
小牧・長久手の戦い
戦国乱世、後に天下人となる男たちの頂上決戦が一度だけありました…「小牧・長久手の戦い」です。
羽柴秀吉と徳川家康の二大巨頭の戦い。…有名な戦いですから皆さんご存知だと思いますが…後の歴史に及ぼした意味合い、重要性が現在見直されています。
江戸時代聖地のように崇められたのが小牧山城。…神君家康公、御戦勝、御開運の地として山番をおいてみだりに一般人が入ることを禁じていました。
小牧山城には勝者の歴史が刻み込まれています。 江戸時代の歴史書は「家康の天下を取るは大阪にあらずして関ヶ原にあり、関ヶ原にあらずして小牧にあり」…小牧・長久手の戦いが後の徳川の時代をもたらしたという考え方です。
戦いの経緯
先に動いたのは秀吉です。…家康方の武将、池田恒興、森長可(もりながよし)を調略で寝返らせ、犬山城を占拠。…対して家康の動きは素早かった。すぐさま小牧山城を押さえました。
ここから本格的な軍事作戦が展開されます。
小牧山城は、元々あの織田信長が築いた城、美濃攻略のために清州から本拠地を移したほどの要衝の地。
家康はすぐに小牧山城の改修工事を実施し…大土木工事をおこなう。…3重に堀や土塁をめぐらした鉄壁の要塞が完成…近づくものは瞬時に命を落とすでしょう。
小牧山城は、秀吉が抑えた犬山城から10キロ南の地点にあります。…小牧山城から犬山城の動きが手に取るようにわかります。

対陣
天正12年(1584)3月28日、秀吉は大軍を率いて着陣、兵力10万…対して家康方1万7000…両軍のにらみ合いが始まります。
これだけの兵力差…簡単に秀吉軍が家康方を圧倒できると誰もが思いますが、当の秀吉の言葉が残っています…
「あの山を家康に取られては、味方の勝利は心もとない」
…と秀吉は言っています。
長期戦に不利は秀吉です…理由は2点
1.数は10万集めたが寄せ集め集団である
2.数か多すぎて兵糧を維持できない、補給が出来ない
そして皆様ご存知の通り、秀吉がじれて先に手を出します。
攻撃目標を難攻不落の小牧山城から、家康の本拠地、三河を直接攻撃する奇襲作戦に出ました。家康を城の外におびき出す陽動作戦です。

秀吉動く…結果は…
天正12年(1584)4月6日、2万5,000の大軍勢にて三河を攻める作戦行動を開始。…指揮するは秀吉の甥であり後の関白、三好秀次を大将に池田恒興、森長可というそうそうたる布陣。
しかしこの奇襲作戦は家康に察知されていました。家康自ら兵を率い長久手の地にて万全の態勢で向かい打ちます。
結果は池田恒興、森長可、両将を打ち取られるという秀吉方の大敗北。
流石、家康、強い…家康には勝てないと悟った秀吉は、ここから和睦の道を探る方向変換をします。
小牧長久手の戦いは後の体制を決めるための大きな意味を持つ戦いだったという事なんです。
管理人の独り言
この戦いで秀吉は、 ”家康には勝てない” と悟ったんです。この後は礼を尽くして大阪城登城を要請。…しかし家康は来ない。
三河に妹を人質に送るも家康は良い返事をくれない。とうとう母親まで三河に送り、ようやく家康は、大阪に赴くことになります。
管理人は、関ヶ原も踏破した。感じたのは、 ”家康は天下を取るべくして取った” …って事ですね。
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