旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

一乗谷

f:id:tabicafe:20200520224754j:plain

     (朝倉義景 1953-1573)

朝倉氏100年の夢…越前 朝倉氏一乗谷遺跡

福井県の越前、朝倉氏を語る上で一番の有名人は、織田信長と戦った朝倉義景です。

管理人は司馬遼太郎の戦国物は全て読破しています。物語の中で描かれた朝倉義景は、…その影響を大きく受けたNHK大河ドラマ。…またその大河ドラマの影響を受けた我々は、朝倉氏を京かぶれした ”軟弱な一族” …そして義景は、美人の側室、小少将に入れあげた好色な男になっています。…が…とんでもない!…朝倉氏は大変な武闘派の一族だったんです。

元々朝倉氏は、室町幕府細川氏、畠山氏と並ぶ三管領である斯波氏の家老として京都、越前、鎌倉まで遠征して戦い、応仁の乱では山名宗全を盟主とする西軍主力の一員として京都で軍功をあげました。

朝倉氏は越前75万石(現在の石川県と、福井県の北部)を領地とし5代100年に渡って繁栄し続けた名族です。…しかし信長にやられちゃったんですね。

戦国時代、一乗谷北ノ京とも呼ばれるほど栄えた都市ですが、織田信長の侵攻により灰燼に帰しています。

そんな朝倉氏一乗谷遺跡を解説いたします。 

 

朝倉義景織田信長

朝倉氏一乗谷遺跡を案内する前に織田信長との対決、そして顛末をおさらいしましょう。

朝倉氏と親密な関係を持った将軍の足利義輝が永禄8年(1565)阿波の三好氏らによって殺害されると、その弟で奈良の興福寺一乗院に入っていた覚慶は、朝倉義景大覚寺義俊の尽力によって近江へと逃れました。この人物が足利義昭です。

義昭は朝倉氏を頼って越前に3年にわたって逗留します。しかし義昭は結局、織田信長を頼って上洛を遂げ、将軍になりました。

織田信長は、足利将軍の名の下、朝倉氏に上洛して服従することを命じましたが、朝倉氏はこれを拒否、国境の城を固め、また本願寺延暦寺と連合を進めて信長に対抗しました。

そして信長は織田・徳川連合軍3万で越前に攻め込みますが、妹婿の浅井長政の裏切りに遭い、撤退を余儀なくされます。命からがら京まで帰った信長でしたが…信長はやられっ放しで黙っちゃいません。

姉川の戦い比叡山焼き打ち、武田信玄の急死、足利義明追放などを経て満を持して越前を攻めます。…織田軍3万と朝倉軍2万が激突!

しかし度重なる戦費で朝倉氏の財政はすでに破綻…織田軍に対抗する力はありませんでした。

天正元年(1573)8月18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧、これを焼き払った。往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は、灰燼に帰した。

手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、家臣の景鏡に促され大野郡へと移動していた朝倉義景は8月20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六松賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。

近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃した。…これにより100年続いた名族朝倉氏は滅亡したのです。

織田方は、軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井氏を滅ぼした 小谷城の戦い” へと続きます。

一乗谷に行くと現在でも発掘調査が進められています。…朝倉氏の繁栄の膨大な証拠が今でも多く地中に埋まっています。

 

一乗谷

実は一乗谷、大変防御に適した立地だったんです。

東側:一乗谷から東に見える山は、標高 475mの一乗城山です。山頂には、有事に
備えての山城、一乗谷城が築かれていました。

南側:三峰城、西側:槙山城、北側:成願寺城などの支城が配置され、一乗谷の守りを固めていました。

三方を山で囲まれ、北には足羽川を持つ地形である一乗谷は、防御にとても適しています。また、地勢的にも越前国の中央に位置しています。朝倉氏はこのような条件を踏まえて一乗谷を拠点に選び、足羽川流域にその勢力を拡大したと考えられています。

f:id:tabicafe:20200520201707j:plain

 

朝倉氏一乗谷遺跡

福井市の南東約10キロ、一乗谷にある朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏5代が103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、国の重要文化財特別史跡特別名勝に指定されています。 

それでは地図で一乗谷を説明します。
緑枠一乗谷朝倉氏遺跡資料館」「赤⇒:唐門」「青枠:義景館跡」「赤枠:復原町並」「黄枠:湯殿跡庭園」「ピンク⇒:諏訪館跡庭園」「ピンク枠一乗谷城

f:id:tabicafe:20200520211357p:plain

福井県一乗谷朝倉氏遺跡資料館
まず立寄っていただきたいのが資料館です。朝倉家100年の歴史、史跡から発掘された、国指定重要文化財を多数含む約500点の出土資料を展示しています。朝倉氏を十分勉強、理解した上で一乗谷を散策していただきたい。…100円で入れます。こちらには必ずよる事!

f:id:tabicafe:20200520212541j:plain
f:id:tabicafe:20200520212840j:plain
f:id:tabicafe:20200520212850j:plain


唐門
義景館跡の入口に建つ唐門は江戸時代に設けられた松雲院の正門。質素な中にも堂々とした気品を称える遺跡のシンボル。朝倉氏五代義景公の菩提を弔うために建てられたお寺、松雲院の正門です。江戸時代前期の建物で、豊臣家が移築寄進したと伝えられています。

f:id:tabicafe:20200520214238j:plain

 

朝倉館跡庭園(特別名勝
一乗谷の領主の館です。5代目 義景様が住み、三方が土手と濠で囲まれ常御殿、主殿、会所などの建物が真中の日本最古の花壇を囲み、その外側に台 所、 厩、蔵などが建っていました。…池の底には、平らな石が美しく敷き詰められており、池の護岸は、出入りが多く、大小さまざまな庭石で構成されています。

f:id:tabicafe:20200520215649j:plain
f:id:tabicafe:20200520215707j:plain

 

復原町並
ここでは、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路をはさんで、武家屋敷や庶民の町屋が成形されていた様子がリアルに再現されています。発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。…天皇陛下(皇太子時代)もご視察されております。
※入館料210円

f:id:tabicafe:20200520215307j:plain
f:id:tabicafe:20200520215257j:plain

 

戦国時代の荒々しい石組み 湯殿跡庭園(特別名勝
湯殿跡(ゆどのあと)庭園は、朝倉館跡を見下ろす高台にあります。戦国時代の気風を漂わせる、荒々しく勇壮な石組みが特徴です。

f:id:tabicafe:20200520214951j:plain

 

諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景の妻「小少将」の館で、その庭園は遺跡の中でも最も規模の大きいもので、中心の4m余りの巨石は、滝石組をなしており、全体に水平感と垂直感を基本にして安定感のある構成になっています。この石には、江戸時代末に彫り込まれた3代貞景、4代孝景等の法名が残されています。

f:id:tabicafe:20200520215931j:plain


一乗谷城
一乗谷城は朝倉氏の居城として知られ、一度も戦闘に使用されることなく廃城となった城でもあります。現在でも曲輪や空堀、伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っています。

また織田信長の侵攻に備えて築かれた畝状竪堀の一部も残っています。一乗谷城山麓の城下町からなる遺跡全体が国の特別史跡日本100名城に選ばれています。

 

明智神社
明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の住居跡。天正3年(1575年)、柴田勝家一向一揆を鎮めるために、現在明智神社のある東大味地区に兵を送り込もうとしたが、光秀は住民を守るため勝家に申し入れをしたと伝えられています。

現在に至るまで、東大味の人々は光秀を慕いこの神社を守り続けてきました。年に一度、光秀の命日である6月13日のみ御開帳が行われ、本尊である光秀の木像を見ることができます。明智光秀の娘・細川ガラシャ明智珠)の生誕地でもあります。
 

f:id:tabicafe:20200521140305p:plain

 

一乗滝
朝倉氏遺跡を貫いて流れる一乗谷川の上流に、落差12mの荘厳な水の糸を引く一乗滝。ここは、泰澄(たいちょう)大師が白山大権現をまつり、滝水山浄教寺を建てたところとして知られており、また、なんと佐々木小次郎燕返しをあみだしたところとなんです。

f:id:tabicafe:20200520221521p:plain

管理人の独り言

管理人は会社経営をしていた時期がありまして石川県の地場の大手と言われる会社の社長と会食をする機会がありました。
管理人:「 ”金ヶ崎の退き口” と朝倉氏の本拠地 一乗谷 へ行って来たんですよ」
社 長:「ああ私もいったよ…あんなもの見て何が楽しいのかね」
管理人:「(へ?・・・・・)」

私自身は、「ここが朝倉氏の本拠地だったんだ」と思うと熱いものがこみあげてくるような感動を覚えましたが、歴史的背景を知らない人にとってなんの面白みも無いところなんですね。…「なんかこの社長、薄っぺらい人だな」なんて思っちゃいましたよ…(笑)

という事で一乗谷”金ヶ崎の退き口” もセットで訪問すると…いっそう感動的な訪問となるでしょう。
 

f:id:tabicafe:20200329093014j:plain

秀吉が天下に駆け上るターニングポイント
”金ヶ崎の退き口”

朝倉攻めで越前に侵攻した織田軍団は、浅井長政の裏切りにより背後を着かれ撤退を余儀なくされる。…この時、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が討ち死に覚悟の殿を申し出る。金ヶ崎ってところは、戦国時代の大きなポイントの一つ。

金ヶ崎城は、大きな城ではないんです。…建物は残っていないのですが大きな城が作れるような敷地はありません。…砦って感じですかね。

こんな ”どん詰まり” 金ヶ崎城に立てこもって朝倉勢を防ぎきって見事、殿(しんがり)の役目を果たした秀吉は、やっぱ凄い。まさに死を賭した乾坤一擲の大勝負です。

そして ”金ヶ崎の退き口” ですよ。ここから京都まで朝倉勢を防ぎながら戻ったんですから大変な戦いだったと思います。

信長、家康、勝家、長秀、光秀、利家、秀吉、などがここ ”金ヶ崎の退き口” を通って京に向かったと思うとゾクゾクしますね。

 

 

 

当ブログお奨め記事

www.tabi.cafe