗ったアメリカ人は、フィル・ヒルの他にフェラーリでF1生活のスタートを切ったダン・ガーニーや、リッチー・ギンサーがいる。ギンサーはヒルと同じく有能な開発者ドライバーであり、テクニシャンでもあったが、彼の才能はその後、BRMやホンダへ移ってから花開く。やはり、フェラーリ気質にピッタリするアメリカ人といえばマリオ・アンドレッティにとどめをさすが、それもそのはず、彼はアメリカへのイタリア移民の子なのだ。

アンドレッティは、フェラーリに加入した71年の初戦、南アフリカでいきなり優勝するという華々しさを見せたが、その後フェラーリではパッとしなかった。しかし、ヴィルヌーヴが亡くなりピローニも負傷した82年終盤、スポットでフェラーリに呼ばれたアンドレッティが、母国イタリアGPでポールポジションを取って見せた時、ティフォシの興奮ぶりは天にもとどくかと思われたほどだった。

60年代のフェラーリ使いでどうしても忘れがたいのは、クリス・エイモンだ。弱冠23歳でフェラーリした早熟の天才は、当時のチーフエンジニア、M・フォルギリエから「私が付き合った中で最も才能あるレーサー」とまで言われながら、フェラーリ在籍中の3年間ついに勝てなかったばかりでなく、グランプリで1回も勝つことなく故国ニュージーランドに帰った。

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似たようなケースが、85~86年とプランシング・ホースのステアリングをにぎったステファン・ヨハンソンだ。もっとも彼はアルボレートのナンバーツーだった。

エイモンとは逆に、ラッキーなレーサーもいる。それがジャンカルロ・バゲッティだ。61年にフェラーリ入りしたこのイタリア人は、生涯初のグランプリでなんと初優勝を遂げてしまう。だが、彼がF1で勝ったのはこれが最初で最後。まさに線香花火である。

アレジ獲得にこだわった理由

バゲッティの他に、フェラーリで1勝しかしなかったドライバーは、ピエロ・タルフィ(52年)、ジョゼッペ・ファリーナ(53年)、モーリス・トランティニアン(55年)、ルイジ・ムッソ(56年)、ルドビコ・スカルフィオッティ(66年)もそうだ。フランス人のトランティニアン以外、全てイタリア人というのも面白い。

フェラーリは70年代中盤にそれまでの長い低迷期を脱して黄金時代を築くが、中心的ドライバーとなったのは言うまでもなくニキ・ラウダである。そのラウダを二流チームから引っ張り上げたのはスイス人のクレイ・レガッツォーニであり、彼は6年間フェラーリで走り、自らは5勝しかしなかったが、イクスとラウダのナンバーツーとして見事なバックアップ役を果たした。また、ラウダの後任として78年にエースの座を得たアルゼンチンのカルロス・ロイテマンも、この年4勝をマークした。ラウダの陰に隠れてはいすが、レハッツォーニ、ロイテマンともにあまりに過小評価されすぎているきらいがある。

フェラーリ歴史上最大のスターであるジル・ヴィルヌーヴにまつわるエピソードはあまりに多いが、かれはやはり悲運のレーサーだ。79年にはジョディ・シェクターのナンバーツーとしてその王座獲得に力を貸し、やっと自分の出番が回って来たと思われた80年代からはマシンの戦闘力が低下。果てはディディエ・ピローニと確執の果てに、その生命をサーキットに投げ出してしまう。

そのヴィルヌーヴの代理として招かれたのが唯一無二の親友だったパトリック・タンベイだ。彼は見事にその重責を果たし、82年のドイツと83年のサンマリノで優勝。意気消沈するフェラーリ・チームに明るい希望を与え、惜しまれながら舞台を去った。一方、タンペイと同じフランス人ながら、ルネ・アルヌーの場合はいささか不思議だ。彼は83年からチームに入り、この年3勝。しかし、85年に初戦ブラジルを走ったあと突然チームを去っている。フェラーリならではの怪人事といえよう。

ターボ時代の終盤、フェラーリはホンダ・パワーの前にねじ伏せられたが、それを何度となく救ったのはゲルハルト・ベルガーである。特に87年、ホンダのお膝元の日本GPでフェラーリに37レースぶりの勝利をもたらし、88年イタリアでは、ホンダに楔を打ち込む一撃を与え、年間16戦全勝を阻止している。

さて、こうしてフェラーリのドライバーの顔ぶれを思い起こすと、一つの傾向が見える。多士済々であることは長い歴史のゆえだろうが、やはりこの名門は常に若いファイターを求め続けているということだ。その歴史を踏まえると、なぜ今年、フェラーリジャン・アレジ獲得にあれほど執心したのが分かるような気がする。

ファンジオとコリンズ、あるいはシェクターヴィルヌーヴのような黄金時代復活のイメージを、マラネロの首脳部はプロストとアレジのコンビネーションの上に重ね置こうとしているのではないか……と。

 

 

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